買い物に出た年の瀬の駅で、乗るつもりの電車が遅れた。飛び込み自サツだろうか、ホームのデジタル掲示板に「××駅で起きた人身事故のため…」と、遅れを詫(わ)びる案内が流れた
そうめずらしくもない出来事である。光の文字が流れる数秒を唯一の接点に、わが人生とかかわった人の名前は知らない。壁に掛けた真新しいカレンダーを眺めて、考えるときがある。ほんとうは未来のどこかで出会うはずの人ではなかったか、と
〈新年は、シんだ人をしのぶためにある〉。詩人の中桐雅夫は書いた。〈心の優しいものが先にシぬのはなぜか/おのれだけが生き残っているのはなぜかと問うためだ/でなければ、どうして朝から酒を飲んでいられる?〉(『きのうはあすに』)
小学6年生の少女が孤独に耐えかねて自サツした事件を昨年、何度か取り上げた。中学や高校の友だち、恋人、伴侶、生まれてくる子供…多くの人々が未来で彼女を待っていたに違いない
年の初め、新聞の片隅にあるこの小さな欄で、誰に何を語ろう。いまはまだ名前も知らない人よ、待ちぼうけはさせないで――と、ほかに浮かばない。
1月1日付 編集手帳 読売新聞
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