11.30.2008

言語をつゝしむも、亦、徳をやしなひ、身をやしなふ道なり・・・ 編集手帳 八葉蓮華

言語をつゝしむも、亦、徳をやしなひ、身をやしなふ道なり・・・ 編集手帳 八葉蓮華
 貝原益軒の「養生訓」に〈聖人は未病を治す〉とある。もとは古く中国の書物に出てくる言葉だ。心がけのよい人は病気に至る前に体を治す。予防の大切さを説いている◆〈私は毎朝歩いたり何かしているから医療費がかかってない。たらたら飲んで食べて、何もしない人の分の金(医療費)をなんで私が払うんだ…〉◆これは麻生首相の最新語録から引いた。おそらくは益軒のようなことを言いたかったのだろうと推測はつくが、社会保障制度は国民相互の助け合いで成り立ち、個人レベルの損得勘定とは違うはずである◆医療費がかからないのは幸せと感謝し、必要な人に必要な医療費を使ってもらうために一日でも長く健康を維持する努力をしたいと思う――といった優等生の言辞は首相好みではないのかも知れない。だからといって、制度のイロハを知らぬ劣等生を気取ることもなかろう◆今回のみならず、首相は酒場でつぶやく愚痴のごとき迂闊(うかつ)な発言が過ぎる。控えた方がご自身の健康のためにもよろしい。〈言語をつゝしむも、亦(また)、徳をやしなひ、身をやしなふ道なり〉。これも養生訓に書いてある。

11月30日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

11.29.2008

「北国から雪の便り」白魔はなおも跳りつづけていた・・・ 編集手帳 八葉蓮華

「北国から雪の便り」白魔はなおも跳りつづけていた・・・ 編集手帳 八葉蓮華
日本の絵画を集めた展覧会がオーストラリアで催されたとき、ひとりの男性が一枚の絵の前にじっと立ちつくし、しきりに感心していた。扇の形をした紙「扇面(せんめん)」に描かれた風景画であったという◆男性が語ることには、自分はトラックの運転手だが、「雨の日にフロントガラスのワイパーの跡から見える風景だね」と。画家の安野光雅さんが演出家の故・吉田直哉さんから聞いた話として、ある対談で語っている◆札幌市で除雪の路面電車「ササラ電車」が早くも走りはじめるなど、北国から雪の便りが届く季節になった。扇面の白い絵を前にしてハンドルを握っている方もおられよう◆路面が凍結し、タイヤが滑りやすくなる。扇の外側には神経も届きにくい。どうか気をつけて…と、季節感を愉(たの)しむ前に用心の言葉が浮かんでくるのは、痛ましい輪禍の記憶が幾つも残るなかで迎えた冬のせいだろう◆〈白魔(はくま)はなおも跳(おど)りつづけていた〉とは武田麟太郎が戦前に書いた「雪の話」の一節だが、激しい降雪はいまも新聞の見出しなどで、ときに「白魔」と呼ばれる。美しい扇形をした雪景色にも魔は潜んでいる。

11月29日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

11.28.2008

人の違うを怒らざれ。人みな心あり・・・ 編集手帳 八葉蓮華

人の違うを怒らざれ。人みな心あり・・・ 編集手帳 八葉蓮華
聖徳太子が定めたという十七条憲法の第十条に、〈人の違うを怒らざれ。人みな心あり〉とある。人がそれぞれ違っているのを咎(とが)めるなと。時代、宗教、国境を超えた普遍の戒めだろう◆日本書紀には、聖徳太子が仏教の経典を「悉(ことごと)に達(さと)りたまひぬ」(すべて悟得された)とある。漢字の表記などから国文学者の中西進さんはある対談のなかで、太子が釈迦(悉達太(シッダール)子(タ))の生まれ変わりだという考えがあったのだろう、と推測している◆インドは紙幣に17もの異なった言語で額面などを記載しているように、多言語、多民族の国家で知られる。「共生」の教えともいうべき胸にしみ入る条文の遠い淵源(えんげん)をふと、お釈迦様の国に求めてみたい心持ちになる◆そのインド西部の都市ムンバイ(旧ボンベイ)でホテルなどの公共施設を狙った同時テロが起き、日本人の会社員1人を含む100人以上が死亡した。いかなる組織が、いかなる目的で犯行に及んだにせよ、市民や外国からの訪問客に何の罪がある◆人の違うを怒らざれ。人みな心あり、命あり…。テロリストに語るむなしさを感じつつ、叫ばずにはいられない。

11月28日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

11.27.2008

日馬富士(はるまふじ)体格の不利を稽古に次ぐ稽古で克服してきた・・・ 編集手帳 八葉蓮華

日馬富士(はるまふじ)体格の不利を稽古に次ぐ稽古で克服してきた・・・ 編集手帳 八葉蓮華
ヒノキ科の常緑樹、アスナロは漢字で「翌檜」と書く。あこがれのヒノキに明日はなろう、という意味の命名とも伝えられる。その人には、大関貴ノ花(故・二子山親方)が仰ぎ見るヒノキであったらしい◆幕内で最軽量の小兵ながら真っ向から相手に挑むところ、勝っても土俵の上で表情の緩まないところ、稽古(けいこ)の虫であるところ、なるほど貴ノ花に似ている◆モンゴル出身の関脇、安馬(24)改め日馬富士(はるまふじ)が大関に昇進した。まだ十両のころ、軽量の貴ノ花が強靱(きょうじん)な足腰を頼りに大柄な北の湖や輪島と渡り合う姿をビデオで見て、「いつの日か、こういう力士に…」と志を立てたと聞く◆貴ノ花が引退した日、相撲中継で解説の玉の海梅吉さんが語っている。「精一杯重い荷物を背負って、下りのエスカレーターの階段を一段一段のぼるような、そんな努力をした男です」◆杉山邦博氏の著書「土俵の真実」(文芸春秋)の一節だが、体格の不利を稽古に次ぐ稽古で克服してきた翌檜にも、同じ階段が待っていよう。外国人力士であることをふと忘れ、古風な日本人に懐かしくも出会ったような…不思議な人である。

11月27日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

11.26.2008

“今思へば皆遠火事のごとくなり”34年前の仇討ち・・・ 編集手帳 八葉蓮華

“今思へば皆遠火事のごとくなり”34年前の仇討ち・・・ 編集手帳 八葉蓮華
ものがゆるみ、ほどけ、流動し、とけていく。名詞の「時」は動詞の「解ける」と語源を同じくする、という仮説を唱えたのは、今年7月に亡くなった国語学者の大野晋さんである◆34年の歳月を肌で知りたくて昭和史をひもといている。1974年(昭和49年)は田中内閣が金脈問題でつぶれ、巨人軍の長嶋茂雄選手が引退した年である。「狂乱物価」が流行語になり、森進一さんの「襟裳(えりも)岬(みさき)」が街に流れていた◆身を顧みれば10代の終わりで年ごろ相応に傷つき、人を傷つけもしたはずだが、時が解かしたらしい。能村登四郎さんの句〈今思へば皆遠火事(とおかじ)のごとくなり〉で、何ひとつ憶(おぼ)えていない◆元厚生次官宅を襲った男(46)は当時小学生で、飼い犬が保健所で処分されて傷ついたという。「34年前の仇(あだ)討ち」と報道機関に寄せた犯行告白のメールにある。歴代次官ら10人の殺害を計画した男にとって歳月とは何だったのだろう◆家賃をきちんと払いながらも定職はなく、収入源は不明である。誰と接し、どういう生活をしていたのか、男の謎めいた「現在」という時を解かねば、事件の終わりは見えてこない。

11月26日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

11.25.2008

日中の間で本音の議論をする芽が生まれつつある・・・ 編集手帳 八葉蓮華

日中の間で本音の議論をする芽が生まれつつある・・・ 編集手帳 八葉蓮華
亡くなった漫画家の赤塚不二夫さんは、9歳の時に中国東北部(旧満州)で終戦の日を迎えた。夕刻、カラスの大群が真っ赤な夕空を不気味に埋め尽くしていた。その赤と黒の光景が、生涯の原風景となったという◆約100人の漫画家が、みずからの終戦体験を描いた画集「私の八月十五日」(2004年刊)の中国語版が、日本側の働きかけにより人民日報出版社から近く刊行される◆赤塚さん、ちばてつやさんをはじめ、旧満州で終戦を迎えた多くの漫画家の作品も掲載されている。田舎町で玉音放送を聞いて自決の覚悟を語る家族、ソ連軍に追われての逃避行を続ける人々なども描かれている◆中国では多くの若者が日本の漫画を愛読している。その同じ若者が歴史問題では反日感情を抱いている現実もある。中国人学生の意識調査を行った筑波大学名誉教授の遠藤誉(ほまれ)さんは、「中国動漫新人類」(日経BP社)の中で指摘している◆日本人の戦争への思いを描いたこの画集は、どのように受け止められるだろうか。結果は分からないが、日中の間で本音の議論をする芽が生まれつつあることは間違いない。

11月25日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

11.24.2008

答えが見え始めてから謎がいっそう深まる“簡単でない迷路”・・・ 編集手帳 八葉蓮華

答えが見え始めてから謎がいっそう深まる“簡単でない迷路”・・・ 編集手帳 八葉蓮華
小説のなかでFBIの元捜査官が言う。解くのがむずかしい迷路も、つくるのはやさしい。まず正解の道を描いたら、あとは線を書き足して見せかけのルートをこしらえる。「答え(容疑者)がわかればパズルは簡単なものだ」と◆米国の作家ジェフリー・ディーバー「悪魔の涙」(文春文庫)の一節だが、答えが見え始めてから謎がいっそう深まる“簡単でない迷路”も現実にはある。男が正解ルートとして語る〈線〉の異様さはどうだろう◆元厚生次官宅の連続殺傷事件で無職の男(46)が出頭し、逮捕された。「昔、保健所にペットを処分されて腹が立った」と警察で供述している◆なぜ、遠い過去の恨みを無関係の元次官や夫人に向け、証拠品の凶器に運動靴まで携えて出頭し、少しも悪びれた様子がないのか。幾つもの「なぜ」を残し、軽すぎる動機と重すぎる犯行を結ぶ〈線〉はぼやけている◆常識と分別を知る殺人者など世の中にいるはずもないが、これほど愚かしい動機で縁もゆかりもない者の標的にされ、たった一つしかない命を奪われたとすれば、たまらない。言葉もなく、迷路の前に立ちつくす。

11月24日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

11.23.2008

“人物鑑定機”の洗礼を受けなくてはならない・・・ 編集手帳 八葉蓮華

“人物鑑定機”の洗礼を受けなくてはならない・・・ 編集手帳 八葉蓮華
銀行ATMの指認証機のような装置に、左右の人さし指を順に乗せる。大きな目玉に似たカメラを顔に向けられ、写真を撮られた。先日、10年ぶりにアメリカを訪ねた時に経験した入国審査である◆9・11同時多発テロ以来、米国に入るにはこの“人物鑑定機”の洗礼を受けなくてはならない。日本でも外国人の入国者は同様の機械でチェックされる。ピリピリした社会になったものだ、と嘆息せずにいられない◆飛行機に乗ったり国境を越えたりする場合には、靴の中まで調べられても、指紋を採られても、まあ、やむを得ない。世界を飛び回っている人以外は、頻繁に体験するわけでもなかろう。だが、官公庁に入るたびにいつもそんな目に遭うとしたら、たまらない◆今でもすでに、霞が関の裁判所ビルには飛行機の搭乗口と同じ金属探知ゲートが常設されているが、これは犯罪を裁く場所という特殊事情が大きい。まさか厚生労働省に入る時まで、金属探知スティックで検査されることになろうとは◆いずれ入国審査のような機械が、役所の入り口に登場するのだろうか。憎むべきは卑劣非道な犯罪者である。

11月23日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

11.22.2008

11月22日は語呂合わせで「いい夫婦の日」・・・ 編集手帳 八葉蓮華

11月22日は語呂合わせで「いい夫婦の日」・・・ 編集手帳 八葉蓮華
岡倉天心は大学で学びつつ妻帯したが、夫人はなかなか気性の激しい人であったらしい。夫が苦心して書き上げた卒業論文「国家論」を夫婦げんかでビリビリに裂いて捨ててしまった◆夫は仕方なく2週間のやっつけ仕事で「美術論」をまとめ、提出期限に間に合わせた。「天心の人生コースはここで決まったのかも知れない」と、孫の岡倉古志郎(こしろう)さんが「歴史よもやま話」(文春文庫)で語っている◆のちに日本美術院を創設する偉才を美術の道に導いたとすれば、夫婦げんかもそう捨てたものではない。きょう11月22日は語呂合わせで「いい夫婦の日」という◆明治安田生命保険が約1200人の既婚男女に夫婦関係を漢字で表現してもらったアンケート結果をみると、結婚15年目までの人は「幸」あるいは「愛」という回答が多く、そこを過ぎると「忍」の一字に入れ替わる◆古志郎さんによれば祖父は晩年、祖母から晩酌はお銚子(ちょうし)1本と決められていた。天心は家族の前でコナン・ドイルの推理小説を語り聞かせ、佳境に入ったところで沈黙して「もう1本…」と催促したという。“忍”にも戦術がある。


11月22日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

11.21.2008

鏡屋の前に来て ふと驚きぬ 見すぼらしげに歩むものかも・・・ 編集手帳 八葉蓮華

鏡屋の前に来て ふと驚きぬ 見すぼらしげに歩むものかも・・・ 編集手帳 八葉蓮華
石川啄木には「そういえば自分も…」と読む人を物思いに誘う歌が多い。この一首もそうだろう。〈鏡屋の前に来て/ふと驚きぬ/見すぼらしげに歩むものかも〉◆終電の車窓やエレベーター奥の鏡に自分を見つけ、人相の悪さにドキリとすることがある。それでいて普段は、ひとの人相に内心あれこれ文句をつけている。身近に鏡がないことは、能天気に暮らす条件かも知れない◆「医師には社会的常識がかなり欠落している人が多い」。麻生首相が公式の場でそう述べた。不明朗なカネや見識を疑う放言で閣僚が性懲りもなく入れ替わる昨今、「政治家には…」と聞き違えた人もいたはずである。官邸には鏡を置くべきだろう◆日本医師会の抗議を受けて「不適切な言葉遣い」を謝罪したが、特定の職業集団をあげつらっての侮辱は差別にもつながるもので、後味の悪い失言である◆いずれは総選挙という有権者の「鏡」に身を映す。漢字の読み方に言葉遣いと、首相の仕事が小学生の勉強並みに大変なことは分かるが、つまらない失言をしていて啄木と同じ感慨に浸りはしないか。ひとごとながら気にかかる。

11月21日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

11.20.2008

社会そのものに牙をむく許しがたい蛮行・・・ 編集手帳 八葉蓮華

社会そのものに牙をむく許しがたい蛮行・・・ 編集手帳 八葉蓮華
古代中国の遊説家、張儀は盗っ人と間違われて傷だらけにされたことがある。満身創痍(そうい)の身となって「わが舌を視(み)よ、なお在りや」(私の舌はまだあるか)と妻に問うた。あると聞いて、「足れり」(十分だ)と述べたという◆民主主義というものに思いが及ぶたび、史記の一節が浮かぶ。行政の不手際や不始末で社会が傷を負うこともある。自由に物を言う国民の「舌」があれば、しかし、治癒に「足れり」と◆世の中をより良く変えていく道具は発言する「舌」であり、法を見る「目」であり、一票を投じる「指」である。刃物を握る「手」では断じてない◆厚生労働省の元次官宅が相次いで襲われ、さいたま市では夫妻が刺殺され、東京・中野では妻が刺されて重傷を負った。年金などで不祥事の続いた厚生行政に不満を持つ者の仕業かどうかは不明だが、社会そのものに牙をむく許しがたい蛮行である◆事件を受けてメディアに求められるものは、政治や行政の批判を手控えることではなく、批判すべきは節度と責任をもってきちんと批判していく姿勢だろう。わが舌を視よ――張儀の言葉を胸に繰り返す。

11月20日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

11.19.2008

一生を台無しにしてまで、飲まねばならない酒がどこにある・・・ 編集手帳 八葉蓮華

一生を台無しにしてまで、飲まねばならない酒がどこにある・・・ 編集手帳 八葉蓮華
大昔、神前に供える酒は女性がコメを噛(か)み砕き、唾液(だえき)で発酵させた。民俗学者の柳田国男によれば主婦を「オカミ」と呼ぶのも、酒造りの職人「杜氏(とうじ)」と主婦を表す古語「刀自(とじ)」が似た音であるのも、そこに由来するという◆いける口のご亭主にしてみれば、うまい酒を造ってくれる杜氏さんと、「また飲んだの?」と鋭くひと睨(にら)みする刀自さんが同根の語とは、いささか不思議に思えるかも知れない◆杜氏が新酒を醸す寒造りの季節であり、ボージョレ・ヌーボーの解禁は迫り、忘年会のうわさもちらほら聞こえてくる時期である。左党に乾杯の口上を申し上げたいところだが、酒の飲み方を知らぬ馬鹿者(ばかもの)が多いこの冬は言葉が浮かばない◆残忍きわまる酒酔いひき逃げ・引きずり事件のあとは、警視庁警視の泥酔当て逃げだという。飲酒運転撲滅キャンペーンを担当していたと聞いて耳を疑った人も多かろう◆グラスや盃(さかずき)を手にする以上は、読んで字のごとく「刀自」、心に自ら刀をあてて身を律することを忘れまい。ひとの命を奪ってまで、自分の一生を台無しにしてまで、飲まねばならない酒がどこにある。

11月19日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

11.18.2008

夢にても逢ふこそ嬉しけれ・・・ 編集手帳 八葉蓮華

夢にても逢ふこそ嬉しけれ・・・ 編集手帳 八葉蓮華
〈こは夢か…〉と老人は疑う。これは夢なのか、〈夢にても逢(あ)ふこそ嬉(うれ)しけれ〉と。幼いころ、人さらいに連れ去られ、行方知れずになった息子と年老いてめぐり会う物語、能の「木賊(とくさ)」である◆市川トミさんに、その時は訪れなかった。1978年(昭和53年)8月、鹿児島県・吹上浜のキャンプ場から北朝鮮の工作員に拉致された市川修一さん(当時23歳)の母である。再会を夢に見つつ、91歳で亡くなった◆河村官房長官は記者会見で「慚愧(ざんき)の念に堪えない」と述べている。国民に信を問うこともできず、内政で打ち出す政策ひとつにドタバタを演じる麻生政権が北朝鮮に足元を見透かされ、なめられているのは確かだろう◆〈こは夢か〉と狂喜の涙に濡(ぬ)れながら、帰還したわが子を胸に抱きしめる瞬間を、被害者の家族は一日千秋の思いで待っている。その人たちも老いていく。圧力であれ、圧力を背景にした対話であれ、行動の伴わない「慚愧の念」ならば意味がない◆91歳といえば普通は、長寿に恵まれての大往生と評される年齢だろう。その訃報(ふほう)には、ただ「嗚呼(ああ)」の一語をおいて語る言葉を知らない。

11月18日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

11.17.2008

恐怖のジェットコースター・・・ 編集手帳 八葉蓮華

恐怖のジェットコースター・・・ 編集手帳 八葉蓮華
アメリカで4年に1度、注目を集める経済指数がある。大統領選の行方を占う指標とされる「ミザリーインデックス」である◆日本語訳は「悲惨指数」「窮乏指数」と悲壮感が漂うが、要は物価上昇率と失業率を足した数字のことだ。これが10を超えると、米国民は経済失政に怒り、政権交代を望むという。8年ぶりに民主党のオバマ氏が大統領選を制した今年、指数は6月から10を超えている。歴代大統領では、指数が高かったフォード、カーター両政権は短命だ◆政権交代との因果関係は定かでないが、指数が上がると政府の無策を嘆く人が増えるのは間違いない。実は、日本も6を超え、1980年代前半以来の高さになっている。経済政策への不信感は、相当に強いに違いない◆注目の指数をもうひとつ。シカゴの取引所が算出している「恐怖指数」は、相場が急降下、急上昇を繰り返すと上がる。米同時テロの混乱時でさえ40台だったが、先月は80ほどに跳ね上がった◆恐怖のジェットコースターが転がり出さぬよう踏ん張れるか。ワシントンの金融サミットに集結した各国首脳の有言実行にかかっている。

11月17日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

11.16.2008

百俵の米を多数の者に分け、食いつぶして何が残るのだ・・・ 編集手帳 八葉蓮華

百俵の米を多数の者に分け、食いつぶして何が残るのだ・・・ 編集手帳 八葉蓮華
「百俵の米を多数の者に分け、食いつぶして何が残るのだ」。戊辰(ぼしん)戦争の痛手に苦しむ長岡藩の大参事・小林虎三郎は、縁戚(えんせき)の藩から届いた見舞いの米を分けろと迫る藩士たちを諭した◆山本有三が戯曲で描いた名場面が、新潟県長岡市の公園にブロンズの群像で再現されている。長岡藩は百俵を元手に学校を建て、人材を育てた。小泉純一郎元首相が所信表明で引き合いに出し、一躍有名になった「米百俵」の逸話だ◆連想するのは、政府の給付金構想である。2兆円を皆で分けて何が残る、と言うつもりはない。一人1万2000円、子どもと高齢者はさらに8000円、心待ちにしている人も多いだろう。だが、政治のドタバタぶりには気が萎(な)える◆「この百俵が、米だわらでは見積もれない尊いものになるのだ」と虎三郎は言い切った。信念をもって分配するなら、この言葉に負けない迫力で効果を説かねばならない◆米百俵の像は、竹下内閣の「ふるさと創生事業」の交付金1億円を使って作られたそうだ。20年前のばらまき施策にも賛否両論あったが、ともかく政治の神髄を伝えるモニュメントは残した。

11月16日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

11.15.2008

逆さまに行かぬ年月よ・・・ 編集手帳 八葉蓮華

逆さまに行かぬ年月よ・・・ 編集手帳 八葉蓮華
源氏物語の千年紀にあたる今年はアーサー・ウェイリーの名前をよく目にし、耳にした。初めて英訳し、源氏の価値を世界に認めさせた英国の東洋学者である◆生前、何度も訪日の誘いを受け、政府が国賓に準ずる待遇を用意したこともあったが、そのたびに本人が感謝しつつ辞退し、ついに実現しなかった。「どうか、そっと日本を愛しつづけさせてほしい」、そう語ったと、英文学者の外山滋比古(とやましげひこ)さんが随筆「作者の顔」に書いている◆現実の姿に触れ、胸に育ててきた幻影を傷つけたくないというのだろう。年賀状を書く準備に住所録を整理しながらウェイリーの言葉を思い浮かべている◆書いた記事にお便りを頂戴(ちょうだい)したのが縁で、顔も声も知らないまま10年以上も賀状のやりとりをしている方が何人かいる。「どうか、そっと…」の心境はお互い一緒らしく、一度お顔を、という話はどちらからも出ない◆年始のあいさつに添えて、定年退職したことを告げる人、老いを嘆く人、想像のなかの顔にも歳月が刻まれていく。〈逆さまに行かぬ年月よ〉(若菜下)。光源氏の声が聞こえるのはこういう宵である。

11月15日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

11.14.2008

狙い通りの景気浮揚効果が望めるものやら・・・ 編集手帳 八葉蓮華

狙い通りの景気浮揚効果が望めるものやら・・・ 編集手帳 八葉蓮華
NHKが昔、ある人気俳優に密着して芸と素顔を特集したとき、俳優が番組のなかで「作者のイズは…」と3回語った。意図――イトである◆放映後、NHKの用語委員会で議題になり、再放送ではテロップで「イト」と流すべきだ、いや、俳優が気の毒だ、と会議がもめた。委員長の国文学者、池田弥三郎氏が「単純なイト・イズ・ミステークということで…」と収め、テロップなしで決着したという挿話が残っている◆漢字の読み間違いというのは指摘する側も気まずいもので、なにか心ない行為をしているかのようなシュンとした気分になる。相手が首相でも変わらない◆「踏(とう)襲(しゅう)」を「ふしゅう」、「頻繁(ひんぱん)」を「はんざつ」、「未曽有(みぞう)」を「みぞうゆう」と、麻生首相が国会答弁などで誤った言葉遣いを連発しているという。いずれも慌てるあまりの単純な読み間違い、言い間違いだろう◆国語力をそう恥じる必要はないが、「定額給付金」をめぐる政府・与党の迷走をなすすべもなく傍観した指導力は恥じていい。狙い通りの景気浮揚効果が望めるものやら、「意図・イズ・ミステーク」の香りが濃厚である。

11月14日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

11.13.2008

13年前の痛みを知る県の知事が使う言葉ではない・・・ 編集手帳 八葉蓮華

13年前の痛みを知る県の知事が使う言葉ではない・・・ 編集手帳 八葉蓮華
朝鮮戦争で日本は特需に沸き、「ガチャ万」という言葉が生まれた。工場の機械をガチャと動かせば1万円が儲(もう)かると。ことほどさように、ひとの不幸を身の幸運とする「火事場泥棒」めいた非情な仕組みが世の中にあるのは事実である◆とはいえ、隣家の丸焼けが待ち遠しいとばかりに、火事の起きる前から舌なめずりをする“おばかさん”はいない。そう思いきや、世間は広いものである◆兵庫県の井戸敏三知事が近畿ブロック知事会議で「関東大震災は(関西経済の)チャンスだ」と述べた。一語をとらえての批判は趣味に合わないが、13年前の痛みを知る県の知事が使う言葉ではない◆旧自治省の役人時代には、同僚が病気や事故で倒れる日をチャンスとして待ち望んでいたのかしら…と、要らぬ想像をしてみる。思惑を腹に隠しておけない正直な人らしいが、友人にはあまり持ちたくないお方である◆東京でこれを書いている。直下型の大地震で都内の44万棟が全壊し、約4700人が死亡する、との被害想定がある。不幸にして現実になれば、兵庫の知事さんからは救援物資と一緒に祝電が届くだろう。

11月13日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

11.12.2008

壮士気取りの「職業的精神に欠けた」論客は要らない・・・ 編集手帳 八葉蓮華

壮士気取りの「職業的精神に欠けた」論客は要らない・・・ 編集手帳 八葉蓮華
旧陸軍では軍需品の輸送兵(輜重輸卒(しちょうゆそつ))を〈輜重輸卒が兵隊ならば蝶々(ちょうちょ)とんぼも鳥のうち〉と見くだした。旧海軍では情報を統括する軍令部第三部を〈腐れ士官の捨てどころ〉と揶揄(やゆ)した◆「補給」と「情報」という戦略・戦術の基本を軽視し、壮士風の政論を好む。かつての日本ほど「専門的、職業的精神に欠けた、政治的な」軍隊を持った国はないと、米国の政治学者サミュエル・ハンチントン氏が著書「軍人と国家」に書いている◆日本が侵略国家だったというのは濡(ぬ)れ衣(ぎぬ)――と、政府見解と異なる論文を発表して解任された田母神(たもがみ)俊雄・前航空幕僚長がきのう、国会の参考人質疑で「自衛隊員にも言論の自由はある」と述べた。それは違う◆首相は自衛隊の最高指揮官で、政府見解はその人の明確な意思である。気にくわなければ制服を脱ぐしかない。たとえば首相が「不戦の誓い」を語り、自衛隊の幹部が言論の自由を盾に「我々には別の持論がある」と異を唱えることを想像してみれば、その異様さは容易にわかる◆専門的、職業的精神が自衛官の誇りだろう。壮士気取りの「政治的な」論客は要らない。

11月12日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

11.11.2008

死ぬ瞬間まで活動の本舞台を未来に求め続けよ・・・ 編集手帳 八葉蓮華

死ぬ瞬間まで活動の本舞台を未来に求め続けよ・・・ 編集手帳 八葉蓮華
相馬雪香(そうまゆきか)さんが小学生のとき、授業で教師が述べた。「桜は日本人の魂である。魂を売った国賊がいる」。米国に3000本の桜を贈ったのは相馬さんの父、東京市長の尾崎行雄である◆体制批判を貫いた政治家の娘に世間の目は冷たい。食糧難の終戦直後、ひもじがる4人の幼子を抱え、頭を下げて農家を歩いた。「国賊の娘に食わす物はない」。返ってくるのは判で押したような言葉であったという◆父親譲りの熱い血と反骨精神が逆境を糧に変えたのだろう。難民の救援活動などを通して紛争地域の戦禍克服に身を尽くし、相馬さんが96歳で亡くなった◆“憲政の神様”は〈人生の本舞台は未来にあり〉という言葉を残している。蓄えた知識と経験を世に捧(ささ)げるべく、死ぬ瞬間まで活動の本舞台を未来に求め続けよ、と。「難民を助ける会」の現職会長として生涯を現役で通した娘を、天上の父はねぎらいの微笑で迎えたことだろう◆相馬さんが生まれた1912年(明治45年)は尾崎が米国に桜を贈った年である。ポトマック河畔の春をいまも彩る同い年の木々に似て、風雪に耐えて咲いた花の生涯をしのぶ。

11月11日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

11.09.2008

「119番の日」悲しいニュースが相次いでいる・・・ 編集手帳 八葉蓮華

「119番の日」悲しいニュースが相次いでいる・・・ 編集手帳 八葉蓮華
〈救急車の御利用を 子供さん達(たち)のお怪我(けが)などにも〉。1936年(昭和11年)の小紙にそんな見出しがあった。日本赤十字社東京支部が救急車の活用を呼びかけているという記事だ◆導入当初、「路上の大怪我は救急自動車で」とPRしたため、交通事故以外は呼べないと誤解されたらしい。記事には「日赤では一寸(ちょっと)したかすり傷にも利用することを望んでゐ(い)る」とある◆そんな時代もあったのかと驚くばかりだが、もちろん救急体制の草創期の話だ。戦後間もなくから「救急車足りぬ」「患者タライ回し」などの記事が頻出する◆60年代の読者投稿欄では「軽症者の救急車要請は断る仕組みにせよ」「症状の軽重は簡単に判断できない。規制には反対だ」と論争になった。以来、何十年も変わらぬ議論が続いている。これにも驚く◆きょうは日付に因(ちな)んで「119番の日」。救急隊員や医療関係者はだれもが懸命なのに、悲しいニュースが相次いでいる。救急医療のあり方、大切さを改めて考えずにはいられない。濫用(らんよう)しないよう自戒しつつ、いざという時に必ず助けてくれる119番であり続けてほしいと願う。

11月9日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

11.08.2008

創業家一族は経営の一線から身を引いた・・・ 編集手帳 八葉蓮華

創業家一族は経営の一線から身を引いた・・・ 編集手帳 八葉蓮華
別れにもいろいろある。源義経は兄に疎まれて諸国を流浪した。明智光秀は天下人になろうとして主君織田信長に逆心を抱いた◆義兄の松下幸之助氏と袂(たもと)を分かって三洋電機を興した井植歳男(いうえとしお)氏は、ときに「義経」、ときに「光秀」と世間で陰口を言われたらしい。実際には円満な独立であったといい、「(自分にも義兄にも)迷惑な話である」と、自叙伝「私の履歴書」(日本経済新聞社刊)に書いている◆後年、義兄と同じ飛行機に乗り合わせた折、「世間の誤解を解くために一つの仕事を一緒にやろう」、そう語り合った、とある。こういう形の“一つの仕事”を予期していたかどうか。三洋電機がパナソニック(旧・松下電器産業)の子会社になるという◆三洋電機では昨年、歳男氏の孫にあたる社長が経営不振の責任を問われ、創業家一族は経営の一線から身を引いた。幸之助氏の興した松下電器産業は先月、世界の優良企業に飛躍するべく社名から松下の名前を消した◆「松下」と「井植」、創業家が色あせたのち、故人同士が交わした機上の約束が実を結ぶ。歳月はいつも皮肉な仕掛けを用意している。

11月8日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

11.07.2008

黴臭いにおいが鼻先をかすめた・・・ 編集手帳 八葉蓮華

黴臭いにおいが鼻先をかすめた・・・ 編集手帳 八葉蓮華
明治天皇が軍人に下賜した「軍人勅諭」に〈(軍人は)政治に拘(かかわ)らず…〉とある。以下、〈只々一(ただただいち)途(ず)に己(おの)が本分の忠節を守り〉と続くのをみれば、「政治にかかわらず」が「関与せず」の意味であるのは疑問の余地がない◆それを「時の政治がどうであれ、意に介することなく」と都合よく読み替えた軍人たちが、無謀な昭和戦争に道をひらいたのは歴史の教えるところである◆時の政治がどうであれ――の黴臭(かびくさ)いにおいが鼻先をかすめた。「わが国が侵略国家だったというのは濡(ぬ)れ衣(ぎぬ)だ」等々、政府見解と異なる論文を発表して航空幕僚長が更迭されたが、ひとりの逸脱ではなかったらしい◆「真の近現代史観」をテーマとする懸賞論文は空幕教育課が全国の部隊に応募要領を通知し、幕僚長のほかにも78人の航空自衛隊員が応募したという。組織を挙げて奨励した経緯と背景を防衛省は解明する責任がある◆論文の内容に一理ある、ないの話ではなく、中国や韓国が怒る、怒らないの話でもなく、ましてや退職金を返納する、しないの話ではない。政治をないがしろにする空気はありや、なしや。その一点である。

11月7日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

11.06.2008

肌の色という壁をひとつ乗り越え・・・ 編集手帳 八葉蓮華

肌の色という壁をひとつ乗り越え・・・ 編集手帳 八葉蓮華
ライルという名前のひどく凶悪な殺人犯が刑務所にいる。出所する可能性を問われて、ある男が答えた。あり得ない話さ。「ライルが出てくるよりも、黒人がホワイトハウスの主(あるじ)になるほうが先だろうよ」◆米国の人気推理作家ジェフリー・ディーバー「12番目のカード」(文芸春秋)の一節である。小説が世に出た3年前にはまだ、黒人の大統領は「起こり得ぬこと」の代名詞であったろう◆バラク・オバマ上院議員(47)が米大統領選を大差で制した。すべての人の平等をうたった1776年の独立宣言、1863年の奴隷解放宣言などとともに、黒人大統領の誕生は歴史に刻まれる偉大な1行に違いない。米国の国内はいま、「起こり得ぬこと」を起こし得た興奮に包まれている◆「変革」を旗印に掲げるオバマ氏が大統領として政策の何を変え、何を変えずに守るのかは、いまだ明らかでない。米国の一挙一動が密接に国益と絡み合う日本が手放しで祝賀熱に浮かれていられないのも事実である◆そのことは胸に留めつつ、きょうは、いまは、肌の色という壁をひとつ乗り越えた米国の人々に心から拍手を送る。

11月6日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

11.05.2008

「おいしいお酒」を頂戴したあとでは・・・ 編集手帳 八葉蓮華

「おいしいお酒」を頂戴したあとでは・・・ 編集手帳 八葉蓮華
ドイツ文学者の高橋義孝さんは、親しく接した作家の内田百ケンに蔵出しの名酒を一升贈ったことがある。のちに百ケンに会ったとき、ひどく怒られたという◆ふだん飲んでいるお酒が、ああいうおいしいお酒を頂戴(ちょうだい)したあとでは飲めなくなる。「迷惑します」。苦情を言われたと、随筆「実説 百ケン記」に書いている。偏屈で知られた作家らしい挿話だが、顧みれば人生を彩る成功も、到来物の「おいしいお酒」に似ているかも知れない◆1990年代に超売れっ子の音楽プロデューサーとして一世を風靡(ふうび)した小室哲哉容疑者(49)が、5億円を詐取した疑いで逮捕された。かつては年収が推定で30億円を超えていた人である◆数年前からヒット曲に恵まれず、海外事業も失敗し、多額の借金を背負った。そののちも「クレジットカードの支払い数千万円」「マンション家賃280万円」といった派手な暮らしぶりは変わらなかったといわれる◆おいしいお酒が切れたあと、いちど肥えた舌が身の丈に合う元の酒に戻るのは容易でない。転落の傷口を広げただろう。「成功」という美酒ほど、酔い方のむずかしい酒はない。

11月5日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

11.04.2008

木造アパート、トキワ荘の日々・・・ 編集手帳 八葉蓮華

木造アパート、トキワ荘の日々・・・ 編集手帳 八葉蓮華
まとめ買いしたフランスパンを朝昼晩にかじり、二人で机を並べて漫画を描く。寒い夜は布団を頭からかぶり、睡魔に襲われると、ペン先で互いの太ももを刺し合った◆東京・椎名町の木造アパート、トキワ荘の日々を「藤子不二雄」のおふたり、安孫子素雄(あびこもとお)(74)、藤本弘(96年逝去)の両氏は自叙伝のなかで回想している◆手塚治虫さんがここから天空高く羽ばたき、まだ少年の面影を残す石ノ森章太郎さんや赤塚不二夫さんがひな鳥の時期を過ごした。若手漫画家の梁山泊と呼ばれた伝説のアパートである。藤本さんとの合作「オバケのQ太郎」や一人で描いた「忍者ハットリくん」などで知られる藤子不二雄(A)――安孫子さんが秋の叙勲で旭日小綬章に選ばれた◆藤子不二雄を名乗る以前、「足塚不二雄」というペンネームを付けていた時期がある。「手塚先生の“手”に遠く及ばぬ“足”である」と。神のごとく仰ぎ見た手塚さんの生誕80年にあたるきのう、受章が報じられた◆赤塚不二夫さん(享年72)が亡くなって間がない。悲しみにつけ、喜びにつけ、トキワ荘から流れた歳月のしのばれる秋である。

11月4日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

11.03.2008

金融立国を目指して失敗した・・・ 編集手帳 八葉蓮華

金融立国を目指して失敗した・・・ 編集手帳 八葉蓮華
北極圏に接する世界最北の小さな島国がアイスランドだ。氷河があり、火山活動も活発で、「氷と火の島」とも呼ばれる。景観が月に似た自然が魅力だろう◆首都のレイキャビクは「煙たなびく湾」の意味という。かつてアイスランドへの移住民が、火山近くの温泉から噴き出る湯煙をみたことに由来する。しかし、今、アイスランドから立ち上るのは、米国発の金融危機が真っ先に飛び火して燃えさかる炎だ◆もともとは漁業が中心だったのに、ここ数年、金融立国を目指して失敗した。リード役だった銀行部門が、国内総生産(GDP)の数倍にのぼる巨額の負債を抱え、国の財政が破たん寸前だ。非常事態宣言が出され、国際的な支援を仰いでいる◆国家の懐が火の車となり、国民が凍える「氷と火の島」への転落は、皮肉な結末だろう。素朴な漁業国が背伸びして、ハイリスクなマネーゲームに火傷(やけど)したツケは大きい◆オーロラの季節を迎えたアイスランドでは、緑や赤の幻想的な光の帯を「ノーズル・リョス」(北極の光)と呼んで親しむ。危機を脱する光明を探りながら、オーロラを見上げる日が続く。

11月3日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

11.02.2008

社会の余裕は大切にしたい・・・ 編集手帳 八葉蓮華

社会の余裕は大切にしたい・・・ 編集手帳 八葉蓮華
景気は“気”から、という。経済学のかなりの部分は心理学と重なる。景気の良し悪(あ)しも、株価の動きも、その社会の人々の心持ちと何らかの相関関係があっておかしくはない。こうした観点から証券系の研究所が度々、面白い分析をしてくれる◆先ごろ大和総研が「落とし物と株価の関係」を論じていた。警視庁に届いた拾得物の統計から、現金の額をグラフにすると、中長期的な株価の浮き沈みと概(おおむ)ね一致するらしい◆拾ったお金をきちんと届けるというのは人々の心理的余裕の表れであり、そうした余裕を生む社会環境では株価も上昇する、というのが研究所の分析だ。うなずけぬではない◆昨年は届いた金額が大きく増えたそうだ。ところが株価はそれほどまでは伸びなかった。そんな場合でも研究所は、株価はサブプライム問題など海外の要因で伸び悩んだが日本人の心理的余裕は底堅かった、と前向きに見る◆もちろん株価がどうあろうと、落とし物はきちんと届けて当然だ。混乱が続く相場のニュースに振り回されぬためにも、社会の余裕は大切にしたい。今年の落とし物統計はさて、どうなりますか。

11月2日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

11.01.2008

王者であり続ける道に・・・ 編集手帳 八葉蓮華

王者であり続ける道に・・・ 編集手帳 八葉蓮華
疑問や推量の「もし」に漢字をあてると「若し」である。白川静氏の「常用字解」(平凡社)によれば、「若」は巫女(みこ)が舞いながら神のお告げを求めている様子を表す象形文字という◆「若し」も、そこに由来するらしい。漢字の成り立ちはおくとして、若いときくらい人生の可能性に思い煩い、疑問の「もし」、推量の「もし」が数限りなく立ちのぼる時期はなかろう◆柔道の北京五輪金メダリスト、石井慧選手(21)(国士舘大4年)がプロの格闘家に転身の意向という。きのう、事実上の引退届となる強化指定選手の辞退届を全日本柔道連盟に提出した◆柔道界には大きな痛手であり、次のロンドンは脂がのった25歳、誘致がかなえば東京では円熟の29歳…と愉(たの)しい胸算用をしていたファンにとっても残念な限りである。そうした声に耳を傾けた熟慮の末の決断であろうから、新天地での健闘を祈ろう◆歌人の佐佐木幸綱さんに一首がある。〈正午の鐘鳴り止まざりき炎天下ひた走り希望を病みいし頃よ〉。希望に病み、王者であり続ける道に背を向けて挑戦者の道を選ぶのもまた、若さゆえの特権には違いない。

11月1日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge