「おいしいお酒」を頂戴したあとでは・・・ 編集手帳 八葉蓮華
ドイツ文学者の高橋義孝さんは、親しく接した作家の内田百ケンに蔵出しの名酒を一升贈ったことがある。のちに百ケンに会ったとき、ひどく怒られたという◆ふだん飲んでいるお酒が、ああいうおいしいお酒を頂戴(ちょうだい)したあとでは飲めなくなる。「迷惑します」。苦情を言われたと、随筆「実説 百ケン記」に書いている。偏屈で知られた作家らしい挿話だが、顧みれば人生を彩る成功も、到来物の「おいしいお酒」に似ているかも知れない◆1990年代に超売れっ子の音楽プロデューサーとして一世を風靡(ふうび)した小室哲哉容疑者(49)が、5億円を詐取した疑いで逮捕された。かつては年収が推定で30億円を超えていた人である◆数年前からヒット曲に恵まれず、海外事業も失敗し、多額の借金を背負った。そののちも「クレジットカードの支払い数千万円」「マンション家賃280万円」といった派手な暮らしぶりは変わらなかったといわれる◆おいしいお酒が切れたあと、いちど肥えた舌が身の丈に合う元の酒に戻るのは容易でない。転落の傷口を広げただろう。「成功」という美酒ほど、酔い方のむずかしい酒はない。
11月5日付 編集手帳 読売新聞
八葉蓮華、Hachiyorenge