逆さまに行かぬ年月よ・・・ 編集手帳 八葉蓮華
源氏物語の千年紀にあたる今年はアーサー・ウェイリーの名前をよく目にし、耳にした。初めて英訳し、源氏の価値を世界に認めさせた英国の東洋学者である◆生前、何度も訪日の誘いを受け、政府が国賓に準ずる待遇を用意したこともあったが、そのたびに本人が感謝しつつ辞退し、ついに実現しなかった。「どうか、そっと日本を愛しつづけさせてほしい」、そう語ったと、英文学者の外山滋比古(とやましげひこ)さんが随筆「作者の顔」に書いている◆現実の姿に触れ、胸に育ててきた幻影を傷つけたくないというのだろう。年賀状を書く準備に住所録を整理しながらウェイリーの言葉を思い浮かべている◆書いた記事にお便りを頂戴(ちょうだい)したのが縁で、顔も声も知らないまま10年以上も賀状のやりとりをしている方が何人かいる。「どうか、そっと…」の心境はお互い一緒らしく、一度お顔を、という話はどちらからも出ない◆年始のあいさつに添えて、定年退職したことを告げる人、老いを嘆く人、想像のなかの顔にも歳月が刻まれていく。〈逆さまに行かぬ年月よ〉(若菜下)。光源氏の声が聞こえるのはこういう宵である。
11月15日付 編集手帳 読売新聞
八葉蓮華、Hachiyorenge