8.31.2010

叩かれたくなければ蠅叩きの上にとまるのが安全である・・・ 編集手帳 八葉蓮華

 ドイツの思想家、ゲオルク・リヒテンベルクは著書『雑記帳』に書いている。〈蠅(はえ)は叩(たた)かれたくなければ蠅叩きの上にとまるのが安全である〉と。日本でも知恵のまわる蚊は能楽師の鼓を持つ手ではなく、打つほうの手にとまるとか

 蠅や蚊を例に引くのが礼を失しているならば、黄金虫でもいい。小沢一郎氏からは「下種(げす)の勘ぐり」とお叱(しか)りを受けるのは覚悟の上で、民主党代表選に出馬する意思を固めたほんとうの心を尋ねてみたいところである

 政治資金事件で検察審査会が今秋にも下す議決次第で、小沢氏は強制起訴となる可能性がある

 その時に氏が首相の座にあれば、憲法の規定により起訴を免れる。政治の信頼は、しかし、地に落ちるだろう。国政を混迷に導く議決をしてよいものか、どうか――検察審査会のメンバーは、おそらく悩むに違いない。小沢氏が議決に一切介入をしなくても、“小沢首相”の存在自体が圧力になる。わが身を叩くかも知れない司法の手の上に、政治家はとまってはいけない

 同じ虫ならば、円高・株安の闇に明かりをともす蛍(ほたる)となって時節を待つ道もあったはずである。

 8月27日付 編集手帳 読売新聞
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8.19.2010

子がわれかわれが子なのかわからぬまで子を抱き・・・ 編集手帳 八葉蓮華

 河野裕子さんの歌は小欄でも過去に何度か引用させてもらった。どの記事も、ふさぐ心で筆をとった記憶がある

 例えば6年前、大阪府内の男子中学生(当時15歳)が親から食事らしい食事を与えられず、小学2年並みの体重24キロ、骨と皮の餓シ寸前で保護されたときに引いた一首。〈しつかりと飯を食はせて陽(ひ)にあてしふとんにくるみて寝かす仕合(しあわ)せ〉

 あるいはロシア南部、北オセチアで武装集団が学校を占拠し、100人を超す子供たちが犠牲になったときに引いた一首。〈朝に見て昼には呼びて夜は触れ確かめをらねば子は消ゆるもの〉。ふっと世相が暗くなるたび、燭(しょく)台(だい)の灯を借りるように河野さんの歌を借りてきた

 「母性」というものを詠ませては、当代随一であるのみならず、記紀万葉から数えても指折りの歌人であったろう。乳がんを手術し、闘病生活を送っていた河野さんが64歳で亡くなった

 いままた、母親の「育児放棄」によって幼い命が二つ、無残に散ったばかりである。〈子がわれかわれが子なのかわからぬまで子を抱き湯に入り子を抱き眠る〉。その人が残した燭台の灯が胸にしみる。

 8月14日付 編集手帳 読売新聞
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言ハザルト見ザルト聞カザル世ニハアリ思ハザルヲバイマダ見ヌカナ・・・ 編集手帳 八葉蓮華

 〈私バカよね おバカさんよね…〉とはじまる細川たかしさんの歌『心のこり』が世に出た頃、曲名を見て、ある人が言ったという。「肩だけでなく、心も凝るんだねェ」

 出版社で編集者の経験が長い須磨野波彦さんが著書『日本語探偵出動』(冬花社)に書いていた。『心のこり』は、もちろん「心残り」だが、その人は「心の凝り」と勘違いしたらしい

 人は何かでミスをすると、〈私バカよね〉とつぶやいてストレスをため込む。ストレスが「心の凝り」であることを思えば、まんざら意味の通らぬ勘違いでもない

 ストレスを抱えた女性は妊娠しにくい――米国立衛生研究所などが研究結果をまとめた。子供を望む夫婦は、妊娠に失敗したことのストレスでいっそう妊娠しにくくなる悪循環に陥るという。「心の凝り」は生命の誕生にまで影を落とすようである

 〈言ハザルト見ザルト聞カザル世ニハアリ思ハザルヲバイマダ見ヌカナ〉。古歌にもあるように、「思わない」ことほどむずかしい行為はない。過去のつまずきは忘れるのが一番と分かっていても、心は肩のように揉(も)んでほぐせないのがつらい。

 8月13日付 編集手帳 読売新聞
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8.15.2010

日韓併合100年「首相談話」構想と交渉、功業にも罪科にもなり得る・・・ 編集手帳 八葉蓮華

 〈ギョーカイで「誠意」というのはカネのことです〉と横沢彪(たけし)さんが著書で語っている。「もう少し誠意を見せて」は「もう少しギャラをくれ」と同義である、と(講談社『とりあえず!?』)

 横沢さんは『オレたちひょうきん族』など人気バラエティー番組のプロデューサーとして一つの時代をつくった人で、「ギョーカイ」はテレビ業界を指す

 誠意を受け取る側が金銭その他の目に見える形でもらいたがるのは、国益と国益、主張と主張が火花を散らす外交の世界も同じであろう。政府が日韓併合100年の「首相談話」を閣議決定した

 「痛切な反省」を表明した談話は抑制が利いており、内容にそう問題はない。心配の種は、韓国側が「誠意を目に見える形で示せ」と竹島の領有権問題や従軍慰安婦の補償問題などを絡めてきたときに毅然(きぜん)とした対応がとれるかどうか、だろう。菅外交の物腰次第で、「首相談話」は功業にも罪科にもなり得る

 番組の骨格を描き、スポンサーや出演者、放送作家と渡り合う。構想と交渉――外交は番組づくりに似ている。政権には、さて、凄腕(すごうで)のプロデューサーはありや。

 8月11日付 編集手帳 読売新聞
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8.14.2010

520人が犠牲になった「御巣鷹」事故からまもなく25年・・・ 編集手帳 八葉蓮華

 文字を並べ、言葉をつらね、文章にするのが商売の身ながら、何も書きたくないときがある

 筆跡はどれも乱れている。松本圭市さん(29)は2歳の長男に「しっかり生きろ/哲也/立派になれ」と書いた。河口博次さん(52)は妻に、「ママ/こんな事になるとは残念だ/子供達の事をよろしくたのむ/本当に今迄(いままで)は幸せな人生だったと感謝している」と書いた

 遺書は東京・羽田の日本航空「安全啓発センター」に展示されている。圧力隔壁の破損で管制不能になった羽田発大阪行き日航123便が群馬・御巣鷹の尾根に墜落するまでの32分間に書かれたものである。520人が犠牲になった事故からまもなく25年になる

 客室乗務員のメモもある。「ハイヒールを脱いで下さい/おちついて下さい/身のまわりの用意をして下さい…」。不時着する場合に備え、機内放送の要点を書き留めたらしい。シの恐怖が充満した機内で、父親は最後まで父親たろうとし、乗務員は最後まで乗務員たろうとした

 目にした文章の、言葉の、文字の重さに引き比べ、おのが文章の空疎に嫌気が差し、何も書きたくないときがある。

 8月10日付 編集手帳 読売新聞
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8.10.2010

真夏の娯楽、野球の季節、テレビを見て、涼をとる・・・ 編集手帳 八葉蓮華

 2人の刑事(志村喬、三船敏郎)が大観衆で埋まった後楽園球場で拳銃の密売犯を追う。黒沢明監督の映画『野良犬』である。脚本に「炎熱にとろけたアスファルト」とあるように真夏の物語である

 セ・パに分かれる前の1リーグ時代、巨人―南海戦を舞台に緊迫した捜査の合間合間、白熱した好カードに酔う観衆の上気した顔をカメラがとらえている。映画を見るたびに、野球観戦は真夏の娯楽だとしみじみ思う

 “球夏”という言葉は聞かないが、プロ野球ではセ・リーグで巨人と阪神が熾烈(しれつ)な首位争いを演じている。高校野球では甲子園大会の組み合わせが決まった。野球の季節である

 思えば、「カネ」と「普天間」で政治が迷走を極めた頃はサッカーの岡田ジャパンにずいぶん慰められた。所在不明の高齢者に母親の育児放棄と心ふさぐことの多い今、しばらくは野球のお世話になるのかも知れない

 江戸の狂歌師、唐(から)衣橘洲(ごろもきっしゅう)の歌がある。〈涼しさはあたらし畳 青簾(あおすだれ) 妻子の留守にひとり見る月〉。家族を田舎に送り出し、ひとりきりの夏休みを月ならぬテレビを見て、涼をとるお父さんもいるだろう。

 8月5日付 編集手帳 読売新聞
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8.08.2010

崩壊した「家族」ねたみ、そねみ、ひがみ、三つの“み”の字をぐっとのみ込む・・・ 編集手帳 八葉蓮華

 東京の夏は路地裏にいても涼しい。永井荷風は1919年(大正8年)の日記に書いている。いい風が吹き、〈避暑地の旅館に往(ゆ)きて金つかふ人の気が知れぬなり〉と

 朝顔の鉢が置かれ、打ち水をしてある昔の路地は知らず、都心のビル街はそうもいかない。お盆の混雑を避けて避暑地に、というわけか、通勤の電車で旅装の家族連れを何組か見かけた

 「コラムは、ねたみ、そねみ、ひがみ、三つの“み”から出発して書くものだ」とは野坂昭如さんの言葉である。東京残留組の常連である小欄も、ついねたましげな視線の文章を綴(つづ)りがちな季節だが、今年はどうもそういう気持ちが起きない

 車内に花が咲いたようなにぎやかな子供連れの姿に触れて、むしろ何かホッとした心持ちになるのは、30年も前にシ亡していた111歳がいて、母親の育児放棄で儚(はかな)い人生を終えた幼子がいて、崩壊した「家族」のニュースがつづいたせいかも知れない

 〈東京に取り残されて欣快(きんかい)ぞ朝の車内に歌集をひらく〉(吉竹純)。名も知らぬ家族よ、避暑地の楽しい夏を…と書いて、胸から湧(わ)き上がる“み”の字をぐっとのみ込む。

 8月3日付 編集手帳 読売新聞
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8.07.2010

「閃光」取引のシステム化、売買注文をこなす速さも精度も・・・ 編集手帳 八葉蓮華

 東京証券取引所では、昼休みをはさんで、午前の取引を前場(ゼンバ)、午後を後場(ゴバ)という。20年ほど前、当時の蔵相が「今日のマエバは…」と言い違えたことがある。主要な経済閣僚の蔵相が株式市場に疎いとして失望され、株が売られた

 麻生元首相もやった誤読の定番が、なくなるかもしれない。東証が昼休みを廃止するかどうか年内に結論を出す。前場と後場の区別がなくなる可能性があるわけだ

 取引が中断せず時間も延びれば、投資家には便利になる。証券業界に反対もあるが、取引のシステム化で技術的にさほど難しくないはずだ。売買注文をこなす速さも精度も、立会場で証券マンが身ぶり手ぶりしていた頃より格段に上がった

 ただ気がかりなこともある。今年5月、ニューヨーク市場のダウ平均株価が突然、1000ドル近く下げ、「フラッシュ・クラッシュ」と命名された。原因は未解明だが、注文処理の高速化が、下落を加速させた

 日本の証券界も、対岸の火事だと甘く見ない方がいい。システムの暴走による「閃光(せんこう)のような急落」は、閣僚の誤読が招いた株安と同様に、情けない。

 8月2日付 編集手帳 読売新聞
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8.05.2010

ズボラでいい、食事と健康にだけ目を配り、子育てを図太く・・・ 編集手帳 八葉蓮華

 与謝野晶子の歌にある。〈腹立ちて炭撒(ま)きちらす三つの子を為(な)すに任せて鶯をきく〉。癇(かん)癪(しゃく)を起こして部屋を汚す3歳児を叱(しか)るでもない。後始末をするでもない。母は悠然とウグイスの声を聴いている

 晶子は11人の子をもうけた。生涯に5万首の歌を詠み、膨大な文章をつづり、苦しい家計をやりくりした人は、この図太(ずぶと)さで子育てを乗り切ったのだろう

 育児放棄の悲劇に接するたび、この歌が浮かぶ。部屋は汚れていい。ズボラでいい。食事と健康にだけ目を配り、あとは晶子流で図太く構える。できなかったか、と

 大阪市内のマンションで、3歳と1歳の幼児が遺体で見つかった。逮捕された母親(23)は「育児がいやになった」と供述している。食べ物も水も与えられなかったのだろう。児童相談所にはこれまで、近隣の住民からギャク待を疑う通報があり、職員が計5回にわたって訪問している。いずれも応答がなく、ドアは施錠されていたという。またしても瀬戸際の命を救えなかった

 長女は「桜子」ちゃん、長男は「楓」ちゃんという。その花と葉が季節を彩るころに生まれたか。美しい名前が哀(かな)しい。

 7月31日付 編集手帳 読売新聞
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8.03.2010

思ひ出すとは忘るるか 思ひ出さずや忘れねば・・・ 編集手帳 八葉蓮華

 サンテグジュペリの『星の王子さま』で、狐(きつね)が王子さまに言う。〈肝心なことは目では見えないんだよ〉

 誰かが誰かをコロす。神様が一部始終をビデオに収めていたならば、正視に耐えない凄惨(せいさん)な映像だろう。そういうビデオは、この世に存在しない。目に見えなくても、心には刻んでおきたい「肝心なこと」である

 宇都宮市の宝石店放火サツ人事件などでシ刑が確定した2人のシ刑囚にきのう、東京拘置所で刑が執行された。千葉景子法相は足を運び、立ち会ったという。拘置所で「見た場面」には、思うところ、感じるところがいろいろあっただろう

 自分の命令によって消える命の最後を見届けた行為には敬意を表しつつ、思う。シ刑制度の是非を議論する場合には「見た場面」だけでなく、「見ぬ場面」にも思いを致してほしい、と。6人の人間が縛られ、衣服にガソリンをまかれ、焼シする場面は、目で見ることができない

 シ刑執行の報に「ああ、あの事件…」と思い出した。〈思ひ出すとは忘るるか 思ひ出さずや忘れねば〉(閑吟集)。遺族は事件を思い出しはしなかったろう。片時も忘れぬゆえに。

 7月29日付 編集手帳 読売新聞
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8.01.2010

才能発掘という仕事“目利き”の職人技が個々の編集者から文学賞に移って久しい・・・ 編集手帳 八葉蓮華

 亡くなった作家の文業を称(たた)えて、追悼特集号が出るのは珍しくない。編集者を悼んで――というのは異例だろう。滝田樗陰(ちょいん)のシ去に際し、彼が在籍した総合誌『中央公論』から追悼特集号が出ている

 身内の者を表立って称えるのを中央公論社はためらったが、作家たちの要望を受けて刊行したという。新人発掘の“目利き”として聞こえ、のちに菊池寛が〈文壇における勢威はローマ法王の半分ぐらいはあった〉と語った大編集者ならではだろう

 芥川龍之介や佐藤春夫などとともに樗陰の導きによって文壇に名乗りを上げた作家の一人、室生犀星(さいせい)が初めての小説『幼年時代』の掲載を樗陰に懇願した手紙が見つかった

 〈あなたが私を引きずり上げて下されば私はきつともつとよいものをかくにちがひない〉。1919年(大正8年)6月の手紙には、無名作家のすがるような心情が切々と綴(つづ)られている

 “目利き”の職人技が個々の編集者から文学賞に移って久しい。〈或(ある)意味で私を砂利の内に見つけた人であるかも知れぬ〉。樗陰を悼む文章に犀星は書いた。才能発掘という仕事に、人の匂(にお)いがした昔がある。

 7月27日付 編集手帳 読売新聞
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