12.31.2008

深夜零時に魔法が解けるのを憂えるシンデレラのように・・・ 編集手帳 八葉蓮華

深夜零時に魔法が解けるのを憂えるシンデレラのように・・・ 編集手帳 八葉蓮華

 森鴎外「青年」に、主人公が体の変調に気づく場面があった。〈鈍い頭痛がしていて、目に羞明(しゅうめい)を感じる〉。「羞明」とは「まぶしさ。また、神経衰弱から強い光の刺激をおそれる病気」(日本国語大辞典)をいうらしい

 子供のころは待ち遠しかった正月というものに、羞明を感じるようになったのはいつからだろう。くすんだ色合いの年の瀬にもう少し浸っていたいのにと、時計を見やりつつ過ごすのを大(おお)晦日(みそか)の習わしにしている

 「年惜しむ」という季語がある。昔の人のなかにも、深夜零時に魔法が解けるのを憂えるシンデレラのように、一刻一刻を名残惜しく見送った人がいたのかも知れない

 新しいカレンダーを壁に掛けたお宅もあるだろう。〈初暦知らぬ月日は美しく 吉屋信子〉。皆さんの「知らぬ月日」がどうか、ほどほどにまぶしい、心のなごむ出来事で埋まりますように

 港のそばで育ったので、除夜の鐘よりも、停泊中の船から一斉に鳴り出す除夜の汽笛になじみが深い。海辺を離れたいまも日付が変わる時刻に窓をひらき、聞こえない汽笛に耳をすますのをシンデレラの儀式にしている。

12月31日付 編集手帳 読売新聞

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12.30.2008

おごることなく、中身のない大言壮語はせず、地に足をつけて歩むべし・・・ 編集手帳 八葉蓮華

おごることなく、中身のない大言壮語はせず、地に足をつけて歩むべし・・・ 編集手帳 八葉蓮華

 〈黙々として牛の如(ごと)くせよ〉。英国留学中の夏目漱石が日記にそう書いたのは、1901年(明治34年)の春である。祖国よ、と

その前後には、〈自ら得意になる勿(なか)れ〉〈内を虚にして大呼(たいこ)する勿れ〉と、戒めの言葉が置かれている。おごることなく、中身のない大言壮語はせず、地に足をつけて歩むべし…。のちの昭和史を予見していたようでもある

牛の絵をあしらった年賀はがきに筆を走らせつつ、手休めに書棚の「漱石日記」(岩波文庫)をひらいた。未曽有の金融危機に揺れた一年を顧みれば「牛の如く」とは、米国流錬金術を信奉してきた世界経済をきつく叱(しか)りつけた言葉にも聞こえる。時宜を得たといえば得た、どこか胸にほろ苦い来年の干支(えと)である

前回の丑年(うしどし)にも日記の同じくだりを一読したおぼろげな記憶がある。そうか、北海道拓殖銀行や山一証券がバブルに踊ったツケを経営破綻(はたん)という形で支払った年だったか…と、年表を手にとって知る

年賀はがきのわが牛たちは、「人間は学習が苦手だね」とつぶやいては、コタツの上で悠々と道草を食っている。どうやら元日には届きそうもない。

12月30日付 編集手帳 読売新聞

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12.29.2008

中国人の対日観や日本人との交流・・・ 編集手帳 八葉蓮華

中国人の対日観や日本人との交流・・・ 編集手帳 八葉蓮華

 百年ほど前の清朝末期に盛宣懐(せいせんかい)という中国人の高級官僚・実業家がいた。8年前まで東京・芝公園で40年余り続いた中華料理の老舗「留園」の経営者で文筆活動でも知られた華僑、盛毓度(せいいくど)さんの祖父だ

 盛宣懐は、祖国の経済建設のためと、自分の病気の治療を兼ね、3か月間、日本に滞在した。時は明治41年(1908年)秋、日本が日露戦争に勝利した3年後で、日中関係も良好な時代だった

 盛は、北里柴三郎の診察を受ける一方で、日本の通貨政策、製鉄技術、鉄道建設などの知識を求めた。滞在中に伊藤博文、山県有朋、大隈重信、松方正義、小村寿太郎、後藤新平、高橋是清、三井八郎右衛門ら錚々(そうそう)たる人物と相次いで面談した。中国に図書館を開設するため日中双方の書籍も買い求めた

 盛の来日百周年を記念して今月発刊された、当時の日本滞在日記や書簡を集めた『中国近代化の開拓者・盛宣懐と日本』(中央公論事業出版)には、古い東京の光景なども登場する

 清朝末期のエリート中国人の対日観や日本人との交流ぶりを読み進むにつれ、現在の中国指導者の姿が二重写しになり興味は尽きない。

12月29日付 編集手帳 読売新聞

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12.28.2008

窒息事故 飲み込む力が弱くなってきた・・・ 編集手帳 八葉蓮華

窒息事故 飲み込む力が弱くなってきた・・・ 編集手帳 八葉蓮華

 年の瀬は一年のさまざまな事故統計が気になる。まず交通事故だ。死者数は年々減少しており、今年は5000人を少し上回るあたりでとどまりそうな見通しである。一昔前までは年間1万人を超えていた

 これは事故から24時間以内に亡くなった人の数で、最終的には残念ながら8000人前後になってしまうだろう。それでも着実に減りつつあることに変わりはない

 一方で亡くなる人の数が年々増加し、近年、交通事故より多くなったのが窒息事故だ。年間9000人以上とは驚く。半数が食べ物をのどに詰まらせたケースで、うち8割以上は、飲み込む力が弱くなってきた高齢者という

 今年はコンニャク入りゼリーの事故が記憶に強く残っている。だが、これに限らず、食品はすべて油断大敵。今の時期は何と言っても餅に気をつけたい。専門家は予防策の第一として、一口で食べる量を小さくし、飲み込もうとする前にもう5回、余計に噛(か)むよう勧めている

 万一の時に傍らに人がいるかどうかも大切だろう。年末年始を一人で過ごすお年寄りが増えているとすれば、それもやはり気になるところだ。

12月28日付 編集手帳 読売新聞

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12.27.2008

せめて心身の暖まる住処をと願わずにいられない ・・・ 編集手帳 八葉蓮華

せめて心身の暖まる住処をと願わずにいられない ・・・ 編集手帳 八葉蓮華

 昔はなぞなぞ風に、「十階の身の上」とも言ったらしい。二階に厄介(八階)になっている――居候、別名では掛人(かかりゅうど)という

 江戸川柳には〈掛人小さな声で子を叱(しか)り〉〈居候ある夜の夢に五杯食い〉などと揶揄(やゆ)されているが、衣食住の「食」「住」をなくした失意の人に緊急避難の手を差し伸べる“人情の装置”を備えていた社会は、いまの目にはうらやましいものがある

 かつての昭和恐慌で、失業者の多くが農村に帰った。親きょうだいがいて、再起の時節を待つことのできた故郷もまた、緊急避難の装置であったろう

 今年10月から来年3月までに職を失ったか、これから失う非正規労働者は8万5000人にのぼり、すでに2000人以上が住む場所を失ったという。身を寄せる知人宅も、帰れる故郷も持たぬ人が増えたいま、大量失業の深刻さは数字以上だろう

 国が、自治体が、解雇した企業が、まずは持てる居住施設を総動員して“人情の装置”を作る。失業した人が百の同情よりも一つの安定した職を望んでいることは承知しつつ、底冷えのする夜、せめて心身の暖まる住処(すみか)をと願わずにいられない。

12月27日付 編集手帳 読売新聞

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12.26.2008

元気でね/身体に気をつけてね/今度はいつ帰れるの ・・・ 編集手帳 八葉蓮華

元気でね/身体に気をつけてね/今度はいつ帰れるの ・・・ 編集手帳 八葉蓮華
 1週間ほど前の本紙で、「ゆめ」という詩を読んだ。〈今朝/死んだお父さんから/電話がかかってきたゆめを見た〉。作者は小学5年、茨城県鉾田市の少年である◆〈…ぼくは受話器をにぎりしめて/会いたいよって/泣きながら話してて/目がさめた/お父さんの声が/いつまでも耳にのこった〉。「天国に電話をかけなおせたらいいのに」と、「こどもの詩」欄の選者、詩人の長田弘さんが感想を添えている◆民間援助団体「ペシャワール会」の職員、伊藤和也さん(当時31歳)がアフガニスタンで武装集団に殺害されたのは今年8月である。12月の会報で母順子さん(56)の手記を読んだ。そこにも電話が出てくる◆よくぐずった赤ちゃんの昔を回想し、事件を境に父正之さん(61)の酒量が増えたことを告げ、供えるためだけのケーキを誕生日にこしらえる気の重さを語り、手記は息子に呼びかけて結ばれている。〈ではいつものように言うからね/元気でね/身体に気をつけてね/今度はいつ帰れるの/お母さんのいる時電話してよ/いってらっしゃい〉◆「天国に…」と、長田さんの言葉を胸に繰り返す。

12月26日付 編集手帳 読売新聞

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12.25.2008

「金が泣いてる」立ち往生したみずからを憐れみ ・・・ 編集手帳 八葉蓮華

「金が泣いてる」立ち往生したみずからを憐れみ ・・・ 編集手帳 八葉蓮華
 将棋を好んだ作家、幸田露伴に一句がある。〈長き夜をたゝる将棋の一(ひ)ト手哉(てかな)〉。ああ指さずに、こう指していれば勝てたのに…と悔やまれて、寝つけない夜を詠んでいる◆麻生首相には、あのときの指し手がのちのちまで悔いる「一ト手」になるかも知れない。景気対策を盛り込んだ第2次補正予算案を、きょうが会期末の臨時国会に提出せず、年明けの通常国会に先送りしたことである◆多くの国民は「政局より政策」「景気の麻生」にそれなりの期待を寄せていたはずである。危機突破の気構えを疑わせる先送りにより、二つのスローガンに「なんちゃって」と付け加えたのは首相自身にほかならない◆同じ何兆円を使っても、首相は本気だぞ、景気は上向くぞ――と、世間が信じるか否かで、景気対策のカネは生きもすれば死にもする。補正予算案の早期提出は信じさせるための必然手(ひつぜんしゅ)「盤上この一手」であったろう◆盤上に立ち往生したみずからの銀を憐(あわ)れみ、「銀が泣いてる」と語ったのは孤高の棋士、坂田三吉である。効果は薄く、ツケのみ重く終わり、「金(カネ)が泣いてる」と嘆く日が来なければいい。

12月25日付 編集手帳 読売新聞

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12.24.2008

忙しい時ほど、心がよそに遊ぶのはなぜだろう ・・・ 編集手帳 八葉蓮華

忙しい時ほど、心がよそに遊ぶのはなぜだろう ・・・ 編集手帳 八葉蓮華
 月刊誌「文芸春秋」の編集長などを務めた車谷弘さんが、作家の内田百(ひゃっ)けんに叱(しか)られた思い出を著書「わが俳句交遊記」に書いている。百けんに「お忙しいですか」と聞かれ、「忙しくて困っています」と答えたときのことという◆「忙しいというのは、それはひとに向かって尋ねるときの言葉ですよ。自分で自分を忙しいというのはバカです。一日二十四時間を自分で適当に処理できないで、どうしますか」と◆その説に従えば恥ずかしながら、一年のほとんどを「バカ」で通している。上に「大」の字がつくのはやはり、仕事が何かと立て込む年の瀬である◆例年ならば28日の仕事納めを、今年は曜日のめぐりあわせで26日の金曜に予定する会社も多いと聞く。短期集中で仕事を片づけるとなれば、きょうを含めて3日間、世間には「バ」の字のお仲間が増えることだろう◆そう言いつつ、差しあたって読む暇のないミステリー小説を求めて書店をうろつき、出かけもしない旅の行程を時刻表で調べている。忙しい時ほど、心がよそに遊ぶのはなぜだろう。「極めつきのバカだからです」と、百けん先生の声が聞こえる。


12月24日付 編集手帳 読売新聞

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12.23.2008

「経営者の志」 従業員を食べさせるには ・・・ 編集手帳 八葉蓮華

「経営者の志」 従業員を食べさせるには ・・・ 編集手帳 八葉蓮華
 トヨタ自動車名誉会長の豊田章一郎さんから、カマボコづくりの修業をした思い出をうかがったことがある。終戦直後、まだ大学に通うころ、北海道稚内市で海辺の小屋に住み込んだというから本式である◆戦争が終わり、トラックの需要が激減した。乗用車の時代はまだ来ない。従業員を食べさせるには自動車のほかにも事業を広げねばならず、「食いはぐれのないのは飲食関係」という思案の末がカマボコだったという◆のちに朝鮮戦争特需でトラックの業績が盛り返し、トヨタ印のカマボコは幻に終わったが、トヨタの歴史で一番つらいころである◆と、1年前ならば書けた。「一番つらいころ」はもしかするとこれからかも知れない。販売不振と円高で、来年3月期の連結決算は営業利益が1500億円の赤字に転落するという。終戦直後にもなかったことである。雇用にも深刻な影響が及ぼう◆現在の巨大トヨタにカマボコ談議が無益であることは承知している。学業途中の創業家御曹司に不慣れな修業をさせてまで従業員を守り抜こうとした、当時の経営者の志だけは忘れずにいてほしいと、切に願う。

12月23日付 編集手帳 読売新聞

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12.22.2008

反米感情の高まりをも引き継がなければならない ・・・ 編集手帳 八葉蓮華

反米感情の高まりをも引き継がなければならない ・・・ 編集手帳 八葉蓮華
 中国の古典「淮南子」に見える「足を削って履(くつ)に適す」は、本末転倒を形容する成句として知られる。確かに、靴のサイズに合わせて足を痛めつけるのでは、筋が通らない◆だが米国発の金融危機は、どうだろう。成長を牽引(けんいん)する「足」とみなされてきた金融工学が、ひどいまやかしであったことが露呈した。常識という「靴」に、足の方を合わせることはできなかったものか◆任期ひと月足らずとなったブッシュ米大統領は外交面でも課題を残した。対テロ戦争の主戦場となったイラクもアフガニスタンも国家再建にはほど遠い。オバマ次期政権は、国際社会における反米感情の高まりをも引き継がなければならない◆嫌われつつ外交成果を上げるのは、やはり困難である。収容所での拘束者虐待事件などに象徴される、時に大きい靴で踏みにじるように見えたやり方も、いらざる反感を招いた◆記者会見の席上、イラク人記者がブッシュ大統領に靴を投げつけた。アラブ社会で最大の侮辱とされる行為に大統領は靴のサイズに言及する余裕を見せたが、機転の利いた冗談よりも、もっと別の言葉を聞きたかった。

12月22日付 編集手帳 読売新聞

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12.21.2008

「人生ゲーム」人生、山あり谷あり ・・・ 編集手帳 八葉蓮華

「人生ゲーム」人生、山あり谷あり ・・・ 編集手帳 八葉蓮華
 サイコロを振り、止まったマス目の指示でカードをめくる。〈議会へのデモに向かう。投げる卵を買おうとしたものの、あまりにも値上がりしていたため買えず〉◆その出来事は幸なのか不幸なのか、よく分からないけれど笑える。経済危機で大混乱のアイスランドに、現状をネタにした「危機ゲーム」が登場――と英紙フィナンシャル・タイムズが報じていた◆記事によると、発案者はこの不況で失業した男性とのことだ。発売元の会社は「ユーモアがあれば今の危機は乗り切れる」と宣伝している。明るいお国柄なのだろう。実物を見たわけではないが、察するに人生ゲームのような双六(すごろく)らしい◆「人生、山あり谷あり」の宣伝文句で知られた「人生ゲーム」は、今年ちょうど日本発売40周年。今ではテレビゲーム版も出ているが、昔ながらの盤面タイプも時代とともに少しずつ内容を変え、根強い人気を保っているという◆クリスマス前のきょうあたり、買い求める人もいるだろう。日本の人生ゲームには、アイスランドのような出来事は登場しないようだ。だからといって、ホッとしてはいられないけれど。

12月21日付 編集手帳 読売新聞

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12.20.2008

「一陽来復」冬至冬なか冬はじめ ・・・ 編集手帳 八葉蓮華

「一陽来復」冬至冬なか冬はじめ ・・・ 編集手帳 八葉蓮華
 日本初の近代的な国語辞書「言海」を著した大槻文彦は本名を「清復」という。「きよまた」あるいは「きよしげ」と読んだらしい◆人名にはめずらしい「復」の字は、冬至の日に生まれたことにちなんで付けられた。北半球で一年のうち夜が最も長くなる冬至は古来、陰から陽に転じる時の意味で「一陽来復」と称され、その「復」をもらっている◆あすは冬至、日の長短はともかくも、後を絶たない食品偽装や振り込め詐欺などで世相は濁り、不況の濁流にのまれて雇用の視界はきかない。いつにまして「清復」の二文字、清澄に復する日が待たれる年の瀬である◆実際には冬至のころから寒さが増し、昔の人は〈冬至冬なか冬はじめ〉と言い習わして戒めた。景気はいまが陰の極みなのか、冬はじめではないのかと、多くの人が不安を募らせている◆不安を解くのは政治の仕事だが、自民党内はいま、やれ「離党者には刺客を送るぞ」、やれ「批判封じは平成の大獄だ」と“幕末ごっこ”で多忙らしい。辞書の名前「言海」は文字通り、言葉の海である。益体(やくたい)もない言葉ばかりを浮かべた海が、永田町にはある。

12月20日付 編集手帳 読売新聞

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12.19.2008

「永世竜王」激闘譜として語り継がれるだろう ・・・ 編集手帳 八葉蓮華

「永世竜王」激闘譜として語り継がれるだろう ・・・ 編集手帳 八葉蓮華
 将棋の大山康晴十五世名人に、講演をした折の逸話が残っている。演壇から降りて係の人に、「お客さんは何百何十何人でしたね」と告げた。主催者の記録と、ぴたり一致していた◆「客席は将棋盤と同じマス目だから、ひと目で分かりました」、そう語ったという。米長邦雄永世棋聖には「兄たちは頭が悪いので東大に行ったが、私は頭が良いので棋士になった」という伝説の語録もあるが、棋士の頭脳ほど神秘的なものはない◆郷里で“神童”と騒がれた少年たちの一部が選ばれてプロになり、ほんの一握りがタイトルを手にする。「永世」の称号となれば、気の遠くなる天の高みである◆将棋界の最高棋戦、竜王戦で渡辺明竜王(24)が挑戦者の羽生善治名人(38)を破り、5連覇を果たして初代「永世竜王」の資格を手にした。3連敗から4連勝は将棋タイトル戦の歴史で初めてという。「すわ逆転か」「いや再逆転か」と最後の最後まで優劣不明だった最終局は、激闘譜として語り継がれるだろう◆神に愛(め)でられし頭脳二つが白刃を交えて綴(つづ)った棋譜を眺めつつ、神に疎んじられしわが頭脳も芯まで痺(しび)れている。

12月19日付 編集手帳 読売新聞

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12.18.2008

「はないちもんめ」記憶のかなたにまた一歩、遠ざかっていく ・・・ 編集手帳 八葉蓮華

「はないちもんめ」記憶のかなたにまた一歩、遠ざかっていく ・・・ 編集手帳 八葉蓮華
 遠い昔、路地裏や原っぱで、〈あの子がほしい、あの子じゃわからん〉と歌った方もあろう。子供の遊び、「はないちもんめ」(花一匁)である。〈勝ってうれしいはないちもんめ、負けてくやしいはないちもんめ…〉◆かつて口減らしがおこなわれた貧しい農村から子供を買い集めるとき、「花」(女児)1人につき金1匁が支払われた。中国史家、阿辻哲次(あつじてつじ)さんの「部首のはなし 2」(中公新書)によれば、字面も美しい「花一匁」には哀(かな)しい一説があるという◆1匁は3・75グラム、一文銭の重さ(一文の目方=文目)から生まれた単位で、匁という字は「文」と「メ」を組み合わせた形ともいわれる。いまでは真珠の計量以外で用いられることはない◆常用漢字表の見直しで、191字の追加と5字の削除が決まった。「匁」も削られる。「はないちもんめ」で遊ぶ子供を見かけぬようになって、すでに久しい。漢字表からも消えることで「匁」は記憶のかなたにまた一歩、遠ざかっていくのだろう◆1匁とはどれほどの重さであったかと、小銭入れを探ってみる。5円玉はぴったり3・75グラム、1匁である。

12月18日付 編集手帳 読売新聞

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12.17.2008

押しくら饅頭 少しずつ知恵と思いやりを ・・・ 編集手帳 八葉蓮華

押しくら饅頭 少しずつ知恵と思いやりを ・・・ 編集手帳 八葉蓮華
 いまは用いられることのない季語に「越冬資金」がある。冬のボーナスをいう。大冊の「日本大歳時記」(講談社)にも例句は見あたらない◆俳人の夏井いつきさんは「絶滅寸前季語辞典」(東京堂出版)のなかで、「『年末賞与』というだけでも古くさい表現だと思っていたが…」、その比ではないと書いている◆派遣契約を打ち切られ、住む家もなくす人々が日々生まれている今年ほど、「越冬」の二文字が生々しい現実として胸に響く年の瀬はない。何年か前ならば笑い飛ばせたサラリーマン川柳〈職安で 働かせろよ この盛況〉を、いまは頬(ほお)をこわばらせて聴く人も多かろう◆自治体のなかには、地元の企業に解雇された非正規社員を臨時職員として採用するところもあると聞く。皆が膝(ひざ)送りで席を詰め、たとえ一人でも二人でも多くが座れる場所を――という心は企業の側にも欲しいものである◆夏井さんの辞典で「越冬資金」の隣には「押しくら饅頭(まんじゅう)」があった。企業と、地元の自治体と、国の機関とが少しずつ知恵と思いやりを持ち寄り、押しくら饅頭のなかから凍える人々を温めていくしかない。

12月17日付 編集手帳 読売新聞

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12.16.2008

一年という時間、指折り数えてみる。五輪のあれこれ、ノーベル賞・・・ 編集手帳 八葉蓮華

一年という時間、指折り数えてみる。五輪のあれこれ、ノーベル賞・・・ 編集手帳 八葉蓮華
 今年9月の本紙「読売歌壇」で読み、書き留めた歌が二つある。<もったいなくて北島康介の載る新聞犬小屋の中には敷きえざりし 町田市 岩本房子>◆北京五輪での平泳ぎ2種目、2連覇を報じた、その日の新聞だろう。今年のスポーツ界で最も活躍した選手、チームを表彰する日本スポーツ賞の選考委員会がきのう開かれ、北島選手がグランプリ(大賞)に選ばれた◆もう一首。<あぁ上野演歌ではない由岐子さんソフトボールの力投で金 旭市 山田純子>。その歌「ああ上野駅」を知らない世代も、あの413球は「あぁ」の感動詞を抜きにしては語れまい。ソフトボール女子日本代表チームは限りなく大賞に近い特別賞に選ばれている◆顧みれば、秋葉原の無差別殺人から年の瀬の派遣打ち切りまで、むごくて、あるいは気の毒で犬小屋に敷けない新聞ばかりが記憶に残る年である。五輪のあれこれ、ノーベル賞…もったいなくて敷けない新聞がいくつあったかと、指折り数えてみる◆一年という時間は夜汽車の旅に似ている。闇が深いほど、山あいにひとつ、またひとつと流れた灯の色が忘れがたい。

12月16日付 編集手帳 読売新聞

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12.14.2008

きょうは各地で忠臣蔵の公演や行事が盛況・・・ 編集手帳 八葉蓮華

きょうは各地で忠臣蔵の公演や行事が盛況・・・ 編集手帳 八葉蓮華
 「大阪府下、谷町三丁目に忠臣蔵長屋と称(とな)へる四十六戸あり」。1882年(明治15年)の小紙に傑作な記事があった◆長屋の名の起こりは明治の初め、平民も名字を持つよう命じられたことだ。住人たちは困ったようで、数もほどよい四十七士にあやかることにした。歌舞伎「仮名手本忠臣蔵」の登場人物から、くじ引きで大星(由良之助)、寺岡(平右衛門)などの名字をもらった、という次第◆この長屋に高野(こうの)(高師直(こうのもろのう)=モデルは吉良上野介)さんが引っ越してきたので「偽士(ぎし)」たちは面白くない。「仇敵(あだがたき)の苗字(みょうじ)の者と同じ長屋に住まっては世間へ対し恥辱」と大家にねじ込み悶着(もんちゃく)中――というのが記事の要旨である◆これがニュースになるとは平和なことだ。敵役までみんなそろっていたほうが忠臣蔵長屋の名にふさわしいじゃないの、と120年前の出来事に思わず突っ込みを入れてみたくなる◆訳の分からぬ殺人やら、内定取り消しやら、現代の紙面に並ぶ記事の何と殺伐としたことか。きょうは各地で忠臣蔵の公演や行事が盛況だろう。それをながめつつ、明治の先輩記者をうらやましく思う年の瀬だ。

12月14日付 編集手帳 読売新聞

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12.13.2008

「変」年越しの晩はめでたい言葉を口ずさみ、厄払い・・・ 編集手帳 八葉蓮華

「変」年越しの晩はめでたい言葉を口ずさみ、厄払い・・・ 編集手帳 八葉蓮華
 年越しの晩に商家をまわり、めでたい口上を述べて祝儀をもらう。厄払いという。ある男、小遣い欲しさに真似(まね)してみたものの、口上のカンニングペーパーを読み違えて思わぬ恥をかく…上方落語「厄払い」である◆「鶴は千年、亀は万年」と言うべきを「亀は一カ年」と読んでしまい、「えらいまた寿命の短い亀やな」と、商家の番頭を驚かせた。いつの世にも漢字の苦手な人はいる◆在任期間は「一カ年」365日、えらいまた寿命の短い政権やな――と世間をたまげさせ、福田康夫氏が首相の座を降りたのは9月である◆歳末恒例「今年の漢字」に「変」が選ばれたという。深刻な金融危機に、揺らいだ食の安全と、変事を数えて五指に余るこの一年だが、政権を投げ出すような首相交代劇も生々しい「変」の記憶だろう◆あとを引き継いだ麻生首相も、与党内には離反の芽が兆し、支持率も急落して、大変の「変」の字が身につきまとう。年越しの晩はめでたい言葉を口ずさみ、厄払いもいいだろう。「万年」を「一カ年」と読み違えても気にすることはない。いまの迷走を見れば、一カ年もまた長寿である。

12月13日付 編集手帳 読売新聞

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12.12.2008

一芸に抜きんでた人は、夢も無駄には見ないらしい・・・ 編集手帳 八葉蓮華

一芸に抜きんでた人は、夢も無駄には見ないらしい・・・ 編集手帳 八葉蓮華
 囲碁の呉清源さんは若いころ、ときに夢のなかで妙手を見つけたという。「目がさめてから、形の一部をおぼえていることがあるそうだ」と作家、川端康成が「名人」(新潮社)に書いている◆ビートルズの名曲「イエスタディ」には、ポール・マッカートニーさんの夢に現れたメロディーから生まれたという語り伝えがある。一芸に抜きんでた人は、夢も無駄には見ないらしい◆普通は思い出せなくて、もどかしいのが夢である。将来はどうだろう。人が見たものを、脳の活動パターンをもとに画像で再現する。その技術を国際電気通信基礎技術研究所(京都府精華町)などが開発した◆「□」や「×」などの図形やアルファベットを見た人の脳から情報を読み取り、コンピューターの画面上に映し出す技術で、睡眠中の夢や脳裏の空想にも応用できる可能性があるという◆一芸なき身は時折、献立の記憶はおぼろながら、飲食の夢を見る。ほほう、きょうは刺し身だったか、熱燗(あつかん)まで一本ついちゃって…と、目ざめてから再現画像に見入る日がいつか訪れるのかも知れない。うれしいような、そうでもないような。

12月12日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

12.11.2008

「借金返済」歳出削減などの構造改革路線を推し進めていく・・・ 編集手帳 八葉蓮華

「借金返済」歳出削減などの構造改革路線を推し進めていく・・・ 編集手帳 八葉蓮華
 舟から剣を川に落とした男がいる。あとで捜そうと、舟べりに目印の刻みをつけた。岸について、刻みを頼りに川にもぐったが、剣は見つからなかった◆「小泉改革」を旗印に、歳出削減などの構造改革路線を推し進めていくグループが、自民党内で相次いで動きを強めているという。中国の古典「呂氏(りょし)春秋」の伝える故事を思い浮かべた◆麻生内閣から民心が離れつつあるのを受け、人気の高かった小泉政権の成功体験をもう一度、というのだろう。「時」の川は流れ、当時とは景況が一変している。病床で読経を聞いているような違和感を覚えぬでもない◆工具箱に「小泉改革」という金づちしかなければ、ノミが必要なときも、鉋(かんな)が必要なときも、金づちを振り回すしかない。かつては自慢の道具であったにせよ、いま叩(たた)けばトン、チン、カンと音の出そうな金づちは、党の工具箱の中身が貧弱であることを世に知らしめるだけだろう◆職を失い、路頭に迷う人々の、溺(おぼ)れかけた川がある。その濁流から目をそむけ、何年か前に舟べりに刻んだ“自民圧勝”の目印に頼ったところで、なくした剣は見つかるまい。

12月11日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

12.10.2008

先生も分からないから一緒に考えてみよう・・・ 編集手帳 八葉蓮華

先生も分からないから一緒に考えてみよう・・・ 編集手帳 八葉蓮華
 8年前にノーベル化学賞を受賞した白川英樹さん(72)が中学時代の思い出を語ったことがある。物理の時間、ひとりの生徒が「雲はなぜ落ちてこないのですか」と教師に尋ねた。「雲をつかむような質問だ」と教師は話をそらした◆先生も分からないから一緒に考えてみよう。「そう答えてくれたら、私は化学ではなく物理の道に進んでいたかも知れない」と。学校の教室が好奇心の芽を摘み取る場になることもある◆夜道が教室になることもある。今年のノーベル物理学賞に選ばれた益川敏英さん(68)がストックホルムで受賞記念の講演をした。小学生の昔を回想している◆家具職人や砂糖商をしていた父親は科学や技術にも関心が深く、いつも銭湯に通う道すがら、モーターの回る仕組みや日食、月食の原理を話してくれた。理科の面白さをそうして知ったと、“英語嫌い”の益川さんは日本語で話した。遠い日の父に語りかけた講演でもあったろう◆暗い路地を脳裏に描く。タオルと石鹸(せっけん)の手桶(ておけ)を小脇に、ときに手ぶりを交えて語る父がいる。耳をすまして聴く子がいる。並んで歩く二人の上には、夜空の黒板。

12月10日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

12.09.2008

「弁慶か、義経か」義経は八艘とんでべかこをし・・・ 編集手帳 八葉蓮華

「弁慶か、義経か」義経は八艘とんでべかこをし・・・ 編集手帳 八葉蓮華
 徳川家康がくつろいだ座談の折、「いまの世に武蔵坊弁慶のような剛勇の士はいない」と語った。と、頑固一徹の家臣、本多正重が異を唱えたという。「弁慶は幾らもござるが、義経のようなよい大将がござらぬ、て」◆いないのは弁慶か、義経か、迷走する組織を見るたびに、史書が伝える主従のやりとりが浮かぶ。本紙の世論調査で麻生内閣の支持率が20%台に急落した◆漢字の読み違いや失言もあったが、景気対策を盛った第2次補正予算案の国会提出を先に延ばすなど、「経済の麻生」という看板の偽りに人々は失望したらしい◆福田前内閣、安倍前々内閣がいずれも、“消えた年金”など官僚の不始末や政治資金をめぐる閣僚の醜聞により、いわば弁慶たちに足を引っ張られたのに対して、現内閣の場合は義経が自分で転んで招いた危機である◆古川柳に〈義経は八艘(はっそう)とんでべかこをし〉とある。壇ノ浦で八艘とびの離れ業を演じ、敵に「べかこ=アッカンベー」をする義経の得意顔を詠んでいる。総選挙の陣で野党に「べかこ」をする首相の姿を瞼(まぶた)に描くには、尋常でない想像力が要る。義経がいない。

12月9日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

12.08.2008

人口流出に歯止めをかけることは切実な課題だ・・・ 編集手帳 八葉蓮華

人口流出に歯止めをかけることは切実な課題だ・・・ 編集手帳 八葉蓮華
 故郷に帰るたびに、寒々しい光景を目にする。駅前近くで虫食い状に広がる駐車場や、入居者のいない老朽ビル…。やむを得ぬ事情で事業をやめ、退去した人も多かろう◆都会で暮らす自らにも責任の一端があると承知のうえで、心が痛む。三大都市圏以外の地方圏の人口は今後30年間で1200万人も減少するという。地方にとって人口流出に歯止めをかけることは切実な課題だ◆一つの対策として、総務省は定住自立圏構想を進めている。「中心市」と周辺市町村が協定を結び、産業振興や医療、交通、観光などで手を携える。中心市に圏域全体に必要な都市機能を整え、国が支援する。青森県八戸市、長野県飯田市など26自治体が先行実施団体に指定された◆企業誘致や農産品の地域ブランド育成に各市町村が協力する。地域の拠点病院から周辺自治体の診療所に医師を派遣する。いかに若者を地元にとどめ、中高年を都会からUターンさせるか◆もちろん特効薬などない。試行錯誤を重ねつつ様々なアイデアの具体化に努めねばなるまい。国の権限や職員、財源を自治体に移す地方分権も、その一助となろう。

12月8日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

12.07.2008

「源氏物語千年紀」国内外で広く読まれている・・・ 編集手帳 八葉蓮華

「源氏物語千年紀」国内外で広く読まれている・・・ 編集手帳 八葉蓮華
 文豪も源氏物語を原文で読み通すことには難渋したらしい。森鴎外は明治の末、与謝野晶子が口語訳を出版した際に寄せた序文の中で「(原文は)とにかく読みやすい文章ではないらしゅう思われます」とぼやき、新訳で読めることを大喜びした◆今では谷崎潤一郎、円地文子、瀬戸内寂聴などが多彩な現代語訳を成し、鴎外のような苦労をせずに奥深い宮廷物語を味わうことができる。英語など約20の外国語に翻訳されてもいる◆日本が誇る「世界最古の長編小説」が国内外で広く読まれているのは、そうした訳者の功績も大きい。そしてさらに、目の不自由な外国の人にもぜひ読んでほしい、と考えた訳者がいた◆東京・世田谷の点訳ボランティア「紫会」の主婦5人だ。4年がかりで英語版の点訳39巻4400ページを完成させ、日本点字図書館などに寄贈した。その点字データはインターネットでも入手できる◆「源氏物語千年紀」の今年にふさわしい業績として、読売福祉文化賞を受けていただくことになった。いずれ世界中で、多くの人が点字をなぞりながら、心のスクリーンに平安絵巻を映すことだろう。

12月7日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

12.06.2008

「挑戦する企業精神の象徴」 いかにして生き残るか・・・ 編集手帳 八葉蓮華

「挑戦する企業精神の象徴」いかにして生き残るか・・・ 編集手帳 八葉蓮華
 ホンダの創業者、本田宗一郎さんは読書嫌いだった。「立派なことが書いてある本はどうせ嘘(うそ)だから読まない」と。活字文化振興の面からはあまりお薦めできない説だが、百の能書きよりも一つの実証を大事にした、その人らしい◆亡くなるまで自動車レースの最高峰F1世界選手権に血をたぎらせたのも、いいクルマ、いいエンジンであることを百の宣伝文句ではなく一つの勝利によって実証したかったからだろう◆「挑戦する企業精神の象徴」と自他ともに認めてきたF1から、ホンダが撤退する。金融危機に端を発した景気後退と自動車販売の不振で、年間500億円にのぼる費用の負担が困難になったという◆「企業は実力の範囲内で健全な赤字部門を持たねばならない」とは、旭化成で社長、会長を務めた故・宮崎輝(かがやき)氏の言葉だが、ホンダに限らず、自動車業界に限らず、企業精神を支える「健全な赤字部門」を抱える余力は限界に近づいているのだろう◆「本には過去のことしか書かれていない」と本田語録にある。いかにして生き残るか。企業には、万巻の書物にも答えの見つからない問いがつづく。

12月6日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

12.05.2008

【チェンソー】総理大臣がかわること。チェンジ総理の略・・・ 編集手帳 八葉蓮華

【チェンソー】総理大臣がかわること。チェンジ総理の略・・・ 編集手帳 八葉蓮華
 「新語は毎日3語ずつ発生している」と述べたのは国語学者の見坊豪紀(けんぼうひでとし)さんである。国語辞典を編(へん)纂(さん)するために長年、見慣れない、聞き慣れない言葉を収集・分類してきた経験から割り出したという◆日々生まれる3語の多くははかなく消えていくのだろうが、世に知られる幸運な言葉もある。「明鏡国語辞典」の版元である大修館書店が全国の中高生から日常の若者言葉を募った第3回「みんなで作ろう国語辞典!」の優秀作品一覧を眺めている◆【乙男】(おとメン=乙女心をもっている男のこと)、【指恋】(ゆびこい=好きな人と携帯でメールをすること)といった具合である◆【チェンソー】とはどんなノコギリかしら…と思えばそうではなくて、「総理大臣がかわること。チェンジ総理の略」という。「福田から麻生に――した」などと用いるらしい。伐採された木の倒れる音を空耳に聴かせて、よくできた言葉ではある◆求心力が衰えて予算編成の司令塔にもなれず、支持率も低迷する首相のこと、若い人の新語辞書にこの一語を見つけたら憂鬱(ゆううつ)になるだろう。国語辞典の愛用者でないのは幸いである。

12月5日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

12.04.2008

あなたは男でしょ/強く生きなきゃだめなの・・・ 編集手帳 八葉蓮華

あなたは男でしょ/強く生きなきゃだめなの・・・ 編集手帳 八葉蓮華
 脅迫とは賭けであると、英国情報部のベテラン諜報(ちょうほう)員が同僚に語る。「脅迫ってのはジョージ、つねに一か八かでね。相手によっては強情を誘い出してしまうものなんだ」◆ジョン・ル・カレのスパイ小説「スマイリーと仲間たち」(早川書房)の一節である。「秘密を口外されたくなければ言うことを聞け」と脅され、「面白いね、ばらしてごらん」と開き直れるならば、それが脅迫の誘い出す“強情”だろう◆その人も「さあ、やってみろ」と強く出ればいいものを、脅されるままに500万円を差し出したという。警視庁玉川署の男性巡査長(27)が拘置中の男(21)に恐喝されていた◆勤務中に携帯電話を使ったことも、男にたばこを差し入れたことも、その他の便宜供与も、口外されて困る弱みには違いなかろうが、500万円には驚く。一か八かの脅迫がすんなり通り、脅した男もびっくりしただろう◆警察の規律をうんぬんする以前に、あまりといえばあまりの弱気がもどかしく、嘆かわしい。〈あなたは男でしょ/強く生きなきゃだめなの…〉(「わたし祈ってます」)と、わが心境は古い流行歌である。

12月4日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

12.03.2008

名をも命も惜しまざらなむ・・・ 編集手帳 八葉蓮華

名をも命も惜しまざらなむ・・・ 編集手帳 八葉蓮華
 対米戦争の火ぶたを切る真珠湾攻撃で日本の連合艦隊が大戦果を挙げたとき、山本五十六司令長官に参謀が告げた。長官の郷里で市民の祝賀行列が催されたそうです…◆「フン、その連中がな、いまに俺の家へ石を投げつけに来るよ」。山本はそう答えたと、作家の阿川弘之さんが参謀から直接に聞いた話として随筆集「葭(よし)の髄(ずい)から」(文芸春秋刊)に書き留めている◆1941年(昭和16年)12月8日の開戦にあたり、山本が所懐を遺書としてしたため、戦後は所在不明になっていた肉筆文書「述(じゅつ)志(し)」が見つかったという◆〈名をも命も惜しまざらなむ〉。命のみならず、名誉も惜しまない。「いまに俺の家へ石を…」と、暗い結末を見通した眼光がここにもある。やってはならぬと唱えてきた戦争で先陣に立たねばならない人の、決死の覚悟がしのばれる◆アジアで戦線が拡大しているところへ、鉄鋼生産量は日本の10倍、原油生産量は740倍の国を向こうに回しての開戦である。政治学者の南原繁に当時の歌がある。〈人間の常識を超え学識を超えておこれり日本世界と戦ふ〉。12月8日がまためぐってくる。

12月3日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

12.02.2008

友は別れて友と知り・・・ 編集手帳 八葉蓮華

友は別れて友と知り・・・ 編集手帳 八葉蓮華
流行語でも新語でもないので、世間でそう話題になることもなかったが、北京パラリンピックを報じる本紙で目にした宝石のような言葉が忘れられない◆男子400メートル、800メートル(車いす)で2冠を手にした伊藤智也選手が、金メダルの喜びを語っている。〈いままでの人生で5番目にうれしい。子供が4人いるので…〉。その子たちが生まれた時はもっとうれしかった、と◆師走の声を聞くといつも、その年に出会った宝石を胸のなかの手帳から取り出して眺める。昨年は70歳で逝去した作詞家阿久悠さんのお別れの会で、会場に飾られていた詩を書き留めた。〈夢は砕けて夢と知り/愛は破れて愛と知り/時は流れて時と知り/友は別れて友と知り〉◆手帳には悲しい宝石もある。拉致被害者の横田めぐみさんが小学5年のとき、旅先の福島県から両親と弟たちにあてた手紙である。一家の写真展で見た。〈たくや てつや おとうさん おかあさん もうすぐかえるよ まっててね めぐみ〉◆今年の「新語・流行語大賞」が〈グ~!〉その他であることに異存はない。しまう場所が宝石とは違うだけである。

12月2日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

12.01.2008

氷に閉ざされた沈黙の世界の氷が解ければ・・・ 編集手帳 八葉蓮華

氷に閉ざされた沈黙の世界の氷が解ければ・・・ 編集手帳 八葉蓮華
 世界最大の島、デンマーク領グリーンランドの名付け親は、10世紀後半、アイスランドから追放されてこの島にたどりついた殺人犯、赤毛のエリックだ。呼び名にひかれ、豊かな暮らしを夢見て入植した食い詰め者が、さぞや多かったに違いない◆日本の6倍も広い「緑の地」は、その名前とは裏腹の極寒の地だ。全土の8割が厚い氷雪に覆われた厳しい風土が、長年にわたり人間による開発をはねつけてきた◆犬ぞりで世界最初にグリーンランド縦断に成功した植村直己さんは、「この氷に閉ざされた沈黙の世界こそ、自然の原点なのではないか」と語っている。ところが、ここにも地球温暖化の影響が及んでいる◆住民には悪い話ではないらしい。氷が解ければ、これまでは夢物語だった石油やウラン、ダイヤモンドなど地下資源の開発も現実になりそうだとの期待がふくらんでいる。11月末に行われた住民投票で、地下資源の管理権移譲など、自治拡大案が承認された◆資源開発に成功すれば、漁業とデンマーク政府からの補助金に頼ってきた経済も自立可能となる。極北の地の風景が、変わろうとしている。

12月1日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

11.30.2008

言語をつゝしむも、亦、徳をやしなひ、身をやしなふ道なり・・・ 編集手帳 八葉蓮華

言語をつゝしむも、亦、徳をやしなひ、身をやしなふ道なり・・・ 編集手帳 八葉蓮華
 貝原益軒の「養生訓」に〈聖人は未病を治す〉とある。もとは古く中国の書物に出てくる言葉だ。心がけのよい人は病気に至る前に体を治す。予防の大切さを説いている◆〈私は毎朝歩いたり何かしているから医療費がかかってない。たらたら飲んで食べて、何もしない人の分の金(医療費)をなんで私が払うんだ…〉◆これは麻生首相の最新語録から引いた。おそらくは益軒のようなことを言いたかったのだろうと推測はつくが、社会保障制度は国民相互の助け合いで成り立ち、個人レベルの損得勘定とは違うはずである◆医療費がかからないのは幸せと感謝し、必要な人に必要な医療費を使ってもらうために一日でも長く健康を維持する努力をしたいと思う――といった優等生の言辞は首相好みではないのかも知れない。だからといって、制度のイロハを知らぬ劣等生を気取ることもなかろう◆今回のみならず、首相は酒場でつぶやく愚痴のごとき迂闊(うかつ)な発言が過ぎる。控えた方がご自身の健康のためにもよろしい。〈言語をつゝしむも、亦(また)、徳をやしなひ、身をやしなふ道なり〉。これも養生訓に書いてある。

11月30日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

11.29.2008

「北国から雪の便り」白魔はなおも跳りつづけていた・・・ 編集手帳 八葉蓮華

「北国から雪の便り」白魔はなおも跳りつづけていた・・・ 編集手帳 八葉蓮華
日本の絵画を集めた展覧会がオーストラリアで催されたとき、ひとりの男性が一枚の絵の前にじっと立ちつくし、しきりに感心していた。扇の形をした紙「扇面(せんめん)」に描かれた風景画であったという◆男性が語ることには、自分はトラックの運転手だが、「雨の日にフロントガラスのワイパーの跡から見える風景だね」と。画家の安野光雅さんが演出家の故・吉田直哉さんから聞いた話として、ある対談で語っている◆札幌市で除雪の路面電車「ササラ電車」が早くも走りはじめるなど、北国から雪の便りが届く季節になった。扇面の白い絵を前にしてハンドルを握っている方もおられよう◆路面が凍結し、タイヤが滑りやすくなる。扇の外側には神経も届きにくい。どうか気をつけて…と、季節感を愉(たの)しむ前に用心の言葉が浮かんでくるのは、痛ましい輪禍の記憶が幾つも残るなかで迎えた冬のせいだろう◆〈白魔(はくま)はなおも跳(おど)りつづけていた〉とは武田麟太郎が戦前に書いた「雪の話」の一節だが、激しい降雪はいまも新聞の見出しなどで、ときに「白魔」と呼ばれる。美しい扇形をした雪景色にも魔は潜んでいる。

11月29日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

11.28.2008

人の違うを怒らざれ。人みな心あり・・・ 編集手帳 八葉蓮華

人の違うを怒らざれ。人みな心あり・・・ 編集手帳 八葉蓮華
聖徳太子が定めたという十七条憲法の第十条に、〈人の違うを怒らざれ。人みな心あり〉とある。人がそれぞれ違っているのを咎(とが)めるなと。時代、宗教、国境を超えた普遍の戒めだろう◆日本書紀には、聖徳太子が仏教の経典を「悉(ことごと)に達(さと)りたまひぬ」(すべて悟得された)とある。漢字の表記などから国文学者の中西進さんはある対談のなかで、太子が釈迦(悉達太(シッダール)子(タ))の生まれ変わりだという考えがあったのだろう、と推測している◆インドは紙幣に17もの異なった言語で額面などを記載しているように、多言語、多民族の国家で知られる。「共生」の教えともいうべき胸にしみ入る条文の遠い淵源(えんげん)をふと、お釈迦様の国に求めてみたい心持ちになる◆そのインド西部の都市ムンバイ(旧ボンベイ)でホテルなどの公共施設を狙った同時テロが起き、日本人の会社員1人を含む100人以上が死亡した。いかなる組織が、いかなる目的で犯行に及んだにせよ、市民や外国からの訪問客に何の罪がある◆人の違うを怒らざれ。人みな心あり、命あり…。テロリストに語るむなしさを感じつつ、叫ばずにはいられない。

11月28日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

11.27.2008

日馬富士(はるまふじ)体格の不利を稽古に次ぐ稽古で克服してきた・・・ 編集手帳 八葉蓮華

日馬富士(はるまふじ)体格の不利を稽古に次ぐ稽古で克服してきた・・・ 編集手帳 八葉蓮華
ヒノキ科の常緑樹、アスナロは漢字で「翌檜」と書く。あこがれのヒノキに明日はなろう、という意味の命名とも伝えられる。その人には、大関貴ノ花(故・二子山親方)が仰ぎ見るヒノキであったらしい◆幕内で最軽量の小兵ながら真っ向から相手に挑むところ、勝っても土俵の上で表情の緩まないところ、稽古(けいこ)の虫であるところ、なるほど貴ノ花に似ている◆モンゴル出身の関脇、安馬(24)改め日馬富士(はるまふじ)が大関に昇進した。まだ十両のころ、軽量の貴ノ花が強靱(きょうじん)な足腰を頼りに大柄な北の湖や輪島と渡り合う姿をビデオで見て、「いつの日か、こういう力士に…」と志を立てたと聞く◆貴ノ花が引退した日、相撲中継で解説の玉の海梅吉さんが語っている。「精一杯重い荷物を背負って、下りのエスカレーターの階段を一段一段のぼるような、そんな努力をした男です」◆杉山邦博氏の著書「土俵の真実」(文芸春秋)の一節だが、体格の不利を稽古に次ぐ稽古で克服してきた翌檜にも、同じ階段が待っていよう。外国人力士であることをふと忘れ、古風な日本人に懐かしくも出会ったような…不思議な人である。

11月27日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

11.26.2008

“今思へば皆遠火事のごとくなり”34年前の仇討ち・・・ 編集手帳 八葉蓮華

“今思へば皆遠火事のごとくなり”34年前の仇討ち・・・ 編集手帳 八葉蓮華
ものがゆるみ、ほどけ、流動し、とけていく。名詞の「時」は動詞の「解ける」と語源を同じくする、という仮説を唱えたのは、今年7月に亡くなった国語学者の大野晋さんである◆34年の歳月を肌で知りたくて昭和史をひもといている。1974年(昭和49年)は田中内閣が金脈問題でつぶれ、巨人軍の長嶋茂雄選手が引退した年である。「狂乱物価」が流行語になり、森進一さんの「襟裳(えりも)岬(みさき)」が街に流れていた◆身を顧みれば10代の終わりで年ごろ相応に傷つき、人を傷つけもしたはずだが、時が解かしたらしい。能村登四郎さんの句〈今思へば皆遠火事(とおかじ)のごとくなり〉で、何ひとつ憶(おぼ)えていない◆元厚生次官宅を襲った男(46)は当時小学生で、飼い犬が保健所で処分されて傷ついたという。「34年前の仇(あだ)討ち」と報道機関に寄せた犯行告白のメールにある。歴代次官ら10人の殺害を計画した男にとって歳月とは何だったのだろう◆家賃をきちんと払いながらも定職はなく、収入源は不明である。誰と接し、どういう生活をしていたのか、男の謎めいた「現在」という時を解かねば、事件の終わりは見えてこない。

11月26日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

11.25.2008

日中の間で本音の議論をする芽が生まれつつある・・・ 編集手帳 八葉蓮華

日中の間で本音の議論をする芽が生まれつつある・・・ 編集手帳 八葉蓮華
亡くなった漫画家の赤塚不二夫さんは、9歳の時に中国東北部(旧満州)で終戦の日を迎えた。夕刻、カラスの大群が真っ赤な夕空を不気味に埋め尽くしていた。その赤と黒の光景が、生涯の原風景となったという◆約100人の漫画家が、みずからの終戦体験を描いた画集「私の八月十五日」(2004年刊)の中国語版が、日本側の働きかけにより人民日報出版社から近く刊行される◆赤塚さん、ちばてつやさんをはじめ、旧満州で終戦を迎えた多くの漫画家の作品も掲載されている。田舎町で玉音放送を聞いて自決の覚悟を語る家族、ソ連軍に追われての逃避行を続ける人々なども描かれている◆中国では多くの若者が日本の漫画を愛読している。その同じ若者が歴史問題では反日感情を抱いている現実もある。中国人学生の意識調査を行った筑波大学名誉教授の遠藤誉(ほまれ)さんは、「中国動漫新人類」(日経BP社)の中で指摘している◆日本人の戦争への思いを描いたこの画集は、どのように受け止められるだろうか。結果は分からないが、日中の間で本音の議論をする芽が生まれつつあることは間違いない。

11月25日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

11.24.2008

答えが見え始めてから謎がいっそう深まる“簡単でない迷路”・・・ 編集手帳 八葉蓮華

答えが見え始めてから謎がいっそう深まる“簡単でない迷路”・・・ 編集手帳 八葉蓮華
小説のなかでFBIの元捜査官が言う。解くのがむずかしい迷路も、つくるのはやさしい。まず正解の道を描いたら、あとは線を書き足して見せかけのルートをこしらえる。「答え(容疑者)がわかればパズルは簡単なものだ」と◆米国の作家ジェフリー・ディーバー「悪魔の涙」(文春文庫)の一節だが、答えが見え始めてから謎がいっそう深まる“簡単でない迷路”も現実にはある。男が正解ルートとして語る〈線〉の異様さはどうだろう◆元厚生次官宅の連続殺傷事件で無職の男(46)が出頭し、逮捕された。「昔、保健所にペットを処分されて腹が立った」と警察で供述している◆なぜ、遠い過去の恨みを無関係の元次官や夫人に向け、証拠品の凶器に運動靴まで携えて出頭し、少しも悪びれた様子がないのか。幾つもの「なぜ」を残し、軽すぎる動機と重すぎる犯行を結ぶ〈線〉はぼやけている◆常識と分別を知る殺人者など世の中にいるはずもないが、これほど愚かしい動機で縁もゆかりもない者の標的にされ、たった一つしかない命を奪われたとすれば、たまらない。言葉もなく、迷路の前に立ちつくす。

11月24日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

11.23.2008

“人物鑑定機”の洗礼を受けなくてはならない・・・ 編集手帳 八葉蓮華

“人物鑑定機”の洗礼を受けなくてはならない・・・ 編集手帳 八葉蓮華
銀行ATMの指認証機のような装置に、左右の人さし指を順に乗せる。大きな目玉に似たカメラを顔に向けられ、写真を撮られた。先日、10年ぶりにアメリカを訪ねた時に経験した入国審査である◆9・11同時多発テロ以来、米国に入るにはこの“人物鑑定機”の洗礼を受けなくてはならない。日本でも外国人の入国者は同様の機械でチェックされる。ピリピリした社会になったものだ、と嘆息せずにいられない◆飛行機に乗ったり国境を越えたりする場合には、靴の中まで調べられても、指紋を採られても、まあ、やむを得ない。世界を飛び回っている人以外は、頻繁に体験するわけでもなかろう。だが、官公庁に入るたびにいつもそんな目に遭うとしたら、たまらない◆今でもすでに、霞が関の裁判所ビルには飛行機の搭乗口と同じ金属探知ゲートが常設されているが、これは犯罪を裁く場所という特殊事情が大きい。まさか厚生労働省に入る時まで、金属探知スティックで検査されることになろうとは◆いずれ入国審査のような機械が、役所の入り口に登場するのだろうか。憎むべきは卑劣非道な犯罪者である。

11月23日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

11.22.2008

11月22日は語呂合わせで「いい夫婦の日」・・・ 編集手帳 八葉蓮華

11月22日は語呂合わせで「いい夫婦の日」・・・ 編集手帳 八葉蓮華
岡倉天心は大学で学びつつ妻帯したが、夫人はなかなか気性の激しい人であったらしい。夫が苦心して書き上げた卒業論文「国家論」を夫婦げんかでビリビリに裂いて捨ててしまった◆夫は仕方なく2週間のやっつけ仕事で「美術論」をまとめ、提出期限に間に合わせた。「天心の人生コースはここで決まったのかも知れない」と、孫の岡倉古志郎(こしろう)さんが「歴史よもやま話」(文春文庫)で語っている◆のちに日本美術院を創設する偉才を美術の道に導いたとすれば、夫婦げんかもそう捨てたものではない。きょう11月22日は語呂合わせで「いい夫婦の日」という◆明治安田生命保険が約1200人の既婚男女に夫婦関係を漢字で表現してもらったアンケート結果をみると、結婚15年目までの人は「幸」あるいは「愛」という回答が多く、そこを過ぎると「忍」の一字に入れ替わる◆古志郎さんによれば祖父は晩年、祖母から晩酌はお銚子(ちょうし)1本と決められていた。天心は家族の前でコナン・ドイルの推理小説を語り聞かせ、佳境に入ったところで沈黙して「もう1本…」と催促したという。“忍”にも戦術がある。


11月22日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

11.21.2008

鏡屋の前に来て ふと驚きぬ 見すぼらしげに歩むものかも・・・ 編集手帳 八葉蓮華

鏡屋の前に来て ふと驚きぬ 見すぼらしげに歩むものかも・・・ 編集手帳 八葉蓮華
石川啄木には「そういえば自分も…」と読む人を物思いに誘う歌が多い。この一首もそうだろう。〈鏡屋の前に来て/ふと驚きぬ/見すぼらしげに歩むものかも〉◆終電の車窓やエレベーター奥の鏡に自分を見つけ、人相の悪さにドキリとすることがある。それでいて普段は、ひとの人相に内心あれこれ文句をつけている。身近に鏡がないことは、能天気に暮らす条件かも知れない◆「医師には社会的常識がかなり欠落している人が多い」。麻生首相が公式の場でそう述べた。不明朗なカネや見識を疑う放言で閣僚が性懲りもなく入れ替わる昨今、「政治家には…」と聞き違えた人もいたはずである。官邸には鏡を置くべきだろう◆日本医師会の抗議を受けて「不適切な言葉遣い」を謝罪したが、特定の職業集団をあげつらっての侮辱は差別にもつながるもので、後味の悪い失言である◆いずれは総選挙という有権者の「鏡」に身を映す。漢字の読み方に言葉遣いと、首相の仕事が小学生の勉強並みに大変なことは分かるが、つまらない失言をしていて啄木と同じ感慨に浸りはしないか。ひとごとながら気にかかる。

11月21日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

11.20.2008

社会そのものに牙をむく許しがたい蛮行・・・ 編集手帳 八葉蓮華

社会そのものに牙をむく許しがたい蛮行・・・ 編集手帳 八葉蓮華
古代中国の遊説家、張儀は盗っ人と間違われて傷だらけにされたことがある。満身創痍(そうい)の身となって「わが舌を視(み)よ、なお在りや」(私の舌はまだあるか)と妻に問うた。あると聞いて、「足れり」(十分だ)と述べたという◆民主主義というものに思いが及ぶたび、史記の一節が浮かぶ。行政の不手際や不始末で社会が傷を負うこともある。自由に物を言う国民の「舌」があれば、しかし、治癒に「足れり」と◆世の中をより良く変えていく道具は発言する「舌」であり、法を見る「目」であり、一票を投じる「指」である。刃物を握る「手」では断じてない◆厚生労働省の元次官宅が相次いで襲われ、さいたま市では夫妻が刺殺され、東京・中野では妻が刺されて重傷を負った。年金などで不祥事の続いた厚生行政に不満を持つ者の仕業かどうかは不明だが、社会そのものに牙をむく許しがたい蛮行である◆事件を受けてメディアに求められるものは、政治や行政の批判を手控えることではなく、批判すべきは節度と責任をもってきちんと批判していく姿勢だろう。わが舌を視よ――張儀の言葉を胸に繰り返す。

11月20日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

11.19.2008

一生を台無しにしてまで、飲まねばならない酒がどこにある・・・ 編集手帳 八葉蓮華

一生を台無しにしてまで、飲まねばならない酒がどこにある・・・ 編集手帳 八葉蓮華
大昔、神前に供える酒は女性がコメを噛(か)み砕き、唾液(だえき)で発酵させた。民俗学者の柳田国男によれば主婦を「オカミ」と呼ぶのも、酒造りの職人「杜氏(とうじ)」と主婦を表す古語「刀自(とじ)」が似た音であるのも、そこに由来するという◆いける口のご亭主にしてみれば、うまい酒を造ってくれる杜氏さんと、「また飲んだの?」と鋭くひと睨(にら)みする刀自さんが同根の語とは、いささか不思議に思えるかも知れない◆杜氏が新酒を醸す寒造りの季節であり、ボージョレ・ヌーボーの解禁は迫り、忘年会のうわさもちらほら聞こえてくる時期である。左党に乾杯の口上を申し上げたいところだが、酒の飲み方を知らぬ馬鹿者(ばかもの)が多いこの冬は言葉が浮かばない◆残忍きわまる酒酔いひき逃げ・引きずり事件のあとは、警視庁警視の泥酔当て逃げだという。飲酒運転撲滅キャンペーンを担当していたと聞いて耳を疑った人も多かろう◆グラスや盃(さかずき)を手にする以上は、読んで字のごとく「刀自」、心に自ら刀をあてて身を律することを忘れまい。ひとの命を奪ってまで、自分の一生を台無しにしてまで、飲まねばならない酒がどこにある。

11月19日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

11.18.2008

夢にても逢ふこそ嬉しけれ・・・ 編集手帳 八葉蓮華

夢にても逢ふこそ嬉しけれ・・・ 編集手帳 八葉蓮華
〈こは夢か…〉と老人は疑う。これは夢なのか、〈夢にても逢(あ)ふこそ嬉(うれ)しけれ〉と。幼いころ、人さらいに連れ去られ、行方知れずになった息子と年老いてめぐり会う物語、能の「木賊(とくさ)」である◆市川トミさんに、その時は訪れなかった。1978年(昭和53年)8月、鹿児島県・吹上浜のキャンプ場から北朝鮮の工作員に拉致された市川修一さん(当時23歳)の母である。再会を夢に見つつ、91歳で亡くなった◆河村官房長官は記者会見で「慚愧(ざんき)の念に堪えない」と述べている。国民に信を問うこともできず、内政で打ち出す政策ひとつにドタバタを演じる麻生政権が北朝鮮に足元を見透かされ、なめられているのは確かだろう◆〈こは夢か〉と狂喜の涙に濡(ぬ)れながら、帰還したわが子を胸に抱きしめる瞬間を、被害者の家族は一日千秋の思いで待っている。その人たちも老いていく。圧力であれ、圧力を背景にした対話であれ、行動の伴わない「慚愧の念」ならば意味がない◆91歳といえば普通は、長寿に恵まれての大往生と評される年齢だろう。その訃報(ふほう)には、ただ「嗚呼(ああ)」の一語をおいて語る言葉を知らない。

11月18日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

11.17.2008

恐怖のジェットコースター・・・ 編集手帳 八葉蓮華

恐怖のジェットコースター・・・ 編集手帳 八葉蓮華
アメリカで4年に1度、注目を集める経済指数がある。大統領選の行方を占う指標とされる「ミザリーインデックス」である◆日本語訳は「悲惨指数」「窮乏指数」と悲壮感が漂うが、要は物価上昇率と失業率を足した数字のことだ。これが10を超えると、米国民は経済失政に怒り、政権交代を望むという。8年ぶりに民主党のオバマ氏が大統領選を制した今年、指数は6月から10を超えている。歴代大統領では、指数が高かったフォード、カーター両政権は短命だ◆政権交代との因果関係は定かでないが、指数が上がると政府の無策を嘆く人が増えるのは間違いない。実は、日本も6を超え、1980年代前半以来の高さになっている。経済政策への不信感は、相当に強いに違いない◆注目の指数をもうひとつ。シカゴの取引所が算出している「恐怖指数」は、相場が急降下、急上昇を繰り返すと上がる。米同時テロの混乱時でさえ40台だったが、先月は80ほどに跳ね上がった◆恐怖のジェットコースターが転がり出さぬよう踏ん張れるか。ワシントンの金融サミットに集結した各国首脳の有言実行にかかっている。

11月17日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

11.16.2008

百俵の米を多数の者に分け、食いつぶして何が残るのだ・・・ 編集手帳 八葉蓮華

百俵の米を多数の者に分け、食いつぶして何が残るのだ・・・ 編集手帳 八葉蓮華
「百俵の米を多数の者に分け、食いつぶして何が残るのだ」。戊辰(ぼしん)戦争の痛手に苦しむ長岡藩の大参事・小林虎三郎は、縁戚(えんせき)の藩から届いた見舞いの米を分けろと迫る藩士たちを諭した◆山本有三が戯曲で描いた名場面が、新潟県長岡市の公園にブロンズの群像で再現されている。長岡藩は百俵を元手に学校を建て、人材を育てた。小泉純一郎元首相が所信表明で引き合いに出し、一躍有名になった「米百俵」の逸話だ◆連想するのは、政府の給付金構想である。2兆円を皆で分けて何が残る、と言うつもりはない。一人1万2000円、子どもと高齢者はさらに8000円、心待ちにしている人も多いだろう。だが、政治のドタバタぶりには気が萎(な)える◆「この百俵が、米だわらでは見積もれない尊いものになるのだ」と虎三郎は言い切った。信念をもって分配するなら、この言葉に負けない迫力で効果を説かねばならない◆米百俵の像は、竹下内閣の「ふるさと創生事業」の交付金1億円を使って作られたそうだ。20年前のばらまき施策にも賛否両論あったが、ともかく政治の神髄を伝えるモニュメントは残した。

11月16日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

11.15.2008

逆さまに行かぬ年月よ・・・ 編集手帳 八葉蓮華

逆さまに行かぬ年月よ・・・ 編集手帳 八葉蓮華
源氏物語の千年紀にあたる今年はアーサー・ウェイリーの名前をよく目にし、耳にした。初めて英訳し、源氏の価値を世界に認めさせた英国の東洋学者である◆生前、何度も訪日の誘いを受け、政府が国賓に準ずる待遇を用意したこともあったが、そのたびに本人が感謝しつつ辞退し、ついに実現しなかった。「どうか、そっと日本を愛しつづけさせてほしい」、そう語ったと、英文学者の外山滋比古(とやましげひこ)さんが随筆「作者の顔」に書いている◆現実の姿に触れ、胸に育ててきた幻影を傷つけたくないというのだろう。年賀状を書く準備に住所録を整理しながらウェイリーの言葉を思い浮かべている◆書いた記事にお便りを頂戴(ちょうだい)したのが縁で、顔も声も知らないまま10年以上も賀状のやりとりをしている方が何人かいる。「どうか、そっと…」の心境はお互い一緒らしく、一度お顔を、という話はどちらからも出ない◆年始のあいさつに添えて、定年退職したことを告げる人、老いを嘆く人、想像のなかの顔にも歳月が刻まれていく。〈逆さまに行かぬ年月よ〉(若菜下)。光源氏の声が聞こえるのはこういう宵である。

11月15日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

11.14.2008

狙い通りの景気浮揚効果が望めるものやら・・・ 編集手帳 八葉蓮華

狙い通りの景気浮揚効果が望めるものやら・・・ 編集手帳 八葉蓮華
NHKが昔、ある人気俳優に密着して芸と素顔を特集したとき、俳優が番組のなかで「作者のイズは…」と3回語った。意図――イトである◆放映後、NHKの用語委員会で議題になり、再放送ではテロップで「イト」と流すべきだ、いや、俳優が気の毒だ、と会議がもめた。委員長の国文学者、池田弥三郎氏が「単純なイト・イズ・ミステークということで…」と収め、テロップなしで決着したという挿話が残っている◆漢字の読み間違いというのは指摘する側も気まずいもので、なにか心ない行為をしているかのようなシュンとした気分になる。相手が首相でも変わらない◆「踏(とう)襲(しゅう)」を「ふしゅう」、「頻繁(ひんぱん)」を「はんざつ」、「未曽有(みぞう)」を「みぞうゆう」と、麻生首相が国会答弁などで誤った言葉遣いを連発しているという。いずれも慌てるあまりの単純な読み間違い、言い間違いだろう◆国語力をそう恥じる必要はないが、「定額給付金」をめぐる政府・与党の迷走をなすすべもなく傍観した指導力は恥じていい。狙い通りの景気浮揚効果が望めるものやら、「意図・イズ・ミステーク」の香りが濃厚である。

11月14日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

11.13.2008

13年前の痛みを知る県の知事が使う言葉ではない・・・ 編集手帳 八葉蓮華

13年前の痛みを知る県の知事が使う言葉ではない・・・ 編集手帳 八葉蓮華
朝鮮戦争で日本は特需に沸き、「ガチャ万」という言葉が生まれた。工場の機械をガチャと動かせば1万円が儲(もう)かると。ことほどさように、ひとの不幸を身の幸運とする「火事場泥棒」めいた非情な仕組みが世の中にあるのは事実である◆とはいえ、隣家の丸焼けが待ち遠しいとばかりに、火事の起きる前から舌なめずりをする“おばかさん”はいない。そう思いきや、世間は広いものである◆兵庫県の井戸敏三知事が近畿ブロック知事会議で「関東大震災は(関西経済の)チャンスだ」と述べた。一語をとらえての批判は趣味に合わないが、13年前の痛みを知る県の知事が使う言葉ではない◆旧自治省の役人時代には、同僚が病気や事故で倒れる日をチャンスとして待ち望んでいたのかしら…と、要らぬ想像をしてみる。思惑を腹に隠しておけない正直な人らしいが、友人にはあまり持ちたくないお方である◆東京でこれを書いている。直下型の大地震で都内の44万棟が全壊し、約4700人が死亡する、との被害想定がある。不幸にして現実になれば、兵庫の知事さんからは救援物資と一緒に祝電が届くだろう。

11月13日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

11.12.2008

壮士気取りの「職業的精神に欠けた」論客は要らない・・・ 編集手帳 八葉蓮華

壮士気取りの「職業的精神に欠けた」論客は要らない・・・ 編集手帳 八葉蓮華
旧陸軍では軍需品の輸送兵(輜重輸卒(しちょうゆそつ))を〈輜重輸卒が兵隊ならば蝶々(ちょうちょ)とんぼも鳥のうち〉と見くだした。旧海軍では情報を統括する軍令部第三部を〈腐れ士官の捨てどころ〉と揶揄(やゆ)した◆「補給」と「情報」という戦略・戦術の基本を軽視し、壮士風の政論を好む。かつての日本ほど「専門的、職業的精神に欠けた、政治的な」軍隊を持った国はないと、米国の政治学者サミュエル・ハンチントン氏が著書「軍人と国家」に書いている◆日本が侵略国家だったというのは濡(ぬ)れ衣(ぎぬ)――と、政府見解と異なる論文を発表して解任された田母神(たもがみ)俊雄・前航空幕僚長がきのう、国会の参考人質疑で「自衛隊員にも言論の自由はある」と述べた。それは違う◆首相は自衛隊の最高指揮官で、政府見解はその人の明確な意思である。気にくわなければ制服を脱ぐしかない。たとえば首相が「不戦の誓い」を語り、自衛隊の幹部が言論の自由を盾に「我々には別の持論がある」と異を唱えることを想像してみれば、その異様さは容易にわかる◆専門的、職業的精神が自衛官の誇りだろう。壮士気取りの「政治的な」論客は要らない。

11月12日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

11.11.2008

死ぬ瞬間まで活動の本舞台を未来に求め続けよ・・・ 編集手帳 八葉蓮華

死ぬ瞬間まで活動の本舞台を未来に求め続けよ・・・ 編集手帳 八葉蓮華
相馬雪香(そうまゆきか)さんが小学生のとき、授業で教師が述べた。「桜は日本人の魂である。魂を売った国賊がいる」。米国に3000本の桜を贈ったのは相馬さんの父、東京市長の尾崎行雄である◆体制批判を貫いた政治家の娘に世間の目は冷たい。食糧難の終戦直後、ひもじがる4人の幼子を抱え、頭を下げて農家を歩いた。「国賊の娘に食わす物はない」。返ってくるのは判で押したような言葉であったという◆父親譲りの熱い血と反骨精神が逆境を糧に変えたのだろう。難民の救援活動などを通して紛争地域の戦禍克服に身を尽くし、相馬さんが96歳で亡くなった◆“憲政の神様”は〈人生の本舞台は未来にあり〉という言葉を残している。蓄えた知識と経験を世に捧(ささ)げるべく、死ぬ瞬間まで活動の本舞台を未来に求め続けよ、と。「難民を助ける会」の現職会長として生涯を現役で通した娘を、天上の父はねぎらいの微笑で迎えたことだろう◆相馬さんが生まれた1912年(明治45年)は尾崎が米国に桜を贈った年である。ポトマック河畔の春をいまも彩る同い年の木々に似て、風雪に耐えて咲いた花の生涯をしのぶ。

11月11日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

11.09.2008

「119番の日」悲しいニュースが相次いでいる・・・ 編集手帳 八葉蓮華

「119番の日」悲しいニュースが相次いでいる・・・ 編集手帳 八葉蓮華
〈救急車の御利用を 子供さん達(たち)のお怪我(けが)などにも〉。1936年(昭和11年)の小紙にそんな見出しがあった。日本赤十字社東京支部が救急車の活用を呼びかけているという記事だ◆導入当初、「路上の大怪我は救急自動車で」とPRしたため、交通事故以外は呼べないと誤解されたらしい。記事には「日赤では一寸(ちょっと)したかすり傷にも利用することを望んでゐ(い)る」とある◆そんな時代もあったのかと驚くばかりだが、もちろん救急体制の草創期の話だ。戦後間もなくから「救急車足りぬ」「患者タライ回し」などの記事が頻出する◆60年代の読者投稿欄では「軽症者の救急車要請は断る仕組みにせよ」「症状の軽重は簡単に判断できない。規制には反対だ」と論争になった。以来、何十年も変わらぬ議論が続いている。これにも驚く◆きょうは日付に因(ちな)んで「119番の日」。救急隊員や医療関係者はだれもが懸命なのに、悲しいニュースが相次いでいる。救急医療のあり方、大切さを改めて考えずにはいられない。濫用(らんよう)しないよう自戒しつつ、いざという時に必ず助けてくれる119番であり続けてほしいと願う。

11月9日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

11.08.2008

創業家一族は経営の一線から身を引いた・・・ 編集手帳 八葉蓮華

創業家一族は経営の一線から身を引いた・・・ 編集手帳 八葉蓮華
別れにもいろいろある。源義経は兄に疎まれて諸国を流浪した。明智光秀は天下人になろうとして主君織田信長に逆心を抱いた◆義兄の松下幸之助氏と袂(たもと)を分かって三洋電機を興した井植歳男(いうえとしお)氏は、ときに「義経」、ときに「光秀」と世間で陰口を言われたらしい。実際には円満な独立であったといい、「(自分にも義兄にも)迷惑な話である」と、自叙伝「私の履歴書」(日本経済新聞社刊)に書いている◆後年、義兄と同じ飛行機に乗り合わせた折、「世間の誤解を解くために一つの仕事を一緒にやろう」、そう語り合った、とある。こういう形の“一つの仕事”を予期していたかどうか。三洋電機がパナソニック(旧・松下電器産業)の子会社になるという◆三洋電機では昨年、歳男氏の孫にあたる社長が経営不振の責任を問われ、創業家一族は経営の一線から身を引いた。幸之助氏の興した松下電器産業は先月、世界の優良企業に飛躍するべく社名から松下の名前を消した◆「松下」と「井植」、創業家が色あせたのち、故人同士が交わした機上の約束が実を結ぶ。歳月はいつも皮肉な仕掛けを用意している。

11月8日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

11.07.2008

黴臭いにおいが鼻先をかすめた・・・ 編集手帳 八葉蓮華

黴臭いにおいが鼻先をかすめた・・・ 編集手帳 八葉蓮華
明治天皇が軍人に下賜した「軍人勅諭」に〈(軍人は)政治に拘(かかわ)らず…〉とある。以下、〈只々一(ただただいち)途(ず)に己(おの)が本分の忠節を守り〉と続くのをみれば、「政治にかかわらず」が「関与せず」の意味であるのは疑問の余地がない◆それを「時の政治がどうであれ、意に介することなく」と都合よく読み替えた軍人たちが、無謀な昭和戦争に道をひらいたのは歴史の教えるところである◆時の政治がどうであれ――の黴臭(かびくさ)いにおいが鼻先をかすめた。「わが国が侵略国家だったというのは濡(ぬ)れ衣(ぎぬ)だ」等々、政府見解と異なる論文を発表して航空幕僚長が更迭されたが、ひとりの逸脱ではなかったらしい◆「真の近現代史観」をテーマとする懸賞論文は空幕教育課が全国の部隊に応募要領を通知し、幕僚長のほかにも78人の航空自衛隊員が応募したという。組織を挙げて奨励した経緯と背景を防衛省は解明する責任がある◆論文の内容に一理ある、ないの話ではなく、中国や韓国が怒る、怒らないの話でもなく、ましてや退職金を返納する、しないの話ではない。政治をないがしろにする空気はありや、なしや。その一点である。

11月7日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

11.06.2008

肌の色という壁をひとつ乗り越え・・・ 編集手帳 八葉蓮華

肌の色という壁をひとつ乗り越え・・・ 編集手帳 八葉蓮華
ライルという名前のひどく凶悪な殺人犯が刑務所にいる。出所する可能性を問われて、ある男が答えた。あり得ない話さ。「ライルが出てくるよりも、黒人がホワイトハウスの主(あるじ)になるほうが先だろうよ」◆米国の人気推理作家ジェフリー・ディーバー「12番目のカード」(文芸春秋)の一節である。小説が世に出た3年前にはまだ、黒人の大統領は「起こり得ぬこと」の代名詞であったろう◆バラク・オバマ上院議員(47)が米大統領選を大差で制した。すべての人の平等をうたった1776年の独立宣言、1863年の奴隷解放宣言などとともに、黒人大統領の誕生は歴史に刻まれる偉大な1行に違いない。米国の国内はいま、「起こり得ぬこと」を起こし得た興奮に包まれている◆「変革」を旗印に掲げるオバマ氏が大統領として政策の何を変え、何を変えずに守るのかは、いまだ明らかでない。米国の一挙一動が密接に国益と絡み合う日本が手放しで祝賀熱に浮かれていられないのも事実である◆そのことは胸に留めつつ、きょうは、いまは、肌の色という壁をひとつ乗り越えた米国の人々に心から拍手を送る。

11月6日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

11.05.2008

「おいしいお酒」を頂戴したあとでは・・・ 編集手帳 八葉蓮華

「おいしいお酒」を頂戴したあとでは・・・ 編集手帳 八葉蓮華
ドイツ文学者の高橋義孝さんは、親しく接した作家の内田百ケンに蔵出しの名酒を一升贈ったことがある。のちに百ケンに会ったとき、ひどく怒られたという◆ふだん飲んでいるお酒が、ああいうおいしいお酒を頂戴(ちょうだい)したあとでは飲めなくなる。「迷惑します」。苦情を言われたと、随筆「実説 百ケン記」に書いている。偏屈で知られた作家らしい挿話だが、顧みれば人生を彩る成功も、到来物の「おいしいお酒」に似ているかも知れない◆1990年代に超売れっ子の音楽プロデューサーとして一世を風靡(ふうび)した小室哲哉容疑者(49)が、5億円を詐取した疑いで逮捕された。かつては年収が推定で30億円を超えていた人である◆数年前からヒット曲に恵まれず、海外事業も失敗し、多額の借金を背負った。そののちも「クレジットカードの支払い数千万円」「マンション家賃280万円」といった派手な暮らしぶりは変わらなかったといわれる◆おいしいお酒が切れたあと、いちど肥えた舌が身の丈に合う元の酒に戻るのは容易でない。転落の傷口を広げただろう。「成功」という美酒ほど、酔い方のむずかしい酒はない。

11月5日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

11.04.2008

木造アパート、トキワ荘の日々・・・ 編集手帳 八葉蓮華

木造アパート、トキワ荘の日々・・・ 編集手帳 八葉蓮華
まとめ買いしたフランスパンを朝昼晩にかじり、二人で机を並べて漫画を描く。寒い夜は布団を頭からかぶり、睡魔に襲われると、ペン先で互いの太ももを刺し合った◆東京・椎名町の木造アパート、トキワ荘の日々を「藤子不二雄」のおふたり、安孫子素雄(あびこもとお)(74)、藤本弘(96年逝去)の両氏は自叙伝のなかで回想している◆手塚治虫さんがここから天空高く羽ばたき、まだ少年の面影を残す石ノ森章太郎さんや赤塚不二夫さんがひな鳥の時期を過ごした。若手漫画家の梁山泊と呼ばれた伝説のアパートである。藤本さんとの合作「オバケのQ太郎」や一人で描いた「忍者ハットリくん」などで知られる藤子不二雄(A)――安孫子さんが秋の叙勲で旭日小綬章に選ばれた◆藤子不二雄を名乗る以前、「足塚不二雄」というペンネームを付けていた時期がある。「手塚先生の“手”に遠く及ばぬ“足”である」と。神のごとく仰ぎ見た手塚さんの生誕80年にあたるきのう、受章が報じられた◆赤塚不二夫さん(享年72)が亡くなって間がない。悲しみにつけ、喜びにつけ、トキワ荘から流れた歳月のしのばれる秋である。

11月4日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

11.03.2008

金融立国を目指して失敗した・・・ 編集手帳 八葉蓮華

金融立国を目指して失敗した・・・ 編集手帳 八葉蓮華
北極圏に接する世界最北の小さな島国がアイスランドだ。氷河があり、火山活動も活発で、「氷と火の島」とも呼ばれる。景観が月に似た自然が魅力だろう◆首都のレイキャビクは「煙たなびく湾」の意味という。かつてアイスランドへの移住民が、火山近くの温泉から噴き出る湯煙をみたことに由来する。しかし、今、アイスランドから立ち上るのは、米国発の金融危機が真っ先に飛び火して燃えさかる炎だ◆もともとは漁業が中心だったのに、ここ数年、金融立国を目指して失敗した。リード役だった銀行部門が、国内総生産(GDP)の数倍にのぼる巨額の負債を抱え、国の財政が破たん寸前だ。非常事態宣言が出され、国際的な支援を仰いでいる◆国家の懐が火の車となり、国民が凍える「氷と火の島」への転落は、皮肉な結末だろう。素朴な漁業国が背伸びして、ハイリスクなマネーゲームに火傷(やけど)したツケは大きい◆オーロラの季節を迎えたアイスランドでは、緑や赤の幻想的な光の帯を「ノーズル・リョス」(北極の光)と呼んで親しむ。危機を脱する光明を探りながら、オーロラを見上げる日が続く。

11月3日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

11.02.2008

社会の余裕は大切にしたい・・・ 編集手帳 八葉蓮華

社会の余裕は大切にしたい・・・ 編集手帳 八葉蓮華
景気は“気”から、という。経済学のかなりの部分は心理学と重なる。景気の良し悪(あ)しも、株価の動きも、その社会の人々の心持ちと何らかの相関関係があっておかしくはない。こうした観点から証券系の研究所が度々、面白い分析をしてくれる◆先ごろ大和総研が「落とし物と株価の関係」を論じていた。警視庁に届いた拾得物の統計から、現金の額をグラフにすると、中長期的な株価の浮き沈みと概(おおむ)ね一致するらしい◆拾ったお金をきちんと届けるというのは人々の心理的余裕の表れであり、そうした余裕を生む社会環境では株価も上昇する、というのが研究所の分析だ。うなずけぬではない◆昨年は届いた金額が大きく増えたそうだ。ところが株価はそれほどまでは伸びなかった。そんな場合でも研究所は、株価はサブプライム問題など海外の要因で伸び悩んだが日本人の心理的余裕は底堅かった、と前向きに見る◆もちろん株価がどうあろうと、落とし物はきちんと届けて当然だ。混乱が続く相場のニュースに振り回されぬためにも、社会の余裕は大切にしたい。今年の落とし物統計はさて、どうなりますか。

11月2日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

11.01.2008

王者であり続ける道に・・・ 編集手帳 八葉蓮華

王者であり続ける道に・・・ 編集手帳 八葉蓮華
疑問や推量の「もし」に漢字をあてると「若し」である。白川静氏の「常用字解」(平凡社)によれば、「若」は巫女(みこ)が舞いながら神のお告げを求めている様子を表す象形文字という◆「若し」も、そこに由来するらしい。漢字の成り立ちはおくとして、若いときくらい人生の可能性に思い煩い、疑問の「もし」、推量の「もし」が数限りなく立ちのぼる時期はなかろう◆柔道の北京五輪金メダリスト、石井慧選手(21)(国士舘大4年)がプロの格闘家に転身の意向という。きのう、事実上の引退届となる強化指定選手の辞退届を全日本柔道連盟に提出した◆柔道界には大きな痛手であり、次のロンドンは脂がのった25歳、誘致がかなえば東京では円熟の29歳…と愉(たの)しい胸算用をしていたファンにとっても残念な限りである。そうした声に耳を傾けた熟慮の末の決断であろうから、新天地での健闘を祈ろう◆歌人の佐佐木幸綱さんに一首がある。〈正午の鐘鳴り止まざりき炎天下ひた走り希望を病みいし頃よ〉。希望に病み、王者であり続ける道に背を向けて挑戦者の道を選ぶのもまた、若さゆえの特権には違いない。

11月1日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

10.31.2008

家計の消費がどれだけ上向くか・・・ 編集手帳 八葉蓮華

家計の消費がどれだけ上向くか・・・ 編集手帳 八葉蓮華
明るさの単位には二つある。光源の明るさ、光度の単位を「カンデラ」といい、光源からそこに届いた光の量、照度の単位を「ルクス」という◆きのう、麻生首相が記者会見をして追加景気対策を発表した。国費で約5兆円、事業費にして約27兆円は、光源のカンデラとしては一応の数字だろう。暮らしの隅々に光がどれだけ届き、照らすか、ルクスが問われる◆柱のひとつに、2兆円規模の「定額給付金」がある。4人家族の世帯で6万円ほどの額になるという。選挙目当てのバラマキではないか、という疑念の声も一部で聞かれる◆光に影はつきもので、財源をあまねく分かとうとすればバラマキと批判され、重点配分して特定の業界が潤えばエコヒイキと批判される。景気対策のいつも悩ましいところで、無責任なバラマキか否かは照らされた家計の消費がどれだけ上向くか、ルクスで判定するほかあるまい◆カンデラとは、ラテン語で「ろうそく」の意味という。米国発の金融危機を首相は未曽有の大災害、百年に一度の暴風雨にたとえた。光源のろうそくを風に吹き消されぬよう、政府には寝ずの番が要る。

10月31日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

10.30.2008

ごめんねとおもいきり抱いてやりたい・・・ 編集手帳 八葉蓮華

ごめんねとおもいきり抱いてやりたい・・・ 編集手帳 八葉蓮華
〈吹けば飛ぶよな将棋の駒に…〉。作曲家の船村徹さん(76)は西條八十から「王将」の詞をもらったとき、盤に駒を並べ、息を吹きかけてみたという。本当に飛ぶのかと◆一字一句をおろそかにしない。歌手志望のお弟子さんには、「カラオケ教室ではないから」と歌唱の技術は教えず、心をこめて歌詞を千回も二千回も繰り返し読ませる。「別れの一本杉」「みだれ髪」「兄弟船」など船村演歌の名曲は、歌詞に浸り尽くすなかで生まれたのだろう◆船村さんが今年度の文化功労者に選ばれた。ノーベル賞の受賞会見で涙を見せた物理学者の益川敏英さんは「老人性涙腺軟弱症ですね」と照れ隠しに語ったが、船村メロディーに弱い「船村性涙腺軟弱症」の患者も世には多かろう◆船村さんがみずから詞を書き、ギターの弾き語りで歌う「希望(のぞみ)」という曲がある。各地の刑務所を慰問に歩き、女性受刑者に心を寄せてできた歌だという◆〈ここから出たら旅に行きたい/坊やをつれて汽車にのりたい/そしてそして静かな宿で/ごめんねとおもいきり抱いてやりたい〉。文字がにじんできた。われながら重症である。

10月30日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

10.29.2008

老若の別なく誰からも愛された晴朗な笑顔・・・ 編集手帳 八葉蓮華

老若の別なく誰からも愛された晴朗な笑顔・・・ 編集手帳 八葉蓮華
歌人の竹山広さんに一首がある。〈高橋尚子を見つづけしゆゑの微熱かと枕のうへのあたまはおもふ〉。シドニー五輪の女子マラソンである◆金メダルを手に語った、「すごく楽しい42キロでした」という言葉をご記憶の方もあろう。日本人選手を何かとライバル視する中国のメディアが「アジアの誇り」(上海紙「解放日報」)と絶賛したのもこのときである◆高橋選手が現役を引退すると聞いて瞼(まぶた)に浮かんだのは、しかし、シドニーの笑顔ではない。今年3月、北京五輪の代表切符をかけた名古屋国際女子マラソンに敗れ、「選ばれる選手の応援に回ります」と、いつもながらのQちゃんスマイルで語った。敗者としてのたたずまいも美しかった人である◆走ることが好きで好きで、白い地図を買い、練習のない日曜日に走った道を赤鉛筆で塗りつぶした挿話が残る。ひとには見せない苦悩があったにしても、老若の別なく誰からも愛された晴朗な笑顔は、何よりも「好き」の一心から生まれたのだろう◆36歳、人生のマラソンではまだ折り返し点も見えぬころである。「微熱」の記憶を胸に、沿道から小旗を振る。

10月29日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

10.28.2008

今は擂り半の警戒域に入ったか・・ 編集手帳 八葉蓮華

今は擂り半の警戒域に入ったか・・ 編集手帳 八葉蓮華
江戸の昔、遠い火事には半鐘を一つ叩(たた)いた。これを「一ツ半(ばん)」といい、もっと近いと「二ツ半」…最後は半鐘に槌(つち)を入れてかき回し、「擂(す)り半」と呼んだ◆米国発の金融危機を火事に例えれば、サブプライム問題が浮上して一ツ半、リーマン破綻(はたん)で二ツ半、東京市場の株価が26年ぶりの安値をつけた今は擂り半の警戒域に入ったかも知れない◆衆院選の時期が一段と不透明になった。民意を問うて安定政権を作れば柔軟な危機対応が可能になり、誰しも血の騒ぐ選挙は景気対策にもなるという主張もないではないが、日本語はともかくも外国語には翻訳しにくい論理だろう◆「家庭内のゴタゴタを片づけるので、これにて失礼」と日本が火消しの国際バケツリレーから抜けて、日本より火傷(やけど)の重い米欧が「どうぞ、ごゆっくり」と声をかけてくれるはずもない◆解散の先送りは選挙での劣勢を恐れる自民党の「党利党略」だと、民主党は批判している。その下心が自民党内の一部にあったとしても、党利党略がたまたま“国利国略”“世界利世界略”にかなうときもある。「擂り半」を聴く耳に与党も野党もなかろう。

10月28日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

10.27.2008

誰からの救いの手もなく・・・ 編集手帳 八葉蓮華

誰からの救いの手もなく・・・ 編集手帳 八葉蓮華
1950年代の米国車の多くは、尾灯に翼のような独特の飾りを施していた。「テールフィン」と呼ばれるデザインは、ゼネラル・モーターズ(GM)が最初に採り入れた。当時無敵を誇った米軍戦闘機の尾翼がヒントという◆当時の「アメ車」は、米国の富と力の象徴だった。アイゼンハワー政権の国防長官を務めたGMのチャールズ・ウィルソン社長が、「GMに良いことは合衆国にも良いことだ」と豪語したのも、このころである◆それから半世紀がたち、創立100年の節目を迎えたGMが未曽有の苦境にある。昨年の赤字はじつに4兆円を超え、大恐慌のさなかにも出し続けた配当をやめた◆米国経済の主役は製造業の雄GMから、世界最大の証券会社、ゴールドマン・サックス(GS)に代表される金融業に移り、「GSに良いことは合衆国にも…」という現実がある。誰からの救いの手もなく、政府の低利融資で命脈を保つGMの姿は、今や米国の危機の象徴になった◆存亡をかけて、同業クライスラーとの合併交渉が大詰めという。飾りではない、浮揚する本物の翼になるかどうかはまだ分からない。

10月27日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

10.26.2008

理解できぬ言葉が平気で使われている・・・ 編集手帳 八葉蓮華

理解できぬ言葉が平気で使われている・・・ 編集手帳 八葉蓮華
「どうしました?」「先生、朝から膝(ひざ)がやめて、やめて…」。新潟の医師は患者、特にお年寄りとそんなやりとりをする。「病(や)める」は「痛む」の古風な言い方だが、新潟では何とも言えぬ違和感を指すことも多い◆微妙なニュアンスが分からないと意思疎通がうまくいかない。看護師向けの月刊誌ナーシング・トゥデイに「看護と方言」と題して、各地の医療現場での苦労話が語られていた◆症状に関する地域独特の表現をデータベースにする取り組みがあるという。方言で訴える痛みや苦しさをいち早く理解したいと協力する医師や看護師は、常に患者の気持ちを考えている人だろう◆問題は医療の“標準語”だ。「寛解」だの、「予後」だの、患者に理解できぬ言葉が平気で使われている。国立国語研究所がそれらをまとめて、分かりやすい言い換えを提案した。寛解は「症状が落ち着いて安定した状態」、予後は「今後の病状の医学的見通し」◆本来は国語研ではなく、医療界がやるべきことではないか。「やめる」を解する医師や看護師に尋ねれば、とうに実行している言い換え表現を教えてくれるだろう。

10月26日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

10.25.2008

「虹龍」正倉院の宝庫で「龍の日干」・・・ 編集手帳 八葉蓮華

「虹龍」正倉院の宝庫で「龍の日干」・・・ 編集手帳 八葉蓮華
「夕立屋」という小咄(こばなし)がある。夏の盛りに客の注文を受けて自在に夕立を降らせる男、正体は天上の龍(たつ)という。冬、商売はどうするんだい? 客の問いに答えていわく、「倅(せがれ)の子龍(こたつ=炬燵)をよこします」◆子龍が実在すれば、こういう姿かも知れない。「虹龍(こうりゅう)」と名前の付けられたミイラは子猫ほどの大きさで、ノコギリ状の歯は鋭く、後ろ足には鉤爪(かぎづめ)をもっている。古人は龍の遺骸(いがい)と信じ、宝物のひとつに加えたらしい◆残念ながら遺骸の正体は龍ではなく、イタチ科の貂(てん)だという。きょうから奈良国立博物館で第60回の節目となる「正倉院展」が始まる。きのう、報道向けの事前公開で出陳の品々を見た◆古文書には室町幕府の将軍、足利義教(よしのり)が正倉院の宝庫で「龍の日干(ひぼし)」を見た――という記述があるという。目を丸くしてミイラに見入る、いにしえびとの表情を想像してみるのも愉(たの)しい◆観覧した朝、奈良市内は雨に煙った。「虹龍」が人の目に触れるときはきまって雨が降る、という語り伝えが正倉院に残っている。龍だ、龍だとおだてられているうちに、いつしか貂もその気になったのだろう。

10月25日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

10.24.2008

庶民感覚「ドーデモイイ」・・・ 編集手帳 八葉蓮華

庶民感覚「ドーデモイイ」・・・ 編集手帳 八葉蓮華
何かしら問題が生じたとき、いろいろな人が解決法を考える。「『ドーデモイイ』という解決法のある事に気の付かぬ人がある」とは寺田寅彦の言葉という。作家、出久根達郎さんの著書「百貌百言(ひゃくぼうひゃくげん)」(文春新書)に教えられた◆麻生首相が毎晩のようにホテルの“高級バー”などに通っていることが庶民感覚にそぐわないと、このところ一部で問題になっている。これも解決法「ドーデモイイ」の例かも知れない◆要は国民本位の政策が立案、実行できるかどうかが評価の分かれ目で、家で味噌(みそ)をなめつつ酒を飲めば妙案が浮かぶものでもなかろう。首相は手銭での飲食と説明している。バー通いをやめ、その分のお金が麻生家の通帳に積み上がったからといって喜ぶ庶民もいまい◆庶民感覚という言葉もどんなものだろう。3年前の衆院選で自民党から当選した新人議員が「給料は2500万円、議員宿舎は3LDKですよ」とはしゃいで顰蹙(ひんしゅく)を買ったが、所得と住居で庶民感覚に合致した国会議員など一人もいないことになる◆株がまた下がった。目の前には、断じて「ドーデモヨクナイ」問題がいくらもある。

10月24日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

10.23.2008

母のいまはの その声を返せ・・・ 編集手帳 八葉蓮華

母のいまはの その声を返せ・・・ 編集手帳 八葉蓮華
生まれる前の子供たちがこの世に降り立つべく、船に乗る。生まれたら、お前は何の職に就くのかい? 「時」の番人が尋ねる。メーテルリンクの「青い鳥」である◆「時」の番人だから未来はお見通し…と思えばそうでもない。医者になると告げた子供に文句を言った。「もうたくさんなのに。地上は医者でいっぱいなんだ」(堀口大学訳、新潮社)◆また医師不足の悲劇である。脳出血を起こした都内の妊婦(36)が七つの医療機関で受け入れを断られ、出産後に死亡した。赤ちゃんは無事という◆最終的に受け入れた都立病院は24時間どんな患者も診る救急病院、いわゆるERである。そこでさえ産科の当直医は1人で、いったんは受け入れを断った。ERの仏を作っても医師という魂が入らなければ、悲劇はまたどこかで繰り返すだろう。医療改革は一刻の猶予もならない◆翻訳者の詩人、堀口大学は物ごころのつかぬころに母を亡くしている。「母の声」という詩がある。〈三半規管よ/耳の奥に住む巻貝よ/母のいまはの その声を返せ〉。その赤ちゃんもいつの日か、同じ言葉を自分の耳に語るだろう。

10月23日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

10.22.2008

人の姿をした猛獣・・・ 編集手帳 八葉蓮華

人の姿をした猛獣・・・ 編集手帳 八葉蓮華
けものが通る山中の小道を「けもの道」という。小さな動物は大きな動物の厄災を逃れ、自分のけもの道をつくる。街の歩道橋をたとえて「究極のけもの道」と呼んだのは、先日亡くなった演出家の吉田直哉さんである◆道路には車という猛獣がうようよしている。地上を逃れて「歩道橋を通るたびに、けもの道を通る小動物の悲哀を味わいます」と、「目から脳に抜ける話」(ちくま文庫)で語っている◆輪禍のニュースには慣れていたつもりだが、その猛獣の所業にははらわたの煮える感覚が消えない。大阪市内の交差点で車が男性会社員(30)をはね、引きずった。距離にして約3キロ、血痕が点々とつづいていたという◆男性は死亡し、車は逃走した。ビニール袋を車輪に巻き込んでも音でわかる。ましてや人である。「ひき逃げ」よりも「殺人」という言葉がしっくりくる◆被害者のいまわの際の苦痛はもちろんのこと、その苦痛に思いをめぐらす遺族の胸の内はいかばかりだろう。目を閉じても消えない像に、耳を押さえても聞こえる声に、眠れないはずである。人の姿をした猛獣は檻(おり)に収めねばならない。

10月22日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

10.21.2008

世襲にもいろいろある・・・ 編集手帳 八葉蓮華

世襲にもいろいろある・・・ 編集手帳 八葉蓮華
江戸の昔、大きな商家では跡取りが生まれると、おもちゃ代わりに小判を与えたという。「いつのまにやら本物と偽物の見分けがつくんやそうでして、大きなったら偽金をつかまされない、商売人の知恵があったんやそうで…」◆「桂米朝コレクション」(筑摩書房)から落語「千両みかん」の一節である。米朝さんの長男、小米朝改め五代目桂米団治(よねだんじ)さん(49)も、本物の芸という小判に幼少から親しんだ人だろう◆落語の登場人物でいえば浮世の苦労を知らない若旦那(だんな)の風貌(ふうぼう)で、声もしぐさものびのびとして華がある。一昨日、都内で襲名披露公演を聴いた◆人間国宝の米朝さんも並んだ口上の席で、大名跡を継ぐいきさつを司会役の桂南光さんが「ええお父さんを持たはって…」と語るや、米団治さんがずっこけて客席が沸いた。七光りの雑音は芸を磨いて消せ、という兄弟子流の愛情表現であったろう◆小判を成長の肥やしにする人、猫に小判で終わる人、世襲にもいろいろある。米団治さんの陽気で愉(たの)しい「蔵丁稚(くらでっち)」を聴きながら、猫のほうに属する政治家の名前が一つ、二つ、浮かばなかったわけでもない。

10月21日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

10.20.2008

かつて「樺太」と呼ばれた島・・・ 編集手帳 八葉蓮華

かつて「樺太」と呼ばれた島・・・ 編集手帳 八葉蓮華
ロシアのサハリンはもうすぐ雪がちらつき、長い冬を迎える。かつて「樺太」と呼ばれた島は、この数年、欧米の国際石油資本や日本の商社が参加する原油・天然ガス開発の特需に沸いた◆州都ユジノサハリンスクの郊外に通称アメリカ村がある。広々とした住宅と子供の学校、テニスコート…。資源開発事業「サハリン2」の従業員用施設だ◆海外から来た高収入の技術者と出稼ぎの建設労働者で島は活気づいた。物価は年に2~3割も上がり、不動産投機が過熱した。雇用は増え、富を得た者もいるが、人口の3割を占める年金生活者には苦しい日々が続く◆“バブル”はいずれはじけるだろう。サハリン2の約800キロのパイプラインと出荷基地は今年完成し、年明けにも液化天然ガスの日本などへの輸出が始まる。工事完了で数千人が島を去る◆北方領土も管轄しているサハリン州知事は、「石油やガスだけでなく、今後は加工産業にも力を入れたい。技術力のある日本企業を誘致したい」と言う。北隣の資源大国との付き合いは大切だが、領土問題は脇に置いて実利を取ろうという腹なら、虫が良すぎる。

10月20日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

10.19.2008

決してすべからず・・・ 編集手帳 八葉蓮華

決してすべからず・・・ 編集手帳 八葉蓮華
―本間様には及びもないが、せめてなりたや殿様に…。そう唄(うた)われた豪商にも連なる本間宗久は相場の神様として有名だ。江戸時代の米相場で連戦連勝、その極意を記した秘録の言葉は、相場格言としてあがめられている。例えば「まふ(もう)はまだなり、まだはまふなり」◆株式市場は、一日で1000円以上も乱高下するほど大荒れが続く。振り返れば、米国で株価が暴落し、ブラックマンデーと称されたのは21年前のきょう10月19日だった◆金融危機の震源地アメリカでは、そのブラックマンデーを超える幅の下落が、先月末からの3週間で4度もあった。いくらなんでももう下げ止まるだろう、と思ってもまだ下げ止まらない。まだ下がると青くなっていると、もう流れが変わっている◆同じ“米”市場ながら宗久翁でもこの先行きは見通せまい。秘録は「高下は天然自然の理(ことわり)」、「腹立ち売り、腹立ち買い、決してすべからず」とも説く◆市場の乱高下はもう終わるのか、まだ続くのか。株価の下落で製造業にまで暗雲が漂い、ボーナスやクリスマスにも影響必至と聞けば、株を持ってはいなくとも気が気でない。

10月19日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

10.18.2008

駄洒落ひとつも言いにくい世の中・・・ 編集手帳 八葉蓮華

駄洒落ひとつも言いにくい世の中・・・ 編集手帳 八葉蓮華
豊臣秀吉が好んだ野菜とお酒は、なあに? 「セロリ新左衛門と千のリキュール」。志賀直哉作のなぞなぞという。作家、阿川弘之さんの評伝「志賀直哉」(岩波書店)に教えられた◆駄洒落(だじゃれ)好きであったと聞けば、仰ぎ見る文豪もいくらか身近に感じられるようである。言葉遊びは、なにかと窮屈な人間関係にひらいた息抜きの窓だろう◆駄洒落の技を競う「D1だじゃれグランプリ」の実行委員会が東京大会(11月24日)の出場者を募っているという記事を本紙の都内版で読んだ。暗い世相を駄洒落で照らそうという催しで、前回は大阪で開かれている◆1対1のトーナメント方式で、選手はお題にそって30秒以内に駄洒落を披露する。優勝者に贈られる魚の形をした紙粘土の金メダル、ならぬ「キンメダイ」を競って爆笑あり、苦笑あり、会場はにぎやかなことだろう◆以前は好きな駄洒落を問われると、寄席で聴いた落語のくすぐりを挙げていた。「お宅は火付け(しつけ)と懲役(教育)が行き届いて…」というのだが、悲惨な放火事件などを現実に目にすると、駄洒落ひとつも言いにくい世の中ではある。

10月18日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

10.17.2008

その時々は胸を揺さぶられ、怒り、涙しながら・・ 編集手帳 八葉蓮華

その時々は胸を揺さぶられ、怒り、涙しながら・・ 編集手帳 八葉蓮華
「うまくいかない画像サイズになった」と書くつもりが、パソコンの画面に現れた文章は、「馬食い家内が象サイズになった」。日本漢字能力検定協会が募った漢字変換ミスの年間賞に選ばれている◆教えれば何でも覚えるが、文脈の流れを理解しない。「記憶力抜群のバカ」と呼んだ人がいるが、文章を作成する機械にはそういう面がある。この原稿もパソコンで書いている◆パソコンに口があれば何と反論するだろう。「自分のお粗末な記憶力を棚に上げて…」と逆(さか)ねじを食うかも知れない。兵庫県加古川市の小学2年生、鵜瀬柚希(うのせゆずき)ちゃん(当時7歳)が自宅前で刺殺された事件から1年になることを、母親の悲痛な手記を読んで知った◆この1年、通り魔の「秋葉原」があり、放火の「大阪」があり、「加古川」の記憶を遠い過去であるかのように感じているわが身を省みて、逆ねじは耳に痛いものがある◆犯人はまだ捕まっていない。その時々は胸を揺さぶられ、怒り、涙しながら、めまぐるしい世相の流れに忘れていく。「感受性抜群のバカ」であってはならないと、新聞週間を迎えて自戒を新たにする。

10月17日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

10.16.2008

食材に安心を取り戻せなければ・・・ 編集手帳 八葉蓮華

食材に安心を取り戻せなければ・・・ 編集手帳 八葉蓮華
作家の山田風太郎さんが終戦の翌々年、1947年(昭和22年)の日記に食の窮乏を書き留めている。「米食わざること既に一週、常食はいんげんなり」と(小学館「戦中派闇市日記」)◆インゲン攻めに「十歩あゆめば足重く、想をかまえんと欲するも頭脳まとまらず」という日記の脱力症状ならばまだしも、強烈な異臭を放ち、味見で舌がしびれるとは沙汰(さた)の限りである◆中国産の冷凍インゲンから基準値の3万倍を超える濃度の殺虫剤「ジクロルボス」が検出された。調理中の女性が一時入院した。製造過程か、流通過程か、混入の経路はまだ分からない◆残留農薬ではそれだけの高濃度にならないという。人為の疑いが濃い。インゲンを用いた人気メニューの一つにゴマあえ、別名「ゴマ汚(よご)し」があるが、“劇物汚し”という邪悪な献立を、誰が、どこでたくらんだのか◆戦中戦後の食糧難を支え、いまも食卓を彩る大事な友であるインゲンを、中国から日本にもたらしたのは明の渡来僧、隠元(いんげん)と伝えられる。国境をまたぐ食材に安心を取り戻せなければ、「グローバルの禅僧」と称(たた)えられたその人が泣く。

10月16日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

10.15.2008

逃げ出す奴はこうなる・・・ 編集手帳 八葉蓮華

逃げ出す奴はこうなる・・・ 編集手帳 八葉蓮華
昔、江田島の海軍兵学校で部外の講師を招いて講演の最中、生徒のひとりがおならをした。教官が「いま屁(へ)をした者、出てこい」と言うと、5人の生徒が名乗り出たという◆「部外の先生がひどく感心した」と作家の阿川弘之さんが「海軍こぼれ話」(光文社)に書いている。場所も同じ、海の安全保障を担う志も同じでありながら、友を守るためならば身を捨てるのもいとわない高潔な伝統精神はどこに消えたのだろう◆広島県江田島市の海上自衛隊第1術科学校で先月、特別警備隊の養成課程に所属していた3等海曹(25)が、他の隊員15人を相手にした格闘訓練で殴られて転倒、頭を強打して死亡していたことが分かった。本来は1対1でする訓練である◆この海曹は「課程を続ける自信がない」と退校を希望し、別の部隊に異動が決まっていた。以前にも中途離脱する隊員が同様の訓練でけがをしている。逃げ出す奴(やつ)はこうなる、という見せしめの制裁でなくて何だろう◆「異動のはなむけの意味もあった」と、学校側は遺族に説明したという。集団リンチを今生(こんじょう)の思い出に冥土へ旅立たせたと、そう言うのか。

10月15日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

10.13.2008

千年以上の歴史を持つ二胡・・・ 編集手帳 八葉蓮華

千年以上の歴史を持つ二胡・・・ 編集手帳 八葉蓮華
哀愁を帯びた音色で知られる中国の民族楽器・二胡は千年以上の歴史を持つと言われる。片や西洋楽器の代表格バイオリンの歴史は五百年ほど◆どうしてバイオリンは世界中に広まり、二胡は中華世界だけなのか。東京をベースに国際的に演奏活動を続ける二胡演奏家の許可さん(47)(南京市出身)は20年前、日本で東西比較文化を学んだ時に考えた◆「伝道思想を持つキリスト教文化と、そうではない中華文化の違いがある。二胡を“革命”しない限り未来はない」。以来、2本の弦を弓で弾く二胡で、西洋楽器と融合可能な音色を生み出す演奏法を模索した◆幾度かの試みを経て、今年はベルリン・フィルハーモニー管弦楽団から誘いを受けるまでになり、同楽団の弦楽五重奏団との共演が、ドイツと日本国内4か所で実現した。二胡と西洋楽器によるチャイコフスキーの「アンダンテ・カンタービレ」は、東西融合の音色だった◆「今後は二胡と西洋楽器との共演で、アジアの文化を世界に伝えたい」。日本を媒介して生まれた許可さんの願いは、21世紀の音楽のあり方を示しているかもしれない。

10月13日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

10.12.2008

旅に病で夢は枯野をかけ廻る・・・ 編集手帳 八葉蓮華

旅に病で夢は枯野をかけ廻る・・・ 編集手帳 八葉蓮華
〈旅に病(やん)で夢は枯野(かれの)をかけ廻(めぐ)る〉。芭蕉翁は最期の床でそう詠んだが、格別に辞世の句として遺(のこ)したわけではなかった。門人には「平生則(すなわ)ち辞世なり」と説いている。常に日々を大切に生き、句作してきたということだろう◆実際に亡くなった旧暦10月12日とは、ひと月余り季節がずれるものの、きょうを芭蕉忌とする行事も多い。翁(おきな)忌ともいう。だが、年譜を見ると享年は数えで51だ。満なら50歳になるかならないか◆隅田川のほとり、東京・深川の芭蕉庵(あん)史跡庭園で翁の像と向かい合ってみた。当時としても若くして年長に見られた人らしい。とはいえ、今日の同世代とは雰囲気があまりに違う。現在、日本人の平均寿命は男性79・19歳、女性は85・99歳。芭蕉の時代よりはるかに長い◆無論、長寿は喜ばしい。問題は人生が豊かになっているのかどうか。平生則ち辞世、などと思索する間もなく日々はあわただしく過ぎる。現代の50歳が翁に近い風貌(ふうぼう)になるころ、頼りの年金や医療は少々心もとない◆芭蕉翁が今、数十年長い人生を過ごせばどうだろう。思う存分に「侘(わ)びしきを面白がる」ことになっても困る。

10月12日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

10.11.2008

我々の生のような花火・・・ 編集手帳 八葉蓮華

我々の生のような花火・・・ 編集手帳 八葉蓮華
ひとまねを批判して江戸の庶民は「株っかじり」と呼んだ。ひとのお株をかじり取る…。明治の初め、鹿鳴館が帝都に壮麗な姿を現したときも、一部の人々から同じ言葉を浴びたらしい◆外国からの賓客や外交官を接待する社交場だが、着慣れない夜会服で連夜の舞踏会に明け暮れる政府の高官たちが、庶民の目には西洋のあさはかな猿まねのようにも映ったのだろう◆千代田区内幸町、鹿鳴館のあった場所にはいま、大和生命保険の本社が立っている。米国の金融危機にはじまった世界的な株安で巨額の含み損を抱え、経営が破綻(はたん)した◆株高が会社の資産を増やし、増えた資産が株高を呼ぶ…。顧みれば世界経済の繁栄とは一面で、株高頼みの米国流経営術を「株っかじり」しながらの、うわべのみが華麗な舞踏会であったのかも知れない◆芥川龍之介の短編小説「舞踏会」に鹿鳴館階上バルコニーの場面がある。フランス人の青年将校が花火を眺め、日本人の令嬢にそのはかなさを告げる。「我々の生(ヴイ)のような花火…」。我々の生のような――経営者の弱気のつぶやきが、米国から世界に広がりつつあるのが怖い。

10月11日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

10.10.2008

芝居の夢ばかり見ていた・・・ 編集手帳 八葉蓮華

芝居の夢ばかり見ていた・・・ 編集手帳 八葉蓮華
ご自身は「ウサギ飯」と名づけている。山ほどのおからにニンジンやネギを刻んで煮込み、ご飯にかける。うまくもあり、とにかく安い◆緒形拳さんはかつて本紙に一文を寄せ、劇団の研究生だった当時を回想している。「三度三度おからを食べ、深夜のけいこで目を真っ赤にしていた私。全く、ウサギそのものであった」と◆家が貧しく、学費も生活費も自分の手で稼いで高校を卒業した。下積みの苦労話は誰にもあろうが、暗い部屋でひとり丼飯をかっ込む青年のギラギラした眼光を思い浮かべるとき、銀幕の中のその人を見ているようで手料理の挿話は忘れがたい◆自分が犯人ならば、緒形さんのような刑事に追われたくない。刑事ならば緒形さんのような犯人を相手にしたくない。「復讐(ふくしゅう)するは我にあり」「鬼畜」など数々の映画にむせ返るような生命力を発散して、71歳で急逝した◆回想の文章にある。「屋根にあいた穴から星の見える物置き小屋の中で、ミカン箱を並べたベッドに寝ながら、芝居の夢ばかり見ていた…」。その姿は青春期のひとこまのみならず、生涯を通しての自画像でもあったろう。

10月10日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

10.09.2008

クラゲの光をヒトの生命を照らす・・・ 編集手帳 八葉蓮華

クラゲの光をヒトの生命を照らす・・・ 編集手帳 八葉蓮華
1年ほど前、本紙の文芸欄で知り、書き留めた短歌がある。〈ほうたるのひかり追いつつ聞くときにルシフェラーゼは女の名前 永田紅〉。ルシフェラーゼはホタルなどが発光する際に必要な酵素という◆海中で緑色に光るオワンクラゲも酵素で光ると信じられていた。特殊なたんぱく質が発光するのを突き止めたのは有機化学者の下村脩氏(80)である。発見の手がかりは「イクオリン」、こちらは男の名前にも聞こえよう◆その意義は大きい。例えば、がん細胞中のたんぱく質にオワンクラゲの蛍光たんぱく質を付着させれば、がんの転移も光が教えてくれる。クラゲの光をヒトの生命を照らす「道具」に変えた人である◆下村氏が今年のノーベル化学賞に選ばれた。クラゲの生殖腺を切り取り、すりつぶし、未知の発光物質を探す。作業はおそらく、当たり籤(くじ)がないかも知れぬ宝籤を求めるような精神力を要しただろう。晴れの栄冠に拍手する◆量子力学、素粒子、反粒子…この一日、物理学のにわか勉強で討ち死にした頼りない脳みそを、クラゲの幻想にしばし休めている。夜の海に緑色の〈ひかり追いつつ〉

10月9日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

10.08.2008

めでためでたが三つ重なりて・・・ 編集手帳 八葉蓮華

めでためでたが三つ重なりて・・・ 編集手帳 八葉蓮華
落語などでよく引かれる狂歌がある。〈めでためでたが三つ重なりて 下のめでたが重たかろ〉。たった一つでさえめでたいことが、こんなに三つも重なっていいのかしら、と浮き立つ心を詠んでいる◆寄席通いの好きな人ならば、昨夜はテレビのニュース速報を見て一首を口ずさんだことだろう。発表されたノーベル物理学賞の受賞者に南部陽一郎(87)、益川敏英(68)、小林誠(64)と日本人科学者3氏の名前が並んだ◆いずれも素粒子研究での功績が認められたもので、湯川秀樹、朝永振一郎両氏につづく南部氏は第2世代、益川、小林両氏は第3世代にあたる。日本の“お家芸”にまた一つ、ならぬ三つ、新たな明かりをともした◆過去の日本人受賞者で最高齢の南部氏には若き日、アインシュタインを相手に激論を交わした逸話も残る。物理現象を確率論で説く量子力学を「神様はサイコロを振らない」として否定する大学者に30分も食い下がったという。昔日のあれこれを思い、感慨もひとしおに違いない◆めでためでたが三つ重なりて、政局や景気で何かと沈みがちな日本人の心も、今朝は少し軽かろう。

10月8日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

10.07.2008

病気と分かってもらえず・・・ 編集手帳 八葉蓮華

病気と分かってもらえず・・・ 編集手帳 八葉蓮華
体は丈夫そうなのに、いつもうつらうつらしていて働かない。民話の「ものぐさ太郎」である。太郎は「過眠症」(ナルコレプシー)だったかも知れないと、作家の色川武大(いろかわたけひろ)さんが随筆に書いている◆色川さん自身、この病気に苦しんだ。病気と分かってもらえず、怠け者と見られ、「太郎氏も弁明のしようもなくて辛(つら)かっただろう」と(中公文庫刊「いずれ我が身も」)◆日中も激しい眠気に襲われる。「暴力睡眠」と色川さんが呼ぶ発症の詳しい仕組みは分かっていない。国内には600人に1人、約20万人の患者がいると推定されている◆東京大学の研究チームが発症に関係する遺伝子を発見した。健康な人と患者の遺伝情報を解析し、そこに変異があると発症の危険性が1・8倍に高まる遺伝子を特定したもので、原因の解明や治療法の開発に結びつく成果という◆詩人の杉山平一さんに「眠り」という詩がある。〈眠りへ/エスカレーターを降りてゆく/たのしい地下室/おれだけの部屋〉。「たのしい部屋」であるべき睡眠を「くるしい部屋」として過ごしている人たちに、朗報の始まりとなればいい。

10月7日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

10.06.2008

巨額の報酬を得てきたウォール街・・・ 編集手帳 八葉蓮華

巨額の報酬を得てきたウォール街・・・ 編集手帳 八葉蓮華
大恐慌の嵐が吹き荒れていた1930年代、米国の銀行家が「バンカー」ではなく、「バンクスター」と呼ばれた時期があった。ごろつきを意味する「ギャングスター」と韻を踏む◆ギャングの仲間のように扱われ、苦り切るバンカーもいたことだろう。ただ、詐欺まがいの手口で、個人投資家の資金を巻き上げる悪質な銀行も存在したという◆無論、今の米金融危機と大恐慌を同列に論じることはできないが、米国民の感情には共通するものがあるようだ。金融商品を編み出し巨額の報酬を得てきたウォール街を見る国民の目は厳しい。そんな街のために税金を使うのか◆国民がそう息巻くところまでは理解できないでもない。だが一度とは言え、必要な対策を講じるべき議会が、こうした声にひるんだのはいただけなかった。誤った判断により傷口は広がった◆その米下院がようやく、金融安定化法を可決した。これで万全とは言えないにせよ、政府と議会が一致して事に当たろうとの気持ちは伝わってくる。恐慌時のフーバー大統領は事態を楽観し、対応が遅れた。恐慌の克服に失敗した大統領として名を残す。

10月6日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

10.05.2008

スクランブル領空侵犯の恐れ・・・ 編集手帳 八葉蓮華

スクランブル領空侵犯の恐れ・・・ 編集手帳 八葉蓮華
航空自衛隊で小さな異変が起きている。最も花形の戦闘機パイロットの人気が下降し、代わりに輸送機や救難機の操縦士を志望する人が増えているという◆戦闘機乗りの訓練は過酷だ。空中戦では高速で急旋回する際、自分の体重の7、8倍の重力に耐えねばならない。領空侵犯の恐れのある外国機に対する緊急発進(スクランブル)の任務も、神経が消耗する割に世間の注目度は低い◆最近は、輸送機などの国際貢献や災害派遣の方がマスコミで脚光を浴びている。戦闘機乗り志望者は10年間で4割も減少した。ある救難部隊長は語る。「我々の職種には悪い事ではないが、少し寂しいよ」◆空自のパイロット全体の応募者も減少傾向にある。9月から「航空学生」募集時の身体検査基準を緩和し、裸眼で1・0以上が必要だった視力検査で眼鏡着用を認めた。握力の条件も撤廃した。より幅広く、優秀な人材を募るという◆最精鋭であるべき戦闘機乗りの質を維持するには、航空学生への応募者と、航空学生の戦闘機志望者の両方を増やす必要がある。小さな異変を、国防を揺るがす大きな異変にしてはなるまい。

10月5日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

10.04.2008

被爆都市ヒロシマの復興の象徴・・・ 編集手帳 八葉蓮華

被爆都市ヒロシマの復興の象徴・・・ 編集手帳 八葉蓮華
通路の古びた掲示板が、来場者に注意事項を告げている。グラウンドに降りない、物を投げ入れない…までは、どこの球場でも見かけるだろう。次が変わっている。「スタンドで焚火(たきび)をしない」◆2年ほど前、“赤ヘル”の聖地、広島市民球場を訪ねた折に見た。被爆都市ヒロシマの復興の象徴として完成したのは1957年(昭和32年)、昔は気の荒い観客がいたのかも知れない◆地獄絵の生々しく焼き付いた目でグラウンドを見つめた人もいただろう。平和の化身ともいえる競技に食い入る視線の凄(すご)みを、「焚火」の二文字にふと重ねたおぼえがある◆老朽化した球場は来春、閉鎖され、半世紀の歴史に幕を閉じる。カープはすでに本拠地での公式戦を終えたが、リーグの3位以内に残って日本シリーズに駒を進めることができれば観客席はもう一度、赤い波に揺れることになる。さて、どうだろう◆現代川柳に好きな一句がある。〈勝てカープ野球を知らぬわしじゃけど 大前タミエ〉。主力打者やエースが他球団や大リーグに移っていったなかで、選手たちはそういうファンにも支えられてきたに違いない。

10月4日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

10.03.2008

四季折々の美しい水田風景・・・ 編集手帳 八葉蓮華

四季折々の美しい水田風景・・・ 編集手帳 八葉蓮華
俗謡に、〈わらじ切れても粗末にするな、ワラはお米の親じゃもの〉とある。わらじを履く機会はもとより、ワラを目にすることも都会では稀(まれ)になったが、そのカレンダーをめくっては「なるほど親だな」と、ひとりうなずいている◆9月のページには、いかにも生命を抱いたように稲穂が黄金色に輝いている。刈り取りを終えた11月の「わらぐろ」(ワラを積み上げた山)は穏やかに色あせて、子を独り立ちさせた親の安堵(あんど)と寂しさをたたえている◆立正大学名誉教授の富山和子さんから来年の「日本の米カレンダー」を頂いた。四季折々の美しい水田風景の写真に、日本の文化の根は米づくりのなかにあるというメッセージを添えて、創刊20年になるという◆目のさめる青田のみどりから、実りの黄金色を経てワラの枯色(かれいろ)へ、やがては土に還(かえ)り、子孫を養う肥料となる。人生の営みを映すかのような、母なる文化とはそういうものかも知れない◆国文学者、沼波瓊音(ぬなみけいおん)の句。〈秋刀魚(さんま)出(い)でたり一等米をあつらへよ〉。親元を離れた自慢の子たちが食卓を飾る秋である。わくわくと、少ししみじみと、秋刀魚に向かう。

10月3日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

10.02.2008

「言葉狩り」放歌高吟ご遠慮ください・・・ 編集手帳 八葉蓮華

「言葉狩り」放歌高吟ご遠慮ください・・・ 編集手帳 八葉蓮華
料理屋で、部屋の壁に注意書きの紙を見たことがある。「放歌高吟ご遠慮ください」。放歌高吟とは、あたりかまわず大声で歌うことをいう。歌う自由は誰にもあるが、場所柄がつきまとう◆〈逃げた女房にゃ未練はないが…〉と湯船でうなるのはいいが、結婚披露宴の席で歌えば顰(ひん)蹙(しゅく)を買う。とがめられて、「“歌狩り”は許さないぞ」と息巻いても取り合ってはもらえまい◆すでに身をひかれた方の言動をしつこくあげつらうつもりはないが、言論機関の末席に連なる者として「言葉狩り」という非難は聞き捨てにもできないので、一言だけ申し添えておく。問題発言で国土交通相を辞任した中山成彬氏がテレビ番組で、「言葉狩りはいけない」と語っておられるのを聴いた◆一議員としてならば議論の種火として珍重されただろう持ち歌も、立場と場所柄で放歌高吟を慎むのが大人である。中山氏が遭遇したのは「言葉狩り」ではなくて、「幼稚狩り」だろう◆ひとりの議員に戻り、心おきなくマイクの音量を上げるのもいい。次の総選挙の結果次第では、民主党から「最優秀歌唱賞」がもらえるかも知れない。

10月2日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

10.01.2008

夏に歌っていたのなら冬は踊って暮らせ・・・ 編集手帳 八葉蓮華

夏に歌っていたのなら冬は踊って暮らせ・・・ 編集手帳 八葉蓮華
毎日100万円ずつ貯金して、6800億円ためるのに何年かかる? 経済記者をしていたころ、知人に問われたことがある◆ざっと1800年はかかる。「卑弥呼(ひみこ)の昔からこつこつ蓄えたお金で金融機関を助けるとは気前がいい」と皮肉を言われた。住宅金融専門会社、いわゆる「住専」に政府はためらわず税金を投入すべし、という記事を書いた時である◆「マネーゲームでさんざん儲(もう)けてきた連中の尻ぬぐいに、われわれ庶民の税金が使われるのは許せない」という素朴な感情の前では、「金融危機の連鎖を断つことが何よりも大事」という説得はいつの世も旗色が悪い◆米下院で金融安定化の法案が否決された。株は暴落し、世界経済は大揺れである。投入されるはずの税金は74兆円、毎日100万円ずつ貯金して20万年かかる巨額なものだが、手当てが遅れるほど傷口は広がり、費用は膨らんでいく◆世の“素朴な感情”におもねった否決を悔やむ日が来るだろう。「夏に歌っていたのなら冬は踊って暮らせ」。寓話(ぐうわ)のアリのように、落ちぶれたキリギリスを追い払えないのが金融危機のむずかしさである。

10月1日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

9.30.2008

「弁舌の闘技場」国民生活を二の次にして・・・ 編集手帳 八葉蓮華

「弁舌の闘技場」国民生活を二の次にして・・・ 編集手帳 八葉蓮華
早くから浮世の荒波にもまれた劇作家の長谷川伸は少年のころ、喧嘩(けんか)のコツを仕込まれたという。相手の顔から目を離してはいけない。「手はツラの次に動くものだ」と◆手が動く前に必ず顔が動く。相手の表情を見ていれば後手を引くことはない、という教えらしい。きのう、国会で所信を表明した麻生首相の目の前には小沢一郎民主党代表の顔がぶら下がっているように見えた◆「民主党」という言葉は計12回、政局第一で国民生活を二の次にしていると非を鳴らし、国会運営の見解や補正予算案の賛否を問いただした。いわば啖呵(たんか)で、読んで字のごとく「信ずる所」を淡々と述べるのが普通の所信表明としては型破りである◆政策論争に成算があっての強気と見るか、ただの虚勢と見るか、果敢と見るか、下品と見るか、感想は人さまざまだろう。代表質問で小沢氏は売られた喧嘩に応えることになる。いずれにせよ国会という「弁舌の闘技場」が活気づくのは悪いことではない◆閣僚の不始末など政府の痛い所を突く小沢氏の手。解散・総選挙のスイッチを押す麻生氏の手。ツラが先に動くのはどちらだろう。

9月30日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

9.29.2008

百日の説法、屁ひとつ・・・ 編集手帳 八葉蓮華

百日の説法、屁ひとつ・・・ 編集手帳 八葉蓮華
古川柳に、〈屁(へ)をひりに屋根から下りる宮普請(みやぶしん)〉とある。神社で社殿を造営する宮大工である。おならをしようにも、屋根の上では罰が当たる。わざわざ下りる律義さがほほえましい◆閣僚とはいわば、国づくりを任された宮大工である。国政の屋根の上で、仲間の職人衆も鼻をつまむ臭気を繰り返し放てば、お役御免(ごめん)になるのも致し方ない。中山成彬国土交通相が内閣発足からわずか5日で辞任した◆引責のもとになった幾つかの問題発言のうち、「日教組(日本教職員組合)は解体しないと…」「日教組はガン」といったくだりについては今に至るも撤回していない。持論なのだろう◆日教組批判を持論にする政治家がいてもいいし、一つの視点としての意義は認めるが、信念とは胸の奥で静かに燃やしておくもので、立場をわきまえず世間に“嗅(か)がせる”ものではない◆尊い教えを説いてきた僧侶が最後に異な音を発し、法話のありがたみが吹き飛ぶことを〈百日の説法、屁ひとつ〉という。総裁選を通じて政見を国民に訴えてきた自民党には痛恨の「屁ひとつ」だろう。思慮の足りない味方ほど怖い敵はない。

9月29日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

9.28.2008

高砂や「千秋楽」・・・ 編集手帳 八葉蓮華

高砂や「千秋楽」・・・ 編集手帳 八葉蓮華
〈高砂や この浦舟に帆を上げて…〉。かつて祝言の席に、夫婦愛の大切さを説く謡曲「高砂」は欠かせなかった。最近は披露できる人も少ないと思うが、冒頭の一節は多くの人がご存じだろう◆能舞台では、キリすなわち最後の部分はこう謡われる。〈さす腕(かいな)には悪魔を払ひ、をさむる手には寿福を抱き、千秋楽は民を撫(な)で、万歳楽には命を延ぶ〉◆諸説あるようだが、興行の締めくくりや最終日を「千秋楽」と呼ぶのは、めでたい高砂のキリの文句に由来するともいう。謡の内容は相撲とは関係ないものの、「悪魔を払う腕」「寿福を抱く手」と言えば力士の太い腕と大きな掌(たなごころ)が思い浮かぶ。秋場所もきょうが千秋楽だ◆どんよりとした雰囲気を、最後までぬぐえない国技館だった。大麻問題の不祥事を手に汗握る優勝争いで吹き飛ばすべきところなのに、横綱の一人が途中休場では盛り上がらない。所属が高砂部屋というのも皮肉なことだ◆大相撲は神事でもある。力士は土俵を熱くして不景気や陰惨な事件など世の重苦しさを払い、庶民の気持ちを明るくしてほしい。横綱同士がぶつかる千秋楽をまた見たい。

9月28日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

9.27.2008

「鳥瞰図」とりあえず・・・ 編集手帳 八葉蓮華

「鳥瞰図」とりあえず・・・ 編集手帳 八葉蓮華
歌人の鎌田弘子さんに、漢字の読み違えを詠んだ一首がある。〈鳥瞰図(ちょうかんず)をとりあえずとよむというを一度(ひとたび)笑いたちまちさみし〉。「あえて…する」の「あえて」は「敢て」、なるほど「瞰」に似ている◆大所高所の「鳥瞰図」と、目先の「とりあえず」、その対比がおもしろい。思えば何年か前の“小泉旋風”も、「とりあえず」ばかりの経済政策に国民が業を煮やし、構造改革の「鳥瞰図」を求めた結果であったろう◆空の高みからは、しかし、生活にあえぐ地上の人々は見えない。デフレ脱却に果たした小泉改革の役割は認めつつ、開くがままにした貧富の格差などに「とりあえず」の痛み止めを求める世論の揺り戻しを受けて、麻生内閣が発足したばかりである◆潮目の変化を象徴してもいよう。小泉純一郎元首相(66)が次の衆院選に出馬せず、引退する意向を表明した。秘書をしている二男に議席を引き継ぐという◆政界の旧弊なしきたりに挑みつづけた小泉氏にして、世襲政治を高みから見下ろす「鳥瞰図」は持ち得なかったようである。その人らしからぬ流儀に、〈たちまちさみし〉の感もなしとしない。

9月27日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

9.26.2008

「朱鷺色」大空を舞う姿・・・ 編集手帳 八葉蓮華

「朱鷺色」大空を舞う姿・・・ 編集手帳 八葉蓮華
わが書棚にも、何羽かのトキがいる。講談社学術文庫のシンボルマークがその鳥で、各巻の表紙に地を歩む姿が描かれている。古代エジプトで知恵の神の化身とされた縁で、書籍を飾る役目を担ったらしい◆学名「ニッポニア・ニッポン」に知恵という言葉を重ねるとき、感慨はほろ苦い。えさの小動物が農薬で姿を消す。田畑を荒らす野ウサギの駆除に、天敵テンを持ち込む…。日本産のトキを絶滅に追いやったのは人間の知恵、もしくは浅知恵である◆きのう、トキが27年ぶりに日本の空を飛んだ。新潟県佐渡市の佐渡トキ保護センターが中国産のつがいから人工繁殖させ、育ててきた10羽で、野生に復帰させる試験としての放鳥である◆朝焼けの雲のような、肌に透ける血潮のような、独特な色の翼で大空を舞う姿をテレビで見た。言葉に聞いていた「朱鷺色(ときいろ)」とはどんな色か、自分の目で確かめた子供たちもいただろう◆歌人、宮柊二(みやしゅうじ)さんの長歌「朱鷺幻想」から。〈絶えゆかむ命をつなぎ、種の持続 僅(わず)かに残す、Nipponia nippon、幻の鳥その悲しみのごと…〉。群れ飛ぶ幻想にもう少しで手が届く。

9月26日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

9.25.2008

この俺しか見ていないんだから・・・ 編集手帳 八葉蓮華

この俺しか見ていないんだから・・・ 編集手帳 八葉蓮華
美貌(びぼう)の名優、歌舞伎の十五代目市村羽(う)左衛(ざえ)門(もん)にこぼれ話がある。忠臣蔵で早野勘平を演じたとき、演技で悩む若い役者に優しく声をかけた◆「あまり気を使いなさんな。見物(観客)は勘平(自分)しか見ていないんだから…」。強烈な自負と、それを隠さない愛すべき人柄とを伝えている。麻生太郎首相は名優にあやかりたいと念じているのかも知れない◆女房役の党幹事長、官房長官に実務家肌の地味な顔ぶれを配した。閣僚名簿の発表も官房長官に任せず、自身でこなした。「見物が見るのは、この俺(おれ)だぜ」というところだろう◆存在感の薄い首相が二代続いただけに、指導力を訴える選挙向けの思惑にもせよ、「俺が俺が」流も悪くはない。颯爽(さっそう)たる二枚目になるか、芝居用語でいう「突っ転ばし」(突っついたら転びそうな、柔弱な色男)に終わるか、要は仕事次第である◆十五代目が演じた四谷怪談・民谷(たみや)伊右衛門(いえもん)のせりふにある。〈首が飛んでも動いて見せるわ〉。政見の実現にその執念、気迫を見せることなくドタバタ劇を繰り返せば、自民党は有権者から背を突かれるだろう。転ぶや、転ばざるや。

9月25日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

9.24.2008

秋をめづる心の湧く間なく・・・ 編集手帳 八葉蓮華

秋をめづる心の湧く間なく・・・ 編集手帳 八葉蓮華
「昭和萬葉集(まんようしゅう)」(講談社刊)に俳優、大友柳太朗さんの四首が収められている。花も月もない秋の歌がある。〈この秋をめづる心の湧く間なく起きて働きつかれて眠る〉◆1939年(昭和14年)といえば「丹下左膳(さぜん)」や「むっつり右門」の当たり役を演じる前、27歳当時の作である。秋ほど「めづる」(愛する)景物に満ちた季節はないが、仕事仕事でそれどころではなかったのだろう◆原油高に米国発の金融危機…と、どこを歩いても景気のいい話を聞かない。外回りの営業をする人のなかにはむなしく歩き疲れ、歌そのままの日常を送っている方もおられよう◆きょう、麻生内閣が発足する。経済のてこ入れは待ったなしである。解散・総選挙の思惑を離れて首相以下、「起きて働きつかれて眠る」仕事一辺倒の秋を過ごしてもらわねばならない◆もう一首。〈幾山河へだてて住めどあたたかきその御心(みこころ)は胸に通ひ来〉。「御心」とは新国劇の恩師、辰巳柳太郎さんが寄せてくれた心遣いという。今宵(こよい)もどこかの屋根の下で、遠く離れて暮らす父母や恩師の御心を胸に、疲れて眠る若い人がいるかも知れない。

9月24日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

9.23.2008

血は一代限りだよ・・・ 編集手帳 八葉蓮華

血は一代限りだよ・・・ 編集手帳 八葉蓮華
生前、古今亭志ん朝さんは口癖のように語ったという。「血は一代限りだよ」。父・志ん生の破天荒に対し、正統派の江戸前落語を磨き上げた。七光りを恩寵(おんちょう)ではなく十字架として背負い、わが道を究め得た人の誇り高き言葉だろう◆同じ言葉が政界では一度ならず二度、失望の吐息とともに語られた。誰それ元首相の孫、誰それ元首相の子があっさり政権を投げ出し、「おじいちゃんやお父さんはもっとしぶとかったろうに、血は一代限りだね」と◆自民党の新総裁にきのう選ばれた麻生太郎氏(68)が喜びの挨拶(あいさつ)で語ったところでは、くしくも祖父・吉田茂元首相の誕生日であったという。“系図倒れ”に懲りた国民は、壇上のご本人ほどは感慨を催さなかったろう◆2世、3世議員は「ひ弱さ」の代名詞になりつつある。〈俺の死に場所 ここだと決めた…〉は麻生氏がカラオケで愛唱するという「花と竜」の一節だが、総選挙が近かろうと遠かろうと、次期首相に求められるのは政見を責任もって実行に移す二枚腰、三枚腰のしぶとさである◆血は一代限り、おじいちゃんの名前はしばらく封印するのもいい。

9月23日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

9.22.2008

後継がどうなろうと・・・ 編集手帳 八葉蓮華

後継がどうなろうと・・・ 編集手帳 八葉蓮華
中国の毛沢東主席の最晩年には、高位高官といえども、主席の身の回りを世話する機密秘書、張玉鳳女史を通さなければ、面会はかなわなかった。主席の死後に後継の座に就く華国鋒首相も、昼寝中の張女史を起こしかね、すごすご引き返したことがある◆それほどの権力を持てたのは、「主席のろれつがまわらない言葉を理解できる」ただ一人の人間だったからだ、と主席の主治医だった李志綏博士が回想している(「毛沢東の私生活」文春文庫)◆重病説が流れた北朝鮮の独裁者、金正日総書記の周辺でも、そんなドラマが展開しているのだろうか。韓国メディアは、総書記の病床に付き添う夫人の金オク氏が、影響力を強めている、と伝えている◆総書記の病状について、「マヒが残る」とか、「精神的に無気力」とか、いや「言語障害はなく歯磨きができるほどに回復した」など、諸説かまびすしい。倒れたのが事実なら、水面下で権力闘争が始まったと見るのが自然だろう◆中国では、結局は改革開放派が勝利して華国鋒は失脚した。後継がどうなろうと、いまの路線に固執する限り、北朝鮮に未来はない。

9月22日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

9.21.2008

高齢者を支える大切な役どころ・・・ 編集手帳 八葉蓮華

高齢者を支える大切な役どころ・・・ 編集手帳 八葉蓮華
歌舞伎ファンの中でも、「後見」のうまさを評価できる人は通だろう。後見とは、役者の陰で衣装の早変わりを助けたり、小道具を受け渡したりする役目だ◆黒衣(くろご)、といった方が通りはいいかもしれぬが、必ずしも黒い装束を着ているわけではない。先ごろ観(み)た「勧進帳」では鬘(かつら)をかぶり、裃(かみしも)をつけていた。歌舞伎十八番の演目などは「裃後見」といって姿を消さない。しかし、目障りとはならずに主役を助ける◆勧進帳では弁慶が激しく舞いながら、いろいろと手放したり、受け取ったりするので、後見の役割はとりわけ重要だ。息が合わないと小道具のやりとりでケガをすることもある。もちろん、通から聞いた受け売りである。人を補佐することを後見と呼ぶ意味を得心した◆「成年後見人」という言葉を耳にしたことがおありだろう。認知症のお年寄りの財産を悪徳業者などから守る。背後で居住まいを正しつつ、さりげなく高齢者を支える大切な役どころだ◆21日は世界アルツハイマーデー。各地で認知症について考える催しが開かれる。現代の裃後見と、その仕事をきちんと評価する“通”を増やしたい。

9月21日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

9.20.2008

哀しいかな自分が消えていく・・・ 編集手帳 八葉蓮華

哀しいかな自分が消えていく・・・ 編集手帳 八葉蓮華
まど・みちおさんに「けしゴム」という短い詩がある。〈じぶんでじぶんを/けしたのか/いまさっきまで/あったのに〉。消しゴムというのは不思議なもので、何かを消しながら自分が消えていく。消しゴムのような人もいる◆政府が「食品の安全確保をお約束します」と鉛筆で綴(つづ)る尻から、尻から、消しゴム閣僚がお粗末な発言でせっかくの文字を消してしまう。いわく「消費者がやかましいから」、いわく「(汚染米で)ジタバタしない」◆発言の主、太田誠一農相が汚染米問題の責任を取って辞任した。24日の内閣総辞職まで任期をわずか数日残して異例の退場である。解散・総選挙の日程が固まりつつあるなかで、自民党もかばうにかばえなかったのだろう。騒々しい限りである◆信頼回復に努める政府の姿勢を、閣僚みずからが不用意な発言で打ち消した末に、哀(かな)しいかな自分が消えていく。「美しい国づくり」と書きかけて芯の折れた鉛筆があり、「安心実現」と書きかけて折れた鉛筆があり、筆箱のなかは傷だらけである◆3本目の鉛筆も折れ芯ならば、筆箱はお払い箱と名を変えねばなるまい。

9月20日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

9.18.2008

「官僚体質」寝テ居ルモ奉公ナリ・・・ 編集手帳 八葉蓮華

「官僚体質」寝テ居ルモ奉公ナリ・・・ 編集手帳 八葉蓮華
主君に仕え、たくさんの禄高(ろくだか)をもらい、それでいて仕事はせずに一生を寝て過ごす。そういう武士も、じつは世のなかの役に立っていると述べたのは江戸期の儒学者、荻(お)生(ぎゅう)徂徠(そらい)である。〈寝テ居ルモ奉公ナリ〉と◆俸禄が家族を養い、友人知己の生活を助け、消費に回り、めぐりめぐって世を潤すからだという。「太平策」(岩波書店「日本思想大系36」)の一文を読んだ当座は首をかしげたが、いまではひそかにうなずいている◆厚生年金の記録改竄(かいざん)に社会保険庁が組織的に関与した疑いが濃厚であることを、舛添要一厚生労働相が認めた。支給額算定にかかわる数字の改竄で、疑わしい記録は約7万件あるという◆有害な改竄に比べれば無益な居眠りのほうが、国民生活にどれほど益するか知れない。徹底した調査と厳正な処分あるのみだが、社保庁の不祥事でこの言葉を口にするのは何度目だろう◆次の首相に誰がなるにしても、野党より手ごわい「官僚体質」という敵のいることを忘れてはなるまい。職は安定、給料は税金、それで仕事ぶりは〈寝テテクレタホウガ、マダマシ〉の役人衆には懲り懲りである。

9月19日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

ジタバタ「眼は節穴、耳はきくらげ」・・・ 編集手帳 八葉蓮華

ジタバタ「眼は節穴、耳はきくらげ」・・・ 編集手帳 八葉蓮華
仮名垣魯文(かながきろぶん)の「西洋道中膝栗毛(ひざくりげ)」に、洞察力のお粗末な北八を弥次郎兵衛がやりこめる場面があった。〈てめへなんざア、眼は節穴、耳はきくらげ(きのこの一種)どうぜんだから…〉◆その啖呵(たんか)を、見えて当然のものを見落としてきた農水省に贈る。汚染米を食用に横流ししていた「三笠フーズ」(大阪市)に100回近くも立ち入り調査をして不正を見抜けないとは、何を、どう調べていたのだろう◆元帳を見れば、出荷先が食品関係かどうかは分かる。元帳を偽っていても、出荷先に問い合わせれば偽装は容易に見抜ける。〈書物(かきもの)を見ても、白紙(しらかみ)えまんべんなく、黒イ物がつイてゐると思ふのだらう〉とは弥次郎兵衛の言葉だが、節穴で上っ面をなでる調査であったに違いない◆三笠フーズから飲食の接待を受けていた職員もいる。知らずに汚染米を買わされて信用を落とし、客離れにおびえる菓子店などの経営者から、農水省に怨嗟(えんさ)の声が上がるのは当然だろう◆太田誠一農相はテレビ番組に出演の折、「人体に影響がないので、あまりジタバタ騒いでいない」と語った。立派な“きくらげ”をお持ちである。

9月18日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

9.17.2008

“綱渡り“世界の金融・証券市場・・・ 編集手帳 八葉蓮華

“綱渡り“世界の金融・証券市場・・・ 編集手帳 八葉蓮華
日露戦争の直後に生まれた人には「勝利」や「喜久子」など、戦勝を祝う名前が少なくない。慶応義塾大学の元塾長、佐藤朔(さく)さんのように本名「勝熊」と命名された人もいる。熊(くま)はロシアのことという◆大国を相手に、戦費の大半を借金で賄った綱渡りの戦争である。ほっと胸をなでおろして沸き立つ世相が、さまざまな命名にしのばれる。綱渡りでは戦費調達をめぐる幸運も忘れがたい◆苦心惨憺(さんたん)していた日本銀行副総裁、高橋是清は英国に滞在中、ひとりの米国人と夕食の席に隣り合わせたのが縁で、彼の経営する証券会社から必要額を得る約束を取り付けた。クーン・ローブ商会という◆その“救いの神”をのちに合併したのがリーマン・ブラザーズである。一昨日、64兆円の負債を抱えて破綻(はたん)した。創業158年、日本の近代史とも袖すり合う名門証券を呑(の)み込んだ金融危機の大津波に、世界の金融・証券市場が震え、青ざめている◆米国では市場の強気を「ブル=雄牛」といい、弱気を「ベア=熊」という。リーマンの次は――ベアが世を覆うなか、危機収束に胸をなでおろす「勝熊」の時はまだ見えない。

9月17日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

9.15.2008

子供たちの悲惨な状況から・・・ 編集手帳 八葉蓮華

子供たちの悲惨な状況から・・・ 編集手帳 八葉蓮華
日本ユニセフ協会大使を務めるアグネス・チャンさんは、視察先のタイで幼い子供が客と共に売春宿に入るのを目撃したとき、涙が止まらなかったという◆人身売買を告発した映画「闇の子供たち」が反響を呼んでいる。タイの貧しい家庭の子らが売春宿に密売されて、幼児性愛者から虐待を受ける。児童ポルノの被写体や臓器提供者にもさせられ、エイズに感染した子は、ゴミ袋に入れられ捨てられる◆原作は梁石日(ヤンソギル)さんの小説だが、日本ユニセフ協会によると、これに似た事例は世界各地から報告されているという。18歳未満の人身売買被害者は、年間120万人以上と推定されている◆11月にはブラジルで、政府や民間団体が参加して「児童の性的搾取に反対する世界会議」が開催される。深刻化するインターネット上の児童ポルノの拡散問題も話し合われる◆国際捜査協力を進めるため、児童ポルノの所持を禁止する児童買春・児童ポルノ禁止法改正案が与党から先の通常国会に提出された。法案は継続審議となっている。議論は進んでいないが、世界の子供たちの悲惨な状況から目を背けることは出来ない。

9月15日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

9.14.2008

見てくれだけピカピカの対策・・・ 編集手帳 八葉蓮華

見てくれだけピカピカの対策・・・ 編集手帳 八葉蓮華
とびきりの笑顔で金メダルにかじりつく。夏の北京五輪で何度となく目にしたシーンである。金は純度が高いほどやわらかい。メダルをかむポーズは、金貨が本物かどうか確かめたころの名残といわれる◆時代劇の岡っ引きも、ニセ小判をかじって見破る。金の比率が9割の慶長小判ならわかるが、これに銀を加えて作り直した元禄小判は半分近くが銀だ。本物であっても、歯形がつくほどやわらかくなかったろう◆小判の地金も半分近くが銀だと白くなる。ところが、元禄小判は純金のような黄金色に輝いている。秘密は「色揚げ」と呼ばれる独特の仕上げにある。複数の酸化化合物を塗って火であぶると銀だけ溶け出し、表面はほとんど純金になる◆政府・与党がまとめた12兆円の経済対策で使われる予算は2兆円ほど。国の支出は4000億円なのに、中小企業への融資を9兆円追加できると勘定するなど、色揚げの技術が用いられている。金ならぬカネの水増しは小判の比ではない◆見てくれだけピカピカの対策を、「さあ、かじりなさい」と差し出されても、メダリスト並みの笑みがこぼれる人は稀(まれ)だろう。

9月14日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

9.13.2008

人間さまは恩知らずで・・・ 編集手帳 八葉蓮華

人間さまは恩知らずで・・・ 編集手帳 八葉蓮華
児童文学の古典、ロフティング著「ドリトル先生アフリカゆき」で、犬と豚が口論をする。犬が豚を罵(ののし)って言った。「トンカツの生きたの!」(井伏鱒二訳)◆ずいぶんと口の達者な犬だが、豚泣かせでは人間も犬のことは言えない。「豚に真珠」「豚もおだてりゃ木に登る」「ブタ箱」…等々、豚の身になれば人の世は心痛む言葉で満ちている◆米大統領選で民主党オバマ候補が共和党マケイン候補の唱える「変革」を「口紅つけても豚は豚」と揶揄(やゆ)し、物議を醸した。女性の副大統領候補ペイリン氏を中傷したとマケイン陣営は非難している◆政策構想のお粗末な内実と、ちょっと見のいい外観を対比する喩(たと)えが「豚と口紅」であるならば、わが永田町でもこれから与野党が互いに相手を指さして、似たような応酬がはじまるだろう。洋の東西を問わず、しばらくは豚に受難の季節がつづく◆きのう、街で買ったトンカツ弁当を昼食に食べた。ボリュームといい、手ごろな値段といい、お役に立っているのに人間さまは恩知らずで…と、豚の苦情が聞こえてきそうである。ブーイングと呼ぶのかどうかは知らない。

9月13日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

9.12.2008

有り金を残らず胃袋に・・・ 編集手帳 八葉蓮華

有り金を残らず胃袋に・・・ 編集手帳 八葉蓮華
健康が元通りに回復してくれたら、あとは何も要らない。重い病を得た人は誰しもそう思う。〈病気の時ほど、人は寡欲(かよく)になることはない〉とは詩人、萩原朔太郎が随筆「病床生活からの一発見」に記した言葉である◆とはいえ、冥土(めいど)の旅の路銀にするつもりか、有り金を残らず胃袋に納めて世を去った落語「黄金餅(こがねもち)」のような病人もいるから、寡欲になるか、強欲で通すかは人物によるのかも知れない。その人はさて、どちらだろう◆北朝鮮の独裁的な指導者、金正日総書記(66)の健康状態をめぐる情報が流れた。脳卒中か脳出血を起こしたようだ、という。風通しの悪い国のことで、本当のところはよく分からない◆核の脅威を“輸出産品”に仕立て上げ、押し売りまがいの取引で諸外国から食料や資源をせしめてきた。邪悪な欲心が病気によって亢進(こうしん)するのか、減退するのか気にかかるところである◆悪人が深い手傷を負ったときなどに、隠された真実を語って善心に立ち返ることを歌舞伎の用語で「もどり」という。一片の良心が胸にあるならば、その人も「もどり」の病床で拉致事件の真実を語るがいい。

9月12日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

9.11.2008

野党から茶番と批判される総裁選・・・ 編集手帳 八葉蓮華

野党から茶番と批判される総裁選・・・ 編集手帳 八葉蓮華
自宅のそばに商店街がある。豆腐店と精肉店が軒を並べ、何軒か隔てて青果店がある。散歩の行き帰りに水槽の豆腐を見、肉の棚を見、ネギや白菜の山を見ると、「寄せ鍋もいいな」と思う◆鍋の季節には早いが、山口青邨(せいそん)の一句、〈寄鍋やむかしむかしの人思ふ〉秋の夜もわるくないと。目に映る別個の食材が、頭のなかの鍋で煮える。妙な連想だが、5氏の立候補した総裁選に込めた自民党の思惑もこの“空想鍋”にあるかも知れない◆経験の人あり、若さの人あり、初の女性あり、分野分野の政策通あり…多様な食材が有権者の脳裏でぐつぐつ湯気を立て、食欲を刺激することができれば、秒読みに入った解散・総選挙で有利に働くと読んでいるだろう◆所詮(しょせん)は空想の鍋で、ネギさんであれ、豆腐さんであれ、総裁の座を射止めるのは一人である。それでも、討論会や遊説を通じて互いの政見をじっくり煮込み、灰汁(あく)を取り、新内閣の政策運営にうまい出汁(だし)が残るのならば、野党から茶番と批判される総裁選もその意義は小さくない◆変な甘味料に舌がだまされるのを注意しつつ、各候補の政見を聴くとしよう。

9月11日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

9.10.2008

「事故米」カビや農薬に汚染され、どこぞの・・・ 編集手帳 八葉蓮華

「事故米」カビや農薬に汚染され、どこぞの・・・ 編集手帳 八葉蓮華
夜店の道具屋でノコギリを売っている。火事場の焼け跡で見つけた拾い物で、さびを落として油を塗り、柄を付け替えただけだから板の一枚も切れない。「置いといたら、どこぞのアホが買(こ)うていくやろ」。落語「道具屋」である◆大阪の会社「三笠フーズ」も「どこぞのアホが知らずに食うねやろな」とでもつぶやき、売り上げを勘定していたか。食の安全を揺るがす偽装は、無邪気なノコギリに比すべくもない◆カビや農薬に汚染され、本来は工業用にしか販売できない「事故米」を、酒造会社などに正規の食用米と偽って卸していた。安い事故米と食用米の価格差に目をつけた利ざや稼ぎである◆農水省は1年半も前から不正を告発する情報に接し、立ち入り調査もしながら“シロ”と判定していた。事故米の販売先を一つひとつ丹念につぶしたかどうか。「調べに来よったで、どこぞの…」となめられるような、上っ面の調査だった疑念が残る◆信用を粗末にし、卑しい稼ぎに走った企業の行く末には、いくつかの先例がある。切れないはずのノコギリが会社の屋台骨に刃を立てる音を、経営者は聴くだろう。

9月10日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

9.09.2008

“くさい物に蓋”人が騒ぎ立てるから・・・ 編集手帳 八葉蓮華

“くさい物に蓋”人が騒ぎ立てるから・・・ 編集手帳 八葉蓮華
モリエールの喜劇「タルチュフ」で、詐欺師タルチュフが言う。〈悪事が悪事になるのは人が騒ぎ立てるからですよ。こっそり罪を犯すのは罪を犯すことにはなりません〉(第4幕)◆この言葉が脳裏をかすめたのは昨年の6月、時津風部屋で17歳の力士が親方や兄弟子から暴行を受けて死亡したときである。3か月後、文部科学省に催促されるまで日本相撲協会は親方から事情を聞きもしなかった。騒ぎになって初めて腰を上げる◆同じ言葉が再びかすめたのは、露鵬、白露山両力士の大麻吸引疑惑をめぐり、北の湖理事長の言葉を漏れ聞いたときである。「クロの判定が出たら、別の検査機関で調べればいい」「二人が秋場所に出場するのも構わない」。世間よ、あまり騒ぎ立てるな――と言ったにも等しい◆世の批判に浴びせ倒しを食う形で、北の湖理事長が引責辞任した。タルチュフ流か悪事そのものには鈍感で、悪事が露見して騒がれることに神経をとがらす。相撲界の安住してきた“くさい物に蓋(ふた)”主義の破綻(はたん)である◆力士の正装は裸という。古傷も生傷も人目にさらし、協会は褌(ふんどし)一つで出直すしかない。

9月9日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

9.08.2008

残ったものを最大限に活かそう・・・ 編集手帳 八葉蓮華

残ったものを最大限に活かそう・・・ 編集手帳 八葉蓮華
クーベルタン男爵の姉の孫、ジョフリー・ナバセル・ド・クーベルタン氏が語っている。「大叔父が蘇(よみがえ)ったら、教育的価値が少ないと言って、五輪廃止に動くかも知れないねえ」(結城和香子著、オリンピック物語)◆今ならば近代五輪の父は、金メダル至上主義やドーピング問題に揺れるオリンピックよりも、パラリンピックに力を入れたことだろう。五輪の行き過ぎた面がこちらには広がらぬよう願いたい◆パラリンピックの礎を築いたグットマン卿は言った。「失ったものを数えてはいけない。残ったものを最大限に活(い)かそう」。残酷にも響く、厳しい言葉である。それを真正面で受け止める所から障害者のスポーツは始まるのだろう。パラリンピックのアスリートたちは、五輪選手以上に観客の心を揺さぶる◆わが身を眺めてみれば四肢をはじめ失ったものはなく、その幸いを当たり前と思い込んできた。天賦の才の乏しさを嘆くことに時を費やし、では与えられたものは活かし切っているのか、と問われれば首を振るしかない◆北京の聖火台に再び火が点(とも)った。本当に見たいドラマが、これから始まる。

9月8日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

9.07.2008

大麻の陽性反応 科学的証拠なんぞは・・・ 編集手帳 八葉蓮華

大麻の陽性反応 科学的証拠なんぞは・・・ 編集手帳 八葉蓮華
実力を超えて番付が上がり、手ごわい相手との取組がつづいて黒星を重ねる。相撲の用語で「家賃が高い」という。日本相撲協会の北の湖理事長にとって、理事長職は家賃が高すぎたかも知れない◆露鵬、白露山両力士の尿から精密検査でも大麻の陽性反応が出た。「吸っていない」という二人の主張の真偽は明らかでないが、一連の騒動を通して分かったことが一つある。北の湖理事長に備わる見識の分量である◆陽性と出たら、別の検査機関で調べ直す手もある。二人が秋場所に出場するのも差し支えない…。検査結果の判明する前、理事長は報道陣に意向を語った。「当人たちが絶対やってないと言っているのだから」と◆大麻であれ、暴力事件であれ、その他の不祥事であれ、科学的証拠なんぞは糞(くそ)くらえで庇(かば)ってやるぞ。しらを切り通せ――と述べたわけではないが、そう聞き違えた力士がいなかったかどうか。疑惑の目で見られている組織の長が語る言葉ではない◆理事長職に見合う見識、常識を、いまから促成で養うのはむずかしかろう。ひとりの親方に戻り、家賃の払えるところに引っ越すのもいい。

9月7日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

9.06.2008

首相がころころ交代し・・・ 編集手帳 八葉蓮華

首相がころころ交代し・・・ 編集手帳 八葉蓮華
清少納言は「枕草子」のなかで、〈人にあなづらるるもの〉(侮られるもの)を二つ挙げた。一つは〈築土(ついじ)のくづれ〉(土塀の崩れ)、もう一つは〈あまり心善(よ)しと、人に知られぬる人〉(極度のお人好(ひとよ)し)だと◆民主党も人に例えれば、お人好しの部類だろう。一昨日、「メディア対策チーム」の初会合を開いた。政治報道が自民党総裁選一色にならぬよう、世の関心を民主党に引き寄せる対策を話し合うという◆「これから面白いことを言います」と前置きされたら、どんな冗談も人は笑ってくれない。「これからお世辞を言います」と前置きされたら、どんな美辞麗句も人は喜んでくれない。「これから皆さんの気を引く行動に出ます」と前置きされたら…◆前置きなしでやればいいものを、胸に秘めておく思惑もガラス張りにして見せる“うぶ”なところが、党の持ち味かも知れない。術策や駆け引きの巧拙が国益を左右する外交の場などでは、あまり発揮してほしくない持ち味ではある◆首相がころころ交代し、与党は与党で〈築土のくづれ〉が目立つ。いまの政局を見るようで、枕草子の数行はほろ苦い。

9月6日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

9.05.2008

人はいつか煙になり、灰になる・・・ 編集手帳 八葉蓮華

人はいつか煙になり、灰になる・・・ 編集手帳 八葉蓮華
「東海道中膝栗毛(ひざくりげ)」で知られる戯作者、十返舎一(じっぺんしゃいっ)九(く)に辞世の狂歌がある。〈此世(このよ)をばドリヤお暇(いとま)に線香のけむりとなりて灰(はい)左様(さよう)なら〉◆人はいつか煙になり、灰になる。人生の無常転変を映すものが灰ならば、その対極にある悠久不変の象徴は何だろう。「永遠の輝きを」という宝飾店の広告に従えば、ダイヤモンドがそうかも知れない◆故人の遺灰を高温・高圧で処理し、人造ダイヤをつくっているスイス企業の記事を、きのうの国際面で読んだ。1人分の遺灰から最大1カラットのダイヤができ、最低価格は80万円ほどという◆日本を含む国内外から月にして約60件の注文があるというから、なかなか繁盛している。亡き人にいつも触れていたい、片ときも離れたくない、という人は多いのだろう◆アンジェイ・ワイダ監督の映画「灰とダイヤモンド」に引用された詩の一節を思い出す。〈永遠の勝利の暁に、灰の底深く/燦々(さんさん)たるダイヤモンドの残らんことを〉。人生に「永遠の勝利」は望むべくもないが、「燦々」は望めばかなう時代であるらしい。好みとしては硬い石になるよりも、千の風に心ひかれるけれど。

9月5日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

9.04.2008

職を離れる最後の1分1秒まで・・・ 編集手帳 八葉蓮華

職を離れる最後の1分1秒まで・・・ 編集手帳 八葉蓮華
平清盛の意向により、京の都が福原(いまの神戸市)に移されたのは1180年である。〈古京はすでに荒れて、新都はいまだ成らず〉。家々を壊しては新都の予定地に運ぶ光景を見て、鴨長明は「方丈記」に書いている◆古い都は捨てられようとしているのに、新しい都は形もない。当節の不安にも通じるようである。「新都」選びの前に、「古京」福田内閣が荒れては困る◆首相はきのう、年1回の自衛隊高級幹部会同を、代理役も立てずに欠席した。退陣を表明したとはいえ、自衛隊の最高指揮官である。国民に意思を伝える機会でもある官邸でのいわゆる「ぶら下がり取材」も、残る在任期間中はもう受けないという◆遷都騒ぎのさなかに源頼朝が伊豆で挙兵し、平氏は滅亡への道を歩み出す。いつの世も国難は時を選ばない。心労あり、気落ちありで、胸の内は拝察するが、職を離れる最後の1分1秒まで国政に微塵(みじん)も隙(すき)を見せないのが、首相たる人の務めだろう◆〈…人は皆、浮雲の思ひをなせり〉。都不在の世を覆った不安を「方丈記」の作者は書き留めている。短い期間でも、浮雲にはなりたくない。

9月4日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

9.03.2008

「美しい国」「安心実現」さよなら・・・ 編集手帳 八葉蓮華

「美しい国」「安心実現」さよなら・・・ 編集手帳 八葉蓮華
小さな演芸場では昔、出演者の芸に客席が退屈しているとき、ある細工をした。係員が間違えたふりをして幕を1~2寸おろし、すぐに戻したという◆終演が近いことを客に伝えて救いを与えたと、新内節の名人といわれた岡本文弥さんが随筆「芸渡世」に書いている。不評だからと高座を投げ出すのではなく、不評であっても高座を全うする、そのための細工である◆福田内閣の人気は確かに、幕を1~2寸おろしていいほど低迷していたが、演目の半ばで「不評のようですね、じゃ、さよなら」と舞台をおりられては誰しも、木戸銭を返せ、となろう◆発声の達人は息をすべて声に変え、ロウソクの前で歌っても炎は微動もしないという。ねじれ国会の難しさはあったにしても、ため息や吐息のみ多くして、国民に意思や決意を伝える声をついに持ち得なかった責任は、首相その人にある。みずからの息で、政権の炎を吹き消した◆次期首相に求められるのは何よりも、息をしっかり声にする能力だろうが、「美しい国」「安心実現」の演目二題を続けざまにしくじり、荒れた舞台である。誰にせよ、覚悟がいる。

9月3日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

9.02.2008

「辞意表明」傷つくことを恐れた弱さ・・・ 編集手帳 八葉蓮華

「辞意表明」傷つくことを恐れた弱さ・・・ 編集手帳 八葉蓮華
「憲政の父」といわれた尾崎行雄の詠んだ歌がある。〈国よりも党を重んじ党よりも身を重んずる人のむれ哉(かな)〉。1950年(昭和25年)の作という。昨夜、福田首相の突然の辞意表明を聞き、一首を思い浮かべた◆記者会見で幾つかの理由を挙げていたが、要するに「私が総理では自公両党の仲が保てないので…」というのだろう。内政、外交の懸案は横に置き、解散・総選挙の時期から逆算して「国よりも党を重んじた」印象は否めない◆首相の椅子(いす)をおりるのだから身は重んじていませんよ――福田さんはそう言うかも知れない。そうか。政権を担ってからというもの、低姿勢の落ち着いた物言いに国民は触れこそすれ、泥まみれになって捨て身で語る首相の言葉を耳にしたことがない◆尾崎流の雄弁は求めぬまでも、背水の陣を敷いた人の血を吐くような肉声が聴きたかった。国民の多くは出処進退の潔さよりも、傷つくことを恐れた弱さを感じ取っていよう◆尾崎は号を「咢堂(がくどう)」といった。意表をついた首相の辞意も確かに国会議事堂の内外を愕然(がくぜん)とさせたが、号だけ「憲政の父」に似せても仕方がない。

9月2日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

9.01.2008

立ち上がる農山漁村・・・ 編集手帳 八葉蓮華

立ち上がる農山漁村・・・ 編集手帳 八葉蓮華
「どさ」「ゆさ」という津軽弁は、「どごさ行ぐの」「湯さ行ぐどご」の省略である。「ナンバ」も表現を短くする例だろう。16世紀にポルトガル人が日本に唐辛子を伝えたとされ、南蛮辛子と呼ばれた。津軽でナンバは唐辛子を指す◆北国に唐辛子をもたらしたのは、あご髭(ひげ)が長く、髭殿の異名を持つ津軽藩初代藩主の津軽為信だった。京都から持ち帰り、城下で栽培させたという。地元に根づいて、昭和の一時期には、全国有数の産地に育った◆平成になると、輸入トウガラシなどに押されて栽培農家が激減し、存続が危ぶまれたこともある。弘前市内の産地名をつけた「清水森ナンバ」と命名し、地域ぐるみで復活を目指したのは約4年前だった◆今は栽培農家が増え、辛みと風味が特徴の弘前在来のブランドとして商標にもなっている。国の「立ち上がる農山漁村」などに選ばれた地域活性化のモデルである◆秋めいてきた弘前の畑では、赤と青のナンバの収穫が始まった。為信公の銅像が弘前城近くに立つ。手ずから蒔(ま)いた地域振興のタネが育って旧城下が潤う。自慢の髭がぴくりと動いたように見える。

9月1日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

8.31.2008

人は不安になると太陽に背を向ける・・・ 編集手帳 八葉蓮華

人は不安になると太陽に背を向ける・・・ 編集手帳 八葉蓮華
海水浴場の迷子は夕暮れに東の浜で見つかる。監視員から、そんな経験則を聞いたことがある。人は不安になると太陽に背を向ける。西日が砂浜に落とす影を追いながら、とぼとぼと歩くうちに、東の果てに行きつくのか◆燃料高にみまわれたこの夏、レジャーは「安・近・短」の志向が強まり、近場のビーチでは、色とりどりのパラソルの花がひらいた。だが、見上げれば、いつしか空は高くなり、夕暮れの浜には涼風が吹いている◆12月31日、3月31日、8月31日…1年のうちには何日か、いくらかの淋(さび)しさと、明日への緊張とが、ないまぜになる一日がある。立秋はとうに過ぎたが、子供のころの習い性だろう、8月31日にはいつも「夏の終わり」を思う◆最近は雪国などだけでなく首都圏の一部の公立小中学校でも、授業時間を確保するために夏休みを短縮し、先週から2学期がはじまっている。夏休みもとれずに、働きづめだった社会人の方もおられよう◆きょうは日曜日。この夏にやり残したことはないか、家族で思い返してみるのもいいだろう。9月の太陽に向かって、歩き出す活力を得るためにも。

8月31日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

8.30.2008

「ゲリラ豪雨」水への畏怖と警戒・・・ 編集手帳 八葉蓮華

「ゲリラ豪雨」水への畏怖と警戒・・・ 編集手帳 八葉蓮華
天空の高みを海原にたとえることは、かつては詩人の一手専売であったろう。万葉集巻七には柿本人麻呂の〈天(あめ)の海に雲の波立ち月の船 星の林に漕(こ)ぎ隠る見ゆ〉という歌も見える◆今はどうやら誰もが空のなかに海を意識し、海上にあって抱く水への畏怖(いふ)と警戒を天上にも怠れぬ時代であるらしい。集中豪雨が突然、狭い範囲で短時間に起こる「ゲリラ豪雨」という言葉を新聞で見かけぬ日はない◆海と空は天然の巨大な蒸留装置といわれる。海面の温度が上昇すれば海水の蒸発する量は増え、その分、大気中の水蒸気が強い雨となって降りやすくなる理屈で、地球の温暖化をゲリラ豪雨の一因とみる専門家もいる◆きのうの朝にかけて東海や関東、中国地方の各地を、「空の水門」が開いたかのような豪雨が襲い、河川の氾濫(はんらん)で多数の家屋が浸水する大きな被害が出た。愛知では亡くなった方もいる◆的確な情報と、絶えざる警戒と、機敏な行動と、対ゲリラ戦の要諦(ようてい)はその三つであるという。ゲリラ豪雨の備えも同じだろう。きょうも一部の地域で激しい雨が予想されている。海のような空に、用心が怠れない。

8月30日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

8.29.2008

どもならんな・・・ 編集手帳 八葉蓮華

どもならんな・・・ 編集手帳 八葉蓮華
釈迦の弟子、槃特(はんどく)はのちに悟りをひらいて高僧となったが、若いころは物覚えがわるく、自分の名前も覚えられなかったという。板切れに書き、背負って歩いた…◆上方落語「八五郎坊主」では和尚さんがこの伝承を例に引き、何でも忘れてしまう八五郎に修養を説いている。世の政治家は槃特さんとは違って、人の名前を覚える達人ぞろいと感心していたが、そうでもないらしい◆太田誠一農相の政治団体をめぐる事務所費の不明朗な扱いが明るみに出た。これから領収書などを精査し、国民にきちんと説明するというが、入閣する時に済ませておくべきことだろう◆佐田…松岡…赤城…と、安倍政権が短命に終わる一因をなした“不始末組”の名前をもう忘れていたか。八五郎にあきれた和尚さんのせりふではないが、「そう尻から尻から忘れてもろうては、どもならんな」である◆遅ればせながら高僧に倣い、政治資金でつまずいた閣僚リストを、まあ、板切れを背負うのも大変だから、紙に書いて背広の下あたりに留めてみるのもいいだろう。留める道具は安全ピンか、粘着テープか、そう、絆創膏(ばんそうこう)もある。

8月29日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

8.28.2008

何の闘争か。何の主義主張か。・・・ 編集手帳 八葉蓮華

何の闘争か。何の主義主張か。・・・ 編集手帳 八葉蓮華
歌人の河野裕子さんに一首がある。〈しつかりと飯を食はせて陽(ひ)にあてしふとんにくるみて寝かす仕合(しあわ)せ〉。何をおいても子供がひもじくないように――国境も宗教の違いも超えた普遍の親ごころだろう◆その人は、子供たちが食べる物に困らないアフガニスタンの国づくりに志を立て、現地で農業を指導していた。戦禍と内紛に荒れた土地に「しつかりと飯を食はせ…」の種を蒔(ま)こうとした人である◆民間活動団体の職員、伊藤和也さん(31)が武装集団に拉致され、遺体で見つかった。親と子の笑顔ひとつを報酬に、身も心も地元民に捧(ささ)げてきた人の無念はいかばかりだろう◆アフガンを祖国のごとく愛してやまない人の命を奪い、アフガンの人々を悲しませ、何の闘争か。何の主義主張か。許しがたい蛮行に、文字をつづる指先の震えが止まらない◆「アフガンのために働いてきた息子をどうか返してください」。まだ安否が不明のころ、母の順子さん(55)が涙ながらに訴えた声が耳に残っている。わが子を手料理と柔らかな布団で迎える。奇跡の時が訪れるのを祈るように待っていただろう。ともに目をつむる。

8月28日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

8.27.2008

災害時特有の混乱・・・ 編集手帳 八葉蓮華

災害時特有の混乱・・・ 編集手帳 八葉蓮華
いつぞや立川談志さんの落語「鼠穴(ねずみあな)」を聴き、胸にとどめた一節がある。〈まさかそこまでは…という「まさか」の坂が越えられない〉。あと一歩の想像力を欠いたばかりに、主人公が苦難を背負うくだりである◆「まさか」の坂を越えられず、「よもや」の靄(もや)を抜けられず、思慮の不足を悔いの種に変えながら人は生きている。とはいえ世間には無理にでも坂を越え、あらん限りの思慮を動員しなくては成り立たない仕事もある◆豪雨で冠水した栃木県鹿沼市の市道で、女性(45)が乗用車に閉じこめられて水死した。目撃者が通報し、女性みずからも携帯電話で助けを求めたが、警察や消防はほかの災害現場と混同し、救助の出動を怠ったという◆災害時特有の混乱があったにせよ、「もしも被災者が別にいたら…まさか!」と想像力を働かせ、救助の手を尽くしていれば、坂の向こうには救えたかも知れない命があったはずである◆亡くなった女性は水没していく車内から母親(75)にも電話している。「助けて、水が、水が…」のあとは悲鳴だけが聞こえ、最後の言葉は「お母さん、さようなら」であったという。

8月27日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

8.26.2008

長生きも芸のうち・・・ 編集手帳 八葉蓮華

長生きも芸のうち・・・ 編集手帳 八葉蓮華
有吉佐和子さんは36歳のとき、前日に辞書で引いた英単語をまた引いている自分に気づき、記憶の衰えに愕然(がくぜん)とした。老いを究めようと思い立ち、やがて話題作「恍惚(こうこつ)の人」を書く◆題名は頼山陽「日本外史」の一節、「三好長慶(ながよし)、老いて病み、恍惚として人を識(し)らず」から採ったという。認知症をいち早く取り上げた小説が世に出て36年、いまでは高齢社会のごく身近な病となったが、「あの人が…」と思えば胸に去来するものがある◆マーガレット・サッチャー元英国首相(82)の長女が近く出版する回想録のなかで、元首相の認知症が進み、夫君が死去したことも忘れるほど記憶力が減退していることを明かしたという◆「コンセンサス(合意)の旗の下で、誰が戦いに勝ったか?」「たとえ一人になっても、私が正しければ問題はない」等々、“鉄の女”と呼ばれた人の語録を思い起こし、英国から届いた知らせを寂しく聴いた◆「長生きも芸のうち…」とは歌人、吉井勇が八代目桂文楽に贈った言葉である。〈長生きも芸のうちぞと落語(はなし)家(か)の 文楽に言ひしはいつの春にや〉。芸のむずかしさを改めて知る。

8月26日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

8.25.2008

世代交代への種まき・・・ 編集手帳 八葉蓮華

世代交代への種まき・・・ 編集手帳 八葉蓮華
春の七草で知られるセリは夏に白い花の冠をつける。泥の中のわずかな根からも芽吹き、冠を競り合うように茎を伸ばす。名前の由来という◆その花もそろそろ見納めのころを迎え、夏も終わりが近い。北京五輪も幕を閉じた。テレビ桟敷を離れ、ゆく夏の寂しさを感じる人も多かろう◆視聴率の都合で競技日程を分断する商業主義は健在な一方で、「国家スタジアム」での過剰ともいえる演出からは、管理された社会の息苦しさも感じた。期間中もグルジアなどで戦火やテロは止(や)まなかった。平和の祭典という言葉が、ときに虚(うつ)ろに響く大会でもあったろう◆磨き上げた技のぶつかり合いに、重苦しさ、息苦しさをしばし忘れることができたのは救いである。多くの選手は4年後に向けて再び泥にまみれる練習漬けの日々に戻る。しっかり根を張り、ロンドンでも可憐(かれん)な花を見せてほしい◆メダルの色や数にこだわる気はないが、日本の9個の金のうち7個がアテネからの連覇というのが、やや気がかりでもある。世代交代への種まきも欠かせない。根から力強く芽吹くセリも、種から育てるのは至難の業という。

8月25日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

8.24.2008

聖火は消えても・・・ 編集手帳 八葉蓮華

聖火は消えても・・・ 編集手帳 八葉蓮華
夏の日盛りに羽根つきの音を聞いたのは10日ほど前である。自宅の向かいが小さな公園になっている。窓から眺めると、小学生の姉妹らしき二人が遊んでいた◆女子のバドミントンで日本の“スエマエ”ペアが世界の4強入りを果たしたころである。おもちゃの羽子板はラケットの代わりであったか。遠い昔、加藤沢男選手のつり輪をテレビで見たあと、狭い廊下で両手を壁に突っ張り、十字懸垂をまねたことを思い出した◆懸垂の少年は天分と根気に難があり、テレビ桟敷でほろ酔い加減の声援を送るおじさんになり果てたが、羽根つきの姉妹はどうだろう。北京五輪がきょう、幕を閉じる◆北島康介選手をまねて、畳の上で気持ちよく平泳ぎをした子もいただろう。内村航平選手の鉄棒を見て、逆上がりの練習をしに小学校の校庭に走った子もいただろう。祭りの終わりはたとえば8年後の、12年後の、祭りの始まりであるのかも知れない◆〈夢はつまり 想(おも)い出のあとさき…〉と、井上陽水さんは「少年時代」で歌っている。聖火は消えても、大人たちの胸に想い出の火は残る。子供たちの胸に、夢の火は残る。

8月24日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

8.23.2008

「夏炉冬扇」あまり急に涼しくなると・・・ 編集手帳 八葉蓮華

「夏炉冬扇」あまり急に涼しくなると・・・ 編集手帳 八葉蓮華
ポール・クローデルに、日本列島を「琴」に見立てた詩がある。フランスの詩人で、大正から昭和にかけて駐日大使も務めた人である。〈日本 長き琴のごと/出(い)づる日の 一指(いっし)のもとに いまをののく〉◆水平線に射(さ)しのぼる「指」(=夜明けの閃光(せんこう))に触れて琴はおののき、鳴りいだす…。「詩人の想像のなかにとらえられた、まことに美しく鮮烈な列島の姿である」と、比較文化学者の芳賀徹さんは「詩の国 詩人の国」(筑摩書房)に書いている◆琴の長さを感じさせる便りが北海道から届いた。沖縄では真夏日というのに、稚内市できのう、最低気温1・5度を記録したという。1893年(明治26年)に帯広市で観測した道内8月の記録、2・1度を115年ぶりに更新した◆時期に合わない無用の事物を「夏炉冬扇(かろとうせん)」というが、もう少しで氷点下では夏炉さまさまだろう。夏も終わりですよ――と季節に追い立てられているようで、心なしか気ぜわしくもある◆あまり急に涼しくなると、いささか“五輪疲れ”の心身は震えおののく。季節を告げる琴の調べよ、どうかゆるやかな調子でお願いします。

8月23日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

8.22.2008

超人的な記録・・・ 編集手帳 八葉蓮華

超人的な記録・・・ 編集手帳 八葉蓮華
不思議な飲み物を口にした少女は、背丈が25センチほどに縮んだ。不思議なお菓子を食べると今度は、3メートルに伸びた。ルイス・キャロルの物語「不思議の国のアリス」である◆小さなアリスが仰ぎ見る「壁」も、大きなアリスには「階段」の1段にすぎない。顧みれば人間の営みは、不思議なお菓子で壁を階段に変えていく歴史であったろう◆陸上男子二百メートルでマイケル・ジョンソン選手(米国)が12年前に記録し、「半世紀は破られない」と誰もが信じた19秒32を、北京五輪でウサイン・ボルト選手(ジャマイカ)が過去のものにした。縮めること100分の2秒、また一人、壁を階段に変えた人がいる◆ボルト選手が歴史に刻んだ超人的な記録をいつの日にか打ち破る少年が、地球のどこかで今、天から授かったお菓子を指で口に運んでいるかも知れない◆不思議な飲み物で小さくなったアリスは、自分の流した涙の海で危うく溺(おぼ)れかけた。きのうまでの階段が今日は壁となって立ちふさがり、涙の海を肌身で知った失意の選手もいたことだろう。オリンピックという「不思議の国」の祭りも、残すところ3日である。

8月22日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

8.21.2008

ちっちゃい手だね・・ 編集手帳 八葉蓮華

ちっちゃい手だね・・ 編集手帳 八葉蓮華
「うぶめ」とは難産で命を落とした女性の霊魂をいう。漢字では「産女」「姑獲鳥」と書く。夜をさまよい、通る人に赤子を抱かせる哀(かな)しい亡霊である◆故人の無念を胸に、司法の場で真相が解明されることを望む遺族の“情”は痛いほど分かる。悲しみは悲しみとして、通常の医療行為で刑事責任を問われては医療が成り立たない、という医師側の“理”もよく分かる。情理の間を揺れながら判決を聴いた◆福島県の県立病院で4年前、帝王切開の手術中に女性(当時29歳)が死亡した事件である。業務上過失致死などの罪に問われた産婦人科医の被告(40)に福島地裁はきのう、無罪を言い渡した。理を認めた判断だろう◆とは思いつつ、病院側の説明に得心のいかない患者は真相解明をこれから誰に委ねればいいのか…と思案し、心はまた情に揺れ戻る。中立的な調査機関を設ける以外に策はあるまい◆「ちっちゃい手だね」。帝王切開で生まれた女児と対面して最期の言葉を残し、女性は息を引き取ったという。「うぶめ」の悲しみを消し去ることはできないまでも、たとえわずかでも慰める知恵はあるだろう。

8月21日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

8.20.2008

心を鍛える・・・ 編集手帳 八葉蓮華

心を鍛える・・・ 編集手帳 八葉蓮華
長嶋茂雄さんが現役のころ、三塁の守備についても自分の打撃が頭を離れず、グラブを手にスイングの動作をしたことがあった。当時の巨人監督、川上哲治さんは見逃さず、試合後に人前で厳しく叱責(しっせき)したという◆スター選手も特別扱いをしなかった川上さんの指導を楽天の現監督、野村克也さんは著書「エースの品格」(小学館)で称(たた)えている。指導者の鞭(むち)が、人々に「ミスター」と敬愛される稀有(けう)の野球人をつくったのだろう◆恵まれた体とスピード出世の実績で、大相撲ではスターの卵の、そのまた小さな卵ぐらいの期待は集めていた人である。ロシア出身の幕内力士、若ノ鵬(20)(間垣部屋)が大麻を所持していた疑いで警察に逮捕された◆部屋からは吸引用の道具も見つかっている。初土俵から3年を待たずに新入幕を果たした弟子を、「心技体」の技と体に惚(ほ)れて甘やかし、師匠は心を鍛える鞭を忘れていなかったか。名監督に爪(つめ)の垢(あか)をもらうのもいい◆スターをミスターとして天上に輝かせもし、心の未熟を放置して地べたに叩(たた)き落としもする。上に立つ人が後進に授ける「み」の字にもいろいろある。

8月20日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

8.19.2008

失敗を許しも認めもせず・・・ 編集手帳 八葉蓮華

失敗を許しも認めもせず・・・ 編集手帳 八葉蓮華
西条八十に会食の席での失敗談がある。パリを旅し、「商船テナシティ」の原作者で詩人のシャルル・ビルドラックから晩(ばん)餐(さん)に招かれた時である。料理を皿に取ったつもりが、皿と見えたのはレースの敷物だった◆うろたえる客人にビルドラックはひと言、「Jeunesse」(青春)と告げたという。日本の詩人は当時30代、年齢の青春ではあるまい。若い日々が記憶のなかで輝くように、この失敗もやがては思い出という宝物になりますよ…と◆北京から届くテレビ映像に毎日、同じ言葉をつぶやいている。けが、不調、不運に泣いた人も、それぞれに宝物を手にしただろう。五輪とは青春の、つまりは失敗の祭典でもあるらしい◆その開会式に“口パク”の歌声は要らざる演出であったろう。たとえ少女が緊張して歌を間違え、泣き出したとしても、聴衆はもらい泣きの拍手で彼女を包んだはずである◆〈日々を過ごす/日々を過(あやま)つ/二つは/一つことか〉。詩人、吉野弘さんの詩「過」の一節である。人は皆、過ちを繰り返しながら生きている。失敗を許しも認めもせず、「青春」の一語を忘れた社会は息苦しい。

8月19日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

8.18.2008

根っこにあるのは民族問題・・・ 編集手帳 八葉蓮華

根っこにあるのは民族問題・・・ 編集手帳 八葉蓮華
ボスニア・ヘルツェゴビナ内戦時のセルビア人勢力指導者ラドバン・カラジッチ被告は、13年に及んだ逃亡生活最後の2年半、代替医療の医師として過ごした◆長々と白髪を伸ばし、頬(ほお)からアゴまで、むさ苦しいほどの白ひげを蓄えた。この変装と偽名と成り済ました職業に自信があったのか、一般対象の講演会に出向き、講師を務めたりもした◆「民族浄化」政策を指導したとされ、このおぞましい言葉が定着するのにあずかった人物である。旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷から大量虐殺などで起訴され、行方を追われていた。それがこの脇の甘さ。あるいは、不快感を禁じ得ないくらいのふてぶてしさ◆カラジッチ被告逮捕からほどなく、南オセチアをめぐるロシアとグルジアの武力衝突が発生した。ボスニア同様、根っこにあるのは民族問題だ。そこには、力の行使では解決できない様々な要因が横たわっている◆気になるのはロシア軍の行動だ。欧米寄りのグルジアを罰するかのように領内へ進軍し、停戦合意後もぐずぐずと兵を引こうとしなかった。力こぶを誇示する者のふてぶてしさも、不快である。

8月18日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

8.17.2008

北京五輪は早くも前半戦を終え・・・ 編集手帳 八葉蓮華

北京五輪は早くも前半戦を終え・・・ 編集手帳 八葉蓮華
オリンピックを中国では「奥林匹克運動会」と書く。小欄でも以前に紹介したが、北京五輪の盛り上がりで、今や日本で一番知られる中国語の一つとなった。ただしオリンピックの中国式表記はこれのみにあらず◆辞典には「奥林比克」「奥林辟克」なども載っている。いずれも原音に近い字を当てただけで深い意味はなさそうだ。略せば同じ「奥運会」になる◆ほかに一つだけ、「欧林比克」という意味ありげな表記例があった。欧林――そびえ立つような欧州のアスリートたちが、克(か)つことを比べる――競い合う、と読めぬこともない。略すと「欧運会」だ。欧米や旧ソ連圏の選手が主役だった時代なら、うなずける当て字である◆北京五輪は早くも前半戦を終えた。各国が獲得した金メダルの数は、開催国の中国が米国をも上回り、断然トップに立っている。この五輪は、今のところ「中運会」と呼べそうだ◆日本勢は健闘しているものの、メダルの数では大きく差をつけられた。悔しくないと言えば嘘(うそ)だが、アジアの国の活躍で、オリンピックが完全に「欧運会」でなくなった点では、喜んでもいいのだろう。

8月17日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

8.16.2008

月の美しい宵であれば・・・ 編集手帳 八葉蓮華

月の美しい宵であれば・・・ 編集手帳 八葉蓮華
一番の歌詞には〈婆(ばあ)ヤはおいとまとりました〉とあり、以下、〈妹は田舎へ貰(も)られてゆきました〉(二番)、〈母(かか)さんに、も一度わたしは逢(あ)いたいな〉(三番)とつづく。野口雨情作詞、本居長世作曲「十五夜お月さん」である◆家族と離ればなれになった悲しみが歌われている。大正期につくられた童謡は、昭和の戦争とはかかわりがない。「十五夜」も陰暦8月15日の夜のことをいい、いまの暦とは違う◆それでも終戦記念日の夜を迎えるたび、月の美しい宵(よい)であればなおさら、その歌詞が胸に染みとおる。出征であったり、学童疎開であったり、多くの人々が一家離散を余儀なくされた時代を思い起こさせるからだろう◆月を仰いで「も一度逢いたい」と祈った母さんは亡くなったか。貰(もら)われていった妹はどうしたか。歌われていない父さんは…。創作の詩に問うても仕方ないとはいえ、いつもながら気にかかる◆〈遠く離れて逢いたいときは月が鏡になればよい〉と古い俗謡にある。幽明、境を異にした肉親ほど、遠く離れて逢いたい人はいない。あすの晩は満月、亡き面影を天上の鏡に映す人もあるだろう。

8月16日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

8.15.2008

悲しみに耐えた数限りない人々・・・ 編集手帳 八葉蓮華

悲しみに耐えた数限りない人々・・・ 編集手帳 八葉蓮華
「マサノリ キヨコ フタリヘ」という手紙に父は書いている。〈ヒトノオトウサンヲウラヤンデハイケマセンヨ〉。お父さんは神様になってお前たちを見守っているのだから、と◆特攻隊員の最後の言葉を収めた知覧特攻平和会館編「いつまでも、いつまでもお元気で」(草思社)の一編である。終戦の年5月に戦死した久野正信中佐29歳、子供たちはカタカナがやっと読める年ごろだろう◆数日前の新聞記事に目を落とす。東条英機元首相が終戦直前に綴(つづ)ったという手記に、国民を「無気魂」(=だらしない)と批判した一節があった◆〈オトウサンハ「マサノリ」「キヨコ」ノオウマニハナレマセン…〉。血を吐くように書き残した父の、おそらくは泣き腫らした目で幾度も読み返しただろう子の、手紙の形はとらずとも、父子と同じ悲しみに耐えた数限りない人々の、どこが「無気魂」か。そういう指導者のもとで遂行された戦争である◆うそか本当か、B29と聞いて「そんな軟らかい鉛筆があるの?」と尋ねる若い人もいると聞く。語り継がねばならない。悲しい手紙が二度と書かれることのないように。

8月15日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

8.14.2008

今日は倒れた旅人たちも/生まれ変わって/歩き出すよ・・・ 編集手帳 八葉蓮華

今日は倒れた旅人たちも/生まれ変わって/歩き出すよ・・・ 編集手帳 八葉蓮華
〈ふりかへり振り返り走るランナーよ追ふはおのれの影のみなるを〉。大江昭太郎さんの歌集「黄瑞香(きずいこう)」より。顧みれば人はいつも、何かに追われるように後ろを振り返りながら生きている。山坂があり、雨にも濡(ぬ)れる◆長距離走者の孤影には人生の旅を思わせるものがある。4年間という歳月をマラソンの行程42・195キロにあてはめれば、最後の5日間は144メートルほどの距離である。競技場の門をくぐり、ゴールが見える地点だろう◆女子マラソンの野口みずき選手(30)が北京五輪本番の5日前、左足の肉離れで出場を断念した。アテネの金メダルから4年、北京での連覇を目標に走りつづけてきた人の無念はいかばかりだろう◆発表したコメントのなかで野口選手は出場する代表ふたり、土佐礼子、中村友梨香の両選手に期待の重圧が集まることを気遣った。旅人が小柄な体に背負ってきた荷の重さを改めて知る◆つらい後ろをいまは振り返らず、心と体をゆっくり休めてほしい。中島みゆきさんの歌った「時代」の一節が浮かぶ。〈今日は倒れた旅人たちも/生まれ変わって/歩き出すよ〉。その日は来る。

8月14日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

8.13.2008

世の中は澄むと濁るで大違い・・・ 編集手帳 八葉蓮華

世の中は澄むと濁るで大違い・・・ 編集手帳 八葉蓮華
徳川家康が浜松城で武田信玄の軍勢に包囲されたとき、勝ちに乗る武田方は城中に一句を送った。〈松枯れて竹たぐひなき旦(あした)哉(かな)〉。「松」は徳川=松平、「竹」は武田を指す◆徳川勢が意気消沈するなかで酒井忠次が機転を利かし、〈松枯れで武田首無き旦哉〉と詠み直した。一同喝采(かっさい)したと、鈴木棠三(とうぞう)さんの「ことば遊び」(中公新書)に教わった◆濁点の付け替えで意味が一変するのも日本語の面白さだろう。〈世の中は澄むと濁るで大違い〉のあとに、〈刷毛(はけ)に毛があり、はげに毛がなし〉とつづけたり、〈墓はお参り、馬鹿(ばか)はお前だ〉とつづけたり、例は尽きない◆立秋を過ぎて暦の上で秋とはいえ、列島に厳しい残暑がつづく。夏の終わりを指す季語に「夏果て」がある。「夏ハテ」が先か、「夏バテ」が先か、競走の季節を迎えた◆諸式は高騰し、景気は視界ゼロの霧の中、どうやら夏バテが先かな…と、不安と期待が半々の目で閣僚の顔ぶれを眺める。国民の「ためになる」内閣と、愛想を尽かされて「だめになる」内閣と、総合経済対策の指揮をとる福田首相も澄むと濁るの分かれ道に立っている。

8月13日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

8.12.2008

はたちの日よきライバルを君に得て自ら当てし鞭いたかりき・・・ 編集手帳 八葉蓮華

はたちの日よきライバルを君に得て自ら当てし鞭いたかりき・・・ 編集手帳 八葉蓮華
西条八十の葬儀に堀口大学が捧(ささ)げた弔歌がある。〈はたちの日よきライバルを君に得て自ら当てし鞭(むち)いたかりき〉。負けてなるか、と競い合う青春がふたりの詩人にはあったのだろう◆以前、スポーツ誌「ナンバー」で読んだイチロー選手の言葉を覚えている。「本当にベストだったと思うためには、自分のみならず相手のベストも必要だ」と。歌に通じるようである◆北京五輪の競泳百メートル平泳ぎは、北島康介選手(25)が世界新記録で2連覇の金メダルを手にした。ノルウェーの新星ダーレオーエン選手が予選、準決勝で五輪新記録の快泳を重ねるに連れ、北島選手の眼光が変わったと、本紙の特派員電が伝えている◆実力という名の燃料タンクを満たすのは日々たゆまざる鍛錬だが、大舞台で一滴残らず燃焼させる着火剤は「負けてなるか」の眼光をおいてない。相手のベストに目の色を変え、わが身に鞭を当てて自身のベストを引き出す。五輪とは鞭の痛みに耐える人の過酷な祭りをいうらしい◆「すいません。何も言えない」。しばし、その人は感無量で絶句した。男泣き…忘れていた美しい言葉を思い出す。

8月12日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

8.11.2008

「(鳥の巣は)トロイの木馬のようなもの」・・・ 編集手帳 八葉蓮華

「(鳥の巣は)トロイの木馬のようなもの」・・・ 編集手帳 八葉蓮華
開会式が華やかに行われて、北京五輪を象徴する建物になった「鳥の巣」の正式名称は「国家体育場」だ。10万人近くが収容可能な巨大施設を、柔らかな曲線でまとめた奇抜なデザインは、世界的なスイス人建築家J・ヘルツォークとP・ド・ムーロン両氏によるもの◆東京・南青山の高級ブティック「プラダ」のビルも両氏事務所の設計である。彼らが建築を受注してから、完成までを記録したドキュメンタリー映画「鳥の巣」が、いま都内渋谷で上映されている◆中国にとって最大の国威発揚となる五輪の主舞台の設計も外国人頼みだった一方で、スイスの建築家たちが中国の伝統美や文化を模索する。その対比がおもしろい◆西欧には独裁国家に貢献するとの批判もある。そんな疑問にヘルツォーク氏は「(鳥の巣は)トロイの木馬のようなもの」と独誌に答えている◆設計顧問として参画した中国人芸術家の艾未未(アイウェイウェイ)氏は米紙に対し、「五輪は中国人たちが、いかに自由と民主を望んでいるかを世界に示す最大の機会だ」と語る。当局の予想を超える“人心の変化”も五輪は内包しているかもしれない。

8月11日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

8.10.2008

挑戦することに意義がある・・・ 編集手帳 八葉蓮華

挑戦することに意義がある・・・ 編集手帳 八葉蓮華
近代五輪の父、ピエール・ド・クーベルタン男爵は、遺言により、自分の心臓をオリンピアの地に埋めた。ハート、すなわち心を五輪に捧(ささ)げ切ったということだろう◆「勝つことではなく、参加することに意義がある」。言わずと知れたクーベルタンの言葉だ。勝利へと向かって、前進し続ける努力に価値を認めた。「挑戦することに意義がある」とした方がいいかも知れない◆今、北京に204の国と地域から精鋭が集っている。不穏な空気をぬぐえない今大会ではあるが、選手たちはただひたすら、自らの限界に挑戦し、ドラマを見せてくれるだろう◆連日、感動と興奮を味わえるのも、近代五輪を実現させた男爵の偉業による。クーベルタンのせめて万分の一でも意義ある事を成し、最期に、生涯の志を仕込んだ我が心臓を縁(ゆかり)の地に埋めよ、と遺言してみたいものだ◆きょう8月10日は語呂合わせで「ハートの日」。心臓疾患の予防を心がける日という。いまだ偉業のかけらすら成さず、中に込める志も見つからぬままだが、北京のアスリートたちを応援しつつ、とりあえず入れ物だけは大切にしておきたい。

8月10日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

8.09.2008

血なまぐさいにおい・・・ 編集手帳 八葉蓮華

血なまぐさいにおい・・・ 編集手帳 八葉蓮華
上方落語の煮売屋(にうりや)、いまでいう居酒屋の場面に、3種の怪しい“名酒”が登場する。飲んで村を出るころに醒(さ)める「むらさめ」、庭を出るころに醒める「にわさめ」、飲んでる尻から醒めていく「じきさめ」という◆スポーツ観戦で受ける感銘は「さめず」という名の美酒であってほしいと誰しも願う。北京五輪の場合はどうだろう。酔わせてなるかと言わんばかりの、中国当局による嫌な事件である◆新疆ウイグル自治区で警察部隊が襲撃された事件を取材していた東京新聞の写真部記者が武装警官に連行され、肋骨(ろっこつ)3本にひびが入る暴行を受けた。日本テレビの記者も顔などを殴られている◆人には想像力というものがある。取材中の外国人記者がこれだけの暴行を受けるのであれば、何かの嫌疑をかけられた中国人の住民は密室で一体どんな扱いを受けているのだろう。肋骨何本で済んでいるとは思えない◆開会式の華麗な祭りに息を呑(の)んだあとで、勝者とともに雄叫(おたけ)びを上げたあとで、敗者とともに涙ぐんだあとで、想像力はときに血なまぐさいにおいを運んでくるだろう。「じきさめ」の哀(かな)しい予感がする。

8月9日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

8.08.2008

五輪の火が点じられる・・・ 編集手帳 八葉蓮華

五輪の火が点じられる・・・ 編集手帳 八葉蓮華
ひと月半ほど前、本紙の「読売歌壇」で知った一首がある。〈完封の投手の上げる雄叫(おたけ)びのなきまま長き勤め終りぬ 篠山市 清水矢一〉。定年を迎えた感慨という◆言われてみると、そう、会社勤めのなかで雄叫びを上げたことは一度もないな…。ゲームセットまでしばらく時間を残す身ながら、歌にうなずいた覚えがある。雄叫びはおろか、小さなガッツポーズの記憶さえ心もとない◆そのくせ、めった打ちされて放心している投手を見たときなどは、まるであの時の自分のようだ――と、仕事でしくじった記憶が冷や汗まじりによみがえるのだから、困ったものである◆〈肩を落し去りゆく選手を見守りぬわが精神の遠景として〉。4年前に死去した歌人、島田修二さんの一首も忘れがたい。敗者のなかに過去の自画像を見つける。スポーツ観戦の本筋かどうかは別にして、そういうほろ苦い愉(たの)しみも確かにある◆北京の聖火台にきょう、五輪の火が点じられる。どの競技といわず、天にこぶしを突き上げて雄叫びをあげる人の傍らには、うなだれて去りゆく背中があるだろう。いくつもの遠景が待っている。

8月8日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

8.07.2008

松本サリン事件 あれから14年、ついに意識の戻らぬまま・・・ 編集手帳 八葉蓮華

松本サリン事件 あれから14年、ついに意識の戻らぬまま・・・ 編集手帳 八葉蓮華
父親は高校生の長男に告げた。「家にあるお金はこれだけだ。足りなければ保険を解約し、まだ足りなければこの家を売りなさい」◆松本サリン事件で当初、警察は第1通報者の河野義行さん(58)を容疑者扱いし、メディアは“疑惑の人”として報じた。意識不明の妻を気遣いつつ無実の逮捕に備える日々を河野さんは手記「『疑惑』は晴れようとも」(文春文庫)につづっている◆報道には抜きがたい不信感を抱いたが、捜査の非を鳴らすにはマスコミに頼るしかない。心情を吐露する相手として、河野さんは読売新聞を選ぶ。「中央の警察情報に強い“最大の敵”を味方につけ、全体の流れを変えようとした」という◆たしかに流れは変わったが、本紙を含む報道各社が警察情報を鵜呑(うの)みにすることで河野さん一家に精神的なリンチを加えた事実は動かない。「最大の敵」という言葉はいまも胸にうずく◆あれから14年、ついに意識の戻らぬまま、妻の澄子さん(60)がサリン中毒の後遺症で亡くなった。「わが家にとっての松本サリン事件が終わった」と河野さんは語った。報道に携わる者に事件の終わりはない。

8月7日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

8.06.2008

被爆の記録「屍の街」・・・ 編集手帳 八葉蓮華

被爆の記録「屍の街」・・・ 編集手帳 八葉蓮華
家が倒れ、両親が下敷きになった。手の先だけが見えた。指を握っていると、炎が迫ってきた。瓦(が)礫(れき)に埋まった母が「早くお逃げ」と言った。ひとりぼっちになったので、祖母を訪ねようと思う◆少年は10歳ほど、頭に巻いた布に血が染みていた。原爆が落ちて3日後、作家の大田洋子さんは広島市内から避難するバスで乗り合わせた少年の言葉を、被爆の記録「屍(しかばね)の街」に書き留めている◆酸鼻を極めた描写は幾つもあったはずだが、8月6日がめぐりくるたびに浮かんでくるのはこの一節である。少年が母親の手を離す瞬間の、指先の感触を想像してみる時がある。わが子の手を振りほどく母親の、指の動きを瞼(まぶた)に描いてみる時がある◆広島の原爆忌から長崎の原爆忌へ、夏休みの“旬”ともいうべきこの季節は、手をつないで歩く親子連れに行く先々で出会う。平和であることのありがたさを絵にすれば、きっとこういう光景になるのだろう。握り、握られた指に目がいく◆廿日市(はつかいち)市の祖母を訪ねたバスの少年は、あれからどうしたろう。母の体温はいまも指の先に残っているか。息災ならば70代の半ばである。

8月6日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

8.05.2008

もう一度私を甘やかしてくれる… 編集手帳 八葉蓮華

もう一度私を甘やかしてくれる… 編集手帳 八葉蓮華
芥川竜之介の短編「世之(よの)助(すけ)の話」で、主人公が語る。子供のころ、手習いに行くといたずらっ子によくいじめられた。壮年を迎えたいまでも、墨の匂(にお)いをかぐたびに当時がよみがえると◆「大抵な事が妙に嗅覚(きゅうかく)と関係を持っている」という感懐は小説の世之助に限るまい。目で見、耳で聞いて思い出す昔もあるにはあるが、匂いが呼びさます記憶にはどこか、一瞬に押し寄せる津波にも似た不意打ちの荒々しさがある◆ビニールの浮輪の栓を抜いたときに鼻先をかすめる空気であったり、あるいは夕暮れどきの部屋に漂う蚊取り線香の煙であったり、何十年かの歳月を瞬時にさかのぼる匂いのタイムマシンは、人によりさまざまだろう◆遠出をしようにもガソリンはむやみに高いし、宿も列車も込み合うばかりだし、テレビで五輪の観戦はしたいし…と、今年は夏休みの旅行を見合わせた方もあるに違いない◆「子供の時の喜びと悲しみとが、もう一度私を甘やかしてくれる」。墨の匂いに触れる愉(たの)しみを、世之助はそう語っている。匂いの呼びさます遠い記憶に旅をして、思い出に甘える夏もたまにはいいだろう。

8月5日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

8.04.2008

青空とそよ風が演出した光景… 編集手帳 八葉蓮華

青空とそよ風が演出した光景… 編集手帳 八葉蓮華
聖火の最終ランナーは、原爆の日に広島県で生まれた青年だった。グラウンドからスタンドの頂点まで延びる階段を、トーチの白い煙をひとすじ長く引きながら、一直線に駆け上がっていく。抜けるような青空の中で、聖火台にオレンジ色の炎が点(とも)った◆東京五輪の記録映像を見ている。なんと見事な光景だろう。最高の舞台装置はあの晴天と微風である。どちらが欠けても駄目で、これはもう、人知を超えた存在が演出したとしか思えない◆聖火台への点火は開会式のクライマックスだ。最近の五輪では点火方法は秘密にされ、その瞬間に世界をあっと驚かす。前々回のシドニーでは、火を頂いた円盤が上昇して台座に納まった。前回のアテネでは、トーチを巨大化した“聖火塔”がいったん倒れ、先端に点火された後に再び立ち上がった◆北京の聖火台も、相当に派手な動きをするらしい。どんな演出で驚かせてくれるのか楽しみではある。が、奇抜な仕掛けを競う点火ショーは、ちょっとやり過ぎと思わぬでもない◆青空とそよ風が演出した光景が一番、と思うのは欲目だろうか。北京五輪は4日後に迫った。

8月4日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

8.03.2008

越後3大花火… 編集手帳 八葉蓮華

越後3大花火… 編集手帳 八葉蓮華
海の柏崎、川の長岡、山の片貝、とも呼ばれている。いずれも新潟県、中越地方の夏から秋を彩る花火大会だ。これを越後3大花火という◆中越沖地震は1年前の7月だった。柏崎市を中心に甚大な被害をもたらし、直後に予定していた花火大会は中止のやむなきに。しかし「海の柏崎」は先日、見事に復活した。日本海に花開く尺玉の300連発や100発一斉打ちなど、圧巻の極みである◆昨日と今日は2夜連続で「川の長岡」。最初の中越地震で最も被害を受けた長岡市の花火は、信濃川が舞台だ。三尺玉も有名だが、今では地震被害の復興を願って放つ「フェニックス」が主役に加わった。広い河川敷の各所から一斉に打ち上がる超特大スターマインが頭上を埋め尽くす◆来月初めには「山の片貝」が控えている。小千谷市の片貝町の山あいに、世界最大の四尺玉が轟(とどろ)き、被災地の花火を締めくくる◆越後に限らず、全国で光の泉に歓声が上がっていることだろう。暑さも、災厄も、花火は豪快に吹き飛ばす。相次ぐ天災や嫌な事件を、束(つか)の間忘れて、昨夜は「川の長岡」を思う存分、堪能させてもらった。

8月3日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

8.02.2008

水は溜まらない… 編集手帳 八葉蓮華

水は溜まらない… 編集手帳 八葉蓮華
「水も溜(た)まらず」とは刀剣がよく切れるさまをいう。「水も溜まらず切れにけり」(平家物語)などと使う。桶(おけ)の代わりに籠(かご)の釣瓶(つるべ)で井戸から水を汲(く)もうとしても、水は溜まらない。「籠釣瓶(かごつるべ)」とはよく切れる刀の異名でもある◆福田政権は籠釣瓶に似ている。国政の乱麻を断つ快刀内閣…というのではない。個々の閣僚が汗を流し、井戸端で綱の上げ下ろしに励んでも、「支持率」という水は一向に溜まらない、という意味である◆論外の社会保険庁、談合汚染の国土交通省、接待汚職の防衛省、居酒屋タクシーの諸官庁…と、政権が負った傷の大半は閣僚が握る綱の先、官僚という名の「籠」たちが招いた禍(わざわい)である◆綱の上げ下ろしに疲れたので選手交代を、という内閣改造だろう。汲み手を入れ替えても、しかし、籠が籠のままでは水は漏れつづける。快刀内閣に生まれ変わるには、閣僚が配下の官僚群に規律を取り戻し、隙(すき)のない「桶」に変えることから始めねばなるまい◆有効な政策を「つるべ打ち」できるか、できぬまま支持率が「つるべ落とし」で地に落ちるか、改造内閣の命運は“綱の先”で決まる。

8月2日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

8.01.2008

値上げの話ばかり… 編集手帳 八葉蓮華

値上げの話ばかり… 編集手帳 八葉蓮華
日本書紀の一行目にいわく、「いにしえに天地いまだ剖(わか)れず、陰陽分かれざるとき、混沌(こんとん)たること鶏(とりの)子(こ)の如(ごと)くして…」。この世の姿は混沌として鶏卵のようであったと◆卵は黄身と白身に分かれ、混沌としてはいない。すき焼きを食べるときの溶き卵は別だが――と、考古学者の森浩一さんが「食の体験文化史」(中央公論社)に書いていた◆物の値段といえば以前は、原油などのように値動きの激しい品々と、変動がほとんどない“物価の優等生”に分かれていたはずである。どうやらいまは黄身と白身が入り乱れ、混沌とした溶き卵になりつつあるらしい◆このところ、月初めは値上げの話ばかりを聞かされるが、きょうから一部の冷凍食品やマーガリンなどが値上げになる。優等生の卵では、ブランド卵が飼料の高騰を受けて値上げ組に名を連ねている◆まど・みちおさんの詩「めだまやき」から。〈「めだまやき」ということばは いたい/いたくて こわい/いきなり この目だまに/焼きごてを当てつけられるようで…〉。卵に限らず、店先で値札を見る目にも、ふと「焼きごて」を感じそうな夏である。

8月1日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

7.31.2008

日米通算3000本安打… 編集手帳 八葉蓮華

日米通算3000本安打… 編集手帳 八葉蓮華
10年ほど前だったか、第一生命保険が募ったサラリーマン川柳の優秀作を覚えている。〈打てぬ日もあるイチローを好きになり〉。「ああ、彼も人の子だった」という共感の一句だろう◆身を顧みても、その人を引き合いに独り言をつぶやくのは、彼が無安打に終わった日に限られるようである。あの天才だって稀(まれ)に打てない日があるじゃないか。凡才のおれが仕事でしくじって何の不思議があろうかと◆よくて成功率3割、10回に7回は失敗するのが打者であるとは、多くの人が語るところである。失敗が普通の競技で打って当たり前、打たなければ騒がれるという選手はそうそういない◆米大リーグ、マリナーズのイチロー選手(34)が日米通算3000本安打を記録した。「今季、まだ試合に出るのだから、僕は(3000本を)通り過ぎる」。試合後、そう語ったという◆日に2本も3本も安打を放っては野球少年が仰ぎ見る天上の星として輝き、ごく稀に“打てぬ日”をつくっては万年スランプのサラリーマンを慰めるべく地上に降り立つ。天と地を何往復かするうちに、また新しい記録が見えてくるだろう。

7月31日付 編集手帳 読売新聞

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7.30.2008

五つの安心プラン… 編集手帳 八葉蓮華

五つの安心プラン… 編集手帳 八葉蓮華
かつてフランスに女神のごとく君臨した名女優、サラ・ベルナールに伝説がある。会食の席でのこと、彼女は料理のメニューを読み上げただけで、同座の人々を泣かせたという。芸の力だろう◆政府がときに緊急対策の名のもとにまとめる政策のメニューも、サラの神業には及ばずとも、聴く人の心にしみ入るように読み聞かせねばなるまい。きのう、「五つの安心プラン」を聴いた◆医療、高齢者対策など社会保障5分野の緊急政策メニューである。医師不足の解消策として救急や産科、へき地で過酷な医療現場を支える医師に手当を直接支給するなど、新機軸の料理もないではないが、疑問は残る◆「食材は調達できますか?」――財源の裏付けが心もとない。「厨(ちゅう)房(ぼう)は清潔ですか?」――消えた年金記録など社会保険庁のでたらめぶりを次から次に見せられて、厨房(厚生労働省)に抱く不信感は抜きがたい◆辞書によれば宰相の「宰」の字は、「刃物で肉を切って料理する」意味だという。福田シェフが財政構造と官僚体質に包丁を振るうまでは、メニューを聴いただけでうれし泣きする人はいないだろう。

7月30日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

7.29.2008

水悩月… 編集手帳 八葉蓮華

水悩月… 編集手帳 八葉蓮華
夕立には「白雨(はくう)」という美しい異称がある。涼しげな名は白い雨脚から付けられたという。〈木から木へこどものはしる白雨かな 飴山実(あめやまみのる)〉。急な雨に遊びを中断して走る子供たちの、はしゃぐ声が聞こえてきそうである◆蝉(せみ)の合唱がやむ。青空がかき曇り、水煙を立てて雨が降り注ぐ。それもつかの間で、ほどなく嘘(うそ)のように晴れ上がり、蝉がまた鳴き出す…。夏の雨といえば、涼を呼ぶありがたいもの、恋しいものであったはずである◆はしゃぐどころか、川べりからわずかに難を避ける時間の余裕も子供たちにはなかったらしい。きのう午後、大雨で増水した神戸市内の川で子供を含む4人が濁流にのまれて死亡した◆未明から北陸地方を襲った豪雨では一時、富山県内で30か所の集落が孤立し、金沢市では約5万人に避難の指示が出されている。夏の雨らしい昔の雨は、どこに行ってしまったのだろう◆旧暦ではまだ6月下旬、「みなづき」がつづく。一説には「水悩月(みずなやみづき)」の略ともいう。「白雨」の美称にはだまされまい。朝となく、夕となく、「水悩」の二文字を胸に、不意の雨にはくれぐれも用心を。

7月29日付 編集手帳 読売新聞

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7.28.2008

エラーを犯さないこと… 編集手帳 八葉蓮華

エラーを犯さないこと… 編集手帳 八葉蓮華
「エラーを連発するチームが優勝することはありえないが、エラーを犯さないことを至上目標とするチームが優勝することも難しい」──。プロ野球の話ではない。政府の防衛省改革会議がまとめた報告書の一節だ◆汚職や艦船衝突、情報流出など、不祥事を防止する「守り」だけでは十分でない。より積極的に本来業務に取り組む「攻め」が重要だ。そんな趣旨だろう◆残念ながら今の防衛省には、その積極性が欠けている。スーダンでの国連平和維持活動(PKO)参加問題が一例だ。日本大使館が普通に活動できるほど平穏な首都への司令部要員派遣の決断に4か月以上も費やした。幹部が「アフリカ派遣の意義を説明するのが難しい」と躊躇(ちゅうちょ)したためだ◆在日米軍再編問題でも、主管官庁なのに、ほとんど存在感を示していない。米軍普天間飛行場の移設は、停滞し続けている◆石破防衛相は省改革ばかりでなく、もっと本来の仕事に目を向けてほしい。大規模な組織改革は省の歴史に残る。政治家には魅力的な仕事だろう。だが、政権末期を迎えた同盟国の首脳が“遺産”作りに励むのを真似(まね)ることはない。

7月28日付 編集手帳 読売新聞

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7.27.2008

日本を代表する10大発明… 編集手帳 八葉蓮華

日本を代表する10大発明… 編集手帳 八葉蓮華
日本を代表する発明や発見、というと何が思い浮かぶだろうか。特許庁のロビーに「10大発明家」のレリーフが飾られている。紹介しよう◆豊田佐吉(木製人力織機)、御木本幸吉(養殖真珠)、高峰譲吉(アドレナリン)、鈴木梅太郎(ビタミンB1)、杉本京太(邦文タイプライター)、本多光太郎(KS鋼)、八木秀次(八木アンテナ)、丹羽保次郎(写真電送方式)、三島徳七(MK磁石鋼)。これで9人◆もう一人は池田菊苗。功績はグルタミン酸ナトリウム、というよりも「旨味(うまみ)調味料」と呼ぶ方がいいだろう。その製造法の特許を得たのが、ちょうど100年前、1908年7月末のことだった。今や「AJINOMOTO」は世界中で通用する◆いずれも産業の草創期に貢献した。無論、その後に見るべき発明や発見がなかったわけではなく、改めて10大発明を選べば、違う業績と顔ぶれも考えられよう◆先日、大阪の研究所が新たな蛋白質(たんぱくしつ)を見いだし、日本発のアニメにちなんで、ピカチュリンと名付けたという。頼もしいことだ。100年後の日本人が思い浮かべる10大発明は、さて何だろう。

7月27日付 編集手帳 読売新聞

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7.26.2008

金平糖の親父… 編集手帳 八葉蓮華

金平糖の親父… 編集手帳 八葉蓮華
何十年か昔の人たちも、〈うちの親父(おやじ)は金平糖(こんぺいとう)の親父、甘い中からツノが出る〉と歌い囃(はや)されていたのだから、家庭内で父親の威令が行き届かないのは今に始まったことでもあるまい◆数えてみた人によれば万葉集に、父母ではなく父親単独で詠まれた歌はたった1首という。歌には詠んでもらえず、ツノを出してもなめられる。表彰台に立たせてもらえなくても、いまさら驚きはしない◆あなたが金メダルを贈りたい人は誰ですか? 住友生命保険が計4000人の男女に尋ねたところ、「親」が42%で1位を占めた。以下は「配偶者」「子供」「有名人・スポーツ選手」「自分自身」…とつづいている◆「親」と答えた人の79%が母親を挙げたという。会社の上司を連れてきて、「毎日、こういう人に泣かされているんだぞ、お父さんは」と判定に異議を申し立てるわけにもいきませんからね、ご同輩◆子のすこやかな笑顔があれば勲章は要らない。世の父親の多くは、そう思っているだろう。「メダルはともかくも王冠ならば、晩酌で2個や3個は楽に稼ぎますがね…」。ひとりつぶやき、瓶ビールの栓を抜く。

7月26日付 編集手帳 読売新聞

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7.25.2008

東北の夏… 編集手帳 八葉蓮華

東北の夏… 編集手帳 八葉蓮華
「眠い」を「ねぶたい」ともいう。ねぶた祭りの「ねぶた」も元は睡魔を指したらしい。それを追い払うのは神の災禍を受けぬ用心であったと、国文学者の池田弥三郎さんが「日本故事物語」に書いていた◆神の来臨するお盆の夜に眠ってはいけないと古人は信じ、〈ねぶた流れよ 豆(まめ=健康)の葉よ とまれ〉と歌いつつ、家内の息災を祈ったという◆午前0時26分といえば夢路の途中で叩(たた)き起こされ、狼狽(ろうばい)した方も多かったろう。きのう、最大震度6強の地震が東北地方を襲い、負傷者は岩手や青森などの8道県で計100人を超えた◆ひと月ほど前に、岩手・宮城内陸地震に見舞われたばかりである。青森のねぶた祭りなど「東北の夏」の書き入れ時を目前に控えて、観光に携わる人たちも不安を募らせているに違いない◆ねぶた流しの歌には、〈まなこの性(しょう)に善いように〉という文句もあった。睡魔に負けず、目が働きますようにと祈った言葉だろう。地を揺るがす者は夜も来臨する。眠らぬわけにはいかないが、グラリときたその時は間髪入れずに起動せよ。おのが「まなこ」に言い聞かせてみる。

7月25日付 編集手帳 読売新聞

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7.24.2008

お前は何と云う下等な奴だ… 編集手帳 八葉蓮華

お前は何と云う下等な奴だ… 編集手帳 八葉蓮華
暗闇のなかで声が問う。お前がこの世でなした行為の責任は? 「僕」が答えて言う。〈四分の一は僕の遺伝、四分の一は僕の境遇、四分の一は僕の偶然、――僕の責任は四分の一だけだ〉◆その返答に、暗闇の声は告げた。〈お前は何と云(い)う下等な奴(やつ)だ!〉と。きょうが命日の作家、芥川竜之介の遺稿「闇(あん)中(ちゅう)問答」にある。全集をひもといて味わいたい言葉はほかに幾らもあるのだが、時節柄で仕方がない◆先月、17人が死傷した東京・秋葉原の通り魔事件では犯人の男の「境遇」、過酷な派遣労働の実態などが掘り下げて報じられた。事件の背景をなす根がいかに深かろうとも、しかし、境遇によって「僕の責任」が数分の一に軽減されるわけではない◆一昨日の夜、今度は東京・八王子の書店で会社員の男(33)がアルバイト店員の女子大生(22)を包丁で襲い、殺した。「仕事がうまくいかず、ムシャクシャしてやった。誰でもよかった」。男はそう供述しているという◆いかに恵まれぬ、いかに悩み多き境遇も、何の罪も落ち度もない人の命を奪う行為の言い訳にはならない。「僕の責任」は四分の四である。

7月24日付 編集手帳 読売新聞

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7.23.2008

読書のにぎやかな話題が続く… 編集手帳 八葉蓮華

読書のにぎやかな話題が続く… 編集手帳 八葉蓮華
作家の子母沢寛(しもざわかん)は若いころの一時期、「朝の気商会」という会社に勤めていた。風変わりな社名は「人間、いつも朝起きたときのような気分でいよう」という社長のモットーから付けられたという◆作家の回想によれば、ありもしない鉄材を売り歩き、現物が見たいと言われたら他社の鉄材置き場に案内する。でたらめな会社であったらしいが、モットーだけは褒めてもいいだろう◆ここ何日か、小一時間ほど早起きをして本をひらいている。ページはそう進まないが、時間を少し得したような、一日のめりはりがつくような心地よさは「朝の気」の功徳かも知れない◆先日は中国人の楊逸(ヤンイー)さんが書いた「時が滲(にじ)む朝」が芥川賞に輝き、きょうは世界のベストセラー「ハリー・ポッター」シリーズの完結編が発売されるなど、読書のにぎやかな話題が続く。朝ひらく一冊を探すのも愉(たの)しい◆夏の読書で思い出す詩がある。〈風にページをめくらせ/海をみている/本よむ人…〉。長谷川四郎「本よむ人の歌」の一節である。海は望めなくとも窓からの風にページをめくらせ、「朝の気」を肺に満たすのもいいだろう。

7月23日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

7.22.2008

炎暑の季節がはじまる… 編集手帳 八葉蓮華

炎暑の季節がはじまる… 編集手帳 八葉蓮華
詩人の杉山平一さんに、「風鈴」という作品がある。〈かすかな風に/風鈴が鳴つてゐる/目をつむると/神様 あなたが/汗した人のために/氷の浮かんだコップの/匙(さじ)をうごかしてをられるのが/きこえます〉◆仕事のあとの一杯がいつも赤提灯(あかちょうちん)では芸がない。たまには神様が匙を動かす一杯にあずかろう。…と思い立ち、川崎大師(川崎市)の風鈴市を訪ねて小ぶりの江戸切り子をひとつ買った◆窓を閉め切って冷房を効かせていては鳴ってくれない。テレビなどをつけていては聞こえにくい。その音色は働いて流す汗のみならず、省エネで流す汗のご褒美でもあろうかと、自宅の窓辺に風鈴をつるしながら思う◆きょうは二十四節気のひとつ「大暑」、炎暑の季節がはじまる。世をあげて原油高にあえぐ夏である。毎日とはいかずとも、昔に返って風鈴と団扇(うちわ)で過ごす一日をつくるのもいいだろう◆原稿の締め切り時間に尻を炙(あぶ)られての冷や汗やら、進まない筆に呻吟(しんぎん)しての脂汗やらを流している身も、さて、「汗した人」のうちに入れてもらえるのかどうか。匙を手にした神様に尋ねてみないと分からない。

7月22日付 編集手帳 読売新聞

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7.21.2008

もう世襲で地位を継ぐ時代ではない… 編集手帳 八葉蓮華

もう世襲で地位を継ぐ時代ではない… 編集手帳 八葉蓮華
明治維新期に暗殺された思想家の横井小楠(しょうなん)は、万延元年(1860年)に著した『国是三論』で、ワシントン以来のアメリカ政治の優れた一面として、大統領選挙の仕組みを紹介している。「大統領の権柄(けんぺい)、賢に譲りて子に伝えず」◆天下のための政治をするには、もう世襲で地位を継ぐ時代ではない。賢人を広く天下に求めよ。激動する幕末の世に向けて、覚醒(かくせい)を促す警鐘だった。以来、4年に1度の大統領選には日本も大いに注目してきたが、今年は関心の高さが際立っている◆米世論調査機関ピュー・リサーチ・センターが先月発表した24か国調査で、大統領選の行方を注視していると答えた人は、日本が83%で第1位。米国の80%を上回った。第3位は56%のドイツ、英国でも50%だ◆北朝鮮問題やイラク情勢、イラン核開発、基軸通貨ドルの揺らぎ、景気減速など、日本にとっての深刻な心配事がそれだけ多いということの反映なのだろうか◆万延元年の選挙では共和党のリンカーン候補が勝利した。民主党のオバマ氏であれ、共和党のマケイン氏であれ、真の賢人でなければ世界中が困る今の局面である。

7月21日付 編集手帳 読売新聞

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7.20.2008

北京奥林匹克運動会… 編集手帳 八葉蓮華

北京奥林匹克運動会… 編集手帳 八葉蓮華
オリンピックを中国では「五輪」ではなく「奥林匹克」と書く…と小欄で紹介したところ、どう発音するのか、との問い合わせを頂戴(ちょうだい)した。奥林匹克運動会は「アオリンピークーユントンホィ」、略して奥運会は「アオユンホィ」。片仮名で表すのは難しい。やや不正確な点は御容赦を◆「聖火」の表記も日中で違う?との質問も頂いた。これは中国も「聖火(ションフオ)」。そのリレーは「聖火接力(チエリー)」。トーチリレーの意味で「火炬(フオチュイ)接力」ともいう◆北京五輪の聖火リレーでは、警備上の理由で何度もトーチの火が消される場面があり、驚かされた。種火があるから聖火が途絶えるわけではないけれど、あれでは聖火接力ではなく、単に火炬接力と呼ぶ方がいいのかもしれない◆聖火は中国国内でも厳重警備の中を進んでいる。先日はサッカー会場となる遼寧省の瀋陽でリレーされたが、ここでも沿道は一般住民の立ち入りが禁止され、事前に選ばれた2万人の応援要員が並んだ。さすがに住民から不満の声が噴出した、と特派員電は伝えている◆厳戒態勢にますます拍車がかかる中で、火炬接力はラストスパートに入った。

7月20日付 編集手帳 読売新聞

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7.19.2008

日本人メジャーリーガーの開拓者… 編集手帳 八葉蓮華

日本人メジャーリーガーの開拓者… 編集手帳 八葉蓮華
「怒りの葡萄(ぶどう)」などで知られる米国の作家ジョン・スタインベックは語ったという。「天才とは、蝶(ちょう)を追っていつのまにか山頂に登っている少年である」と。晴山陽一さんの著書「すごい言葉」(文春新書)に教えられた◆遥(はる)か眼下を見おろしてごらん。何とまあ、高い所までのぼったね。そう褒められても少年はぽかんとし、「ぼくは蝶を追ってきただけで…」と戸惑うのみだろう◆蝶を白球に変えれば、少年は野茂英雄投手(39)の姿に重なる。日本人メジャーリーガーの開拓者が切り開いた登山道があればこそ、イチロー選手や松井秀喜選手の今があるのだが、その人の口から自慢はおろか感慨めいた言葉さえ聞いたことがない◆新人王、123勝、2度の無安打無得点…大リーグに数々の偉大な足跡を刻み、野茂投手が引退を表明した。「悔いが残る」という。頂上からの眺望は眼中になし、少年の目は今も幻の蝶を追っているのだろう◆小池光さんの歌集「滴滴集」から。〈野茂の尻こちらむくときつき出せる量塊の偉(ゐ)は息のむまでぞ〉。見る者の胸に風を呼ぶ、あのトルネード(竜巻)はもう見られない。

7月19日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge