5.31.2009

世界禁煙デー「警告!たばこの健康被害」禁煙週間・・・ 編集手帳 八葉蓮華

 〈洋書漢籍のうづ高く積まれた十畳の室は、いつもタバコの煙で濛々(もうもう)としてゐる〉。大正の末、芥川龍之介の仕事場を訪ねた小紙の文芸記者が書いている

 大変なヘビースモーカーだった芥川に「煙草(たばこ)と悪魔」という短編がある。日本に初めてたばこをもたらしたのはフランシスコ・ザビエルの従者に化けた悪魔であった、という設定だ

 ある土地にたばこを植えた悪魔は、通りかかった商人に、「作物の名前を言い当てれば畑のものを全部やる。当てられなければ体と魂をもらう」との取引を承知させる。商人は一計を案じて作物の名を知り当て、悪魔の鼻をあかした

 めでたしで話は終わらない。悪魔は商人の体と魂は手に入れられなかったが、たばこを日本全国に普及させることができた――と続く。作者は、晩年にいろいろと持病を抱えることになった原因を自覚していたと見える

 きょうは世界禁煙デー。WHOの今年のスローガンは実に単刀直入で、「警告!たばこの健康被害」となっている。わかっちゃいるけど…という人も来月6日までの禁煙週間、心の中の小さな悪魔と闘ってみてはいかがだろう。

 5月31日付 編集手帳 読売新聞
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5.30.2009

「国民栄誉賞」じっと根を張った人だけが、やがては太い幹を天に伸ばす・・・ 編集手帳 八葉蓮華

 名前を聞くと、ある年齢が浮かんでくる、そういう人がいる。「昆虫記」のファーブルならば56歳――不朽の名著全10巻の執筆はその年に始まっている

 やなせたかしさん(90)ならば54歳――漫画家としてなかなか芽の出なかったやなせさんが、アンパンマンを世に送り出したのはその年である。「てのひらを太陽に」は仕事もろくになかった冬の夜、ランプの電球に手をかざしていて浮かんだ詩であると、以前に本紙で語っている

 森光子さん(89)ならば41歳――なかなか役に恵まれず、〈あいつよりうまいはずだがなぜ売れぬ〉と嘆きの句も詠んだ森さんが劇作家菊田一夫の目にとまり、初の主役「放浪記」で女優開眼を遂げたのはその年である

 暗い地中にひとりじっと根を張った人だけが、やがては太い幹を天に伸ばすことができるのだと、その人たちの人生が語っている。「放浪記」の初演からほぼ半世紀、公演通算2000回の金字塔を打ち立てた森さんに国民栄誉賞が贈られるという

 いまもどこかで、不遇の身に耐えつつ悔し涙を肥料にして、志の根を地中深く張っている人がいるだろう。幸あれ。

 5月30日付 編集手帳 読売新聞
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5.29.2009

「出る幕はおまへん」法と常識を守り、後ろ指をさされる傷をもたない商人・・・ 編集手帳 八葉蓮華

 江戸期の俳人に小西来山(らいざん)がいる。生家は大阪の薬種商という。代表句は、〈お奉行の名さへ覚えずとし暮れぬ〉。お奉行さんの名前でっか? 知りまへんがな――という句意に、官から自立した民の気骨がうかがえる

 お上の威光が輝く江戸の世にこういうせりふが言えたのは、法と常識を守り、後ろ指をさされる傷をもたない商人だけだろう。傷をもつ身が「お奉行なんぞに出る幕はおまへん」とうそぶけば、ただの傲慢(ごうまん)でしかない

 日本郵政が西川善文社長以下、取締役9人全員を再任する人事案を株主総会に諮るという。「かんぽの宿」売却問題の経営責任を問う鳩山邦夫総務相は再任に強い難色を示しているが、いまなお実のある説明はなされないままである

 国民の大切な財産を引き継いだ会社であり、その財産売却をめぐる不始末である。沈黙が「気骨」の産物ではなく、「傲慢」の産物と映るのは致し方ない

 来山には、〈竹の子を竹になれとて竹の垣〉という句もある。日本郵政は真(ま)っ直(す)ぐな竹に育つべき竹の子である。見守る竹の垣は世間だろう。曲がってる? ほっといてえな――は通らない。

 5月29日付 編集手帳 読売新聞
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5.28.2009

「心の食べ物」昭和という時代を奏でた歌びとたち・・・ 編集手帳 八葉蓮華

 その年、「焚(た)き火屋」が繁盛したと世相史の本にある。火に手をかざして50銭という。コメも味噌(みそ)も配給、誰もが空腹と寒さに震えていたころである

 岡晴夫さんの歌う「憧れのハワイ航路」は1948年(昭和23年)に世に出た。〈一人デッキでウクレレ弾けば/歌もなつかし あのアロハオエ…〉。そういう日がいつか来ると信じよう――作詞家の石本美由起さんは遥(はる)かな夢を詞に託したという

 終戦後の一時期を回想し、「歌を食べて生きていた」と語ったのは作家の久世光彦さんだが、この歌が当時の人々にどれほど貴重な“心の食べ物”であったかは、現代人の想像に余るものがあろう

 「矢切の渡し」「柿の木坂の家」など詩魂のこもる数々の名曲を残し、石本さんが85歳で死去した。冬には遠藤実さん作曲の「高校三年生」を懐かしみ、春を迎えては三木たかしさん作曲の「津軽海峡・冬景色」を唇によみがえらせたばかりである

 いままた、〈飲んで棄(す)てたい面影が/飲めばグラスにまた浮かぶ…〉と、「悲しい酒」を口ずさむ。昭和という時代を奏でた歌びとたちの、後ろ姿のメドレーはさみしい。

 5月28日付 編集手帳 読売新聞
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5.27.2009

聞く耳を持たなければ遅かれ早かれ「鉄火場に朽ちる」さだめ・・・ 編集手帳 八葉蓮華

 着物の帯は二重(ふたえ)か三重に巻くのが普通だが、江戸のばくち打ちは三尺(1メートルほど)の短い帯を一重(ひとえ)に巻き、体の前で結んだという

 後ろから帯をつかまれても腹の結び目を解けば体の自由が利き、逃げられる。捕り手に囲まれたときの用心であるらしい。ばくち打ちを主人公にした芝居を「三尺物」と呼ぶのは帯の長さに由来すると、作家の半藤一利さんが「其角(きかく)俳句と江戸の春」(平凡社)に書き留めている

 米国との交渉力を高める賽(さい)の目と、孤立を深めて自滅に至る賽の目と――核実験を再度強行した北朝鮮は、イチかバチかの丁半勝負を繰り返してきた“ばくち打ち国家”である

 北朝鮮の理解者である中露両国が捕り手の輪に加わるかどうかはまだ明らかでないが、ほとほと愛想が尽きかけているのは確かだろう。重病説もささやかれて胴回りのほっそりした独裁者だが、一重のつもりが二重三重に、今度ばかりは帯の長さを測り違えているのかも知れない

 昔の人は諫(いさ)めた。「ばくちはやめときな。場で朽ちる、って言うぜ」と。聞く耳を持たなければ遅かれ早かれ、〈鉄火場に朽ちる〉さだめである。

 5月27日付 編集手帳 読売新聞
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5.26.2009

「お前さん」平和の空で 野暮な原爆 ためすバカ・・・ 編集手帳 八葉蓮華

 遊郭で遊んだ代金を踏み倒そうと、客が店の若い衆を口車に乗せる。相手の物わかりの良さをおだて上げて語ることには、〈言うことに角がとれてるね、お前さんは。古い角砂糖みたいな人だ〉と。落語「付き馬」である

 物わかりの良さも度を過ぎれば、甘くてなめられる角砂糖だろう。北朝鮮が核実験を強行した。3年ぶり2度目だが、長距離弾道ミサイル発射の記憶も生々しく、脅威は前回の比でない

 北朝鮮にとって言うことに角がとれてる物わかりの良い「お前さん」は、テロ支援国家の指定を解除した米国の前ブッシュ政権であり、国連安全保障理事会の場で事あるごとに北朝鮮擁護の色をにじませてきた中国やロシアである

 〈さくら咲く咲く 平和の空で 野暮(やぼ)な原爆 ためすバカ…〉。半世紀以上も前に歌われた「大当り景気ぶし」(西條八十作詞、上原げんと作曲)の一節だが、一部の国々の事なかれ主義、物わかりの良さが現代版「ためすバカ」を増長させてきた

 いずれ始まるだろう安保理での制裁論議にこれ以上の甘さは禁物である。「古い角砂糖」を唐辛子の粉でまぶさねばならない。

 5月26日付 編集手帳 読売新聞
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5.25.2009

嗜好や感性「アニメ文化外交」日本のアニメの魅力・・・ 編集手帳 八葉蓮華

 中国を最近訪れた知人の話。若い女性に日本のアニメを知っているか尋ねたところ、たちどころに「火影忍者」「海賊王」「死神」など20余りの題名を挙げた。上から「NARUTO」「ONE PIECE」「BLEACH」が原題で、ネットに流れる中国語字幕の動画で見たという

 著作権の侵害は問題だが、中国政府の「愛国反日」教育で育った世代に、日本人の嗜好(しこう)や感性といった〈リアルな日本人〉像を最もよく伝えてくれているのが、ネット経由のアニメであるらしい

 世界各地で日本のアニメの魅力を講演している櫻井孝昌さんは、アニメ好きが高じて日本の若者ファッションを着こなすようになった海外の若者にもたくさん出会った。近著「アニメ文化外交」でそう紹介している

 アニメの主人公が興じているのが気になって将棋を覚えた若者や、字幕がもどかしいという理由で日本語の勉強を始めた若者もいたという。ソフトパワーとして活用できる分野は多い

 櫻井さんの言うように、海外の若者の人生に日本のアニメがどんな影響を与えているかを、日本人は知らなすぎたのかも知れない。

 5月25日付 編集手帳 読売新聞
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5.24.2009

国境を超える音楽の輪、東洋と西洋の打楽器の合奏・・・ 編集手帳 八葉蓮華

 韓国の民族太鼓「チャング(杖鼓)」の軽妙なリズムに合わせてキム・ジュホン(金株弘)さん(39)が歌い始めた。哀愁を帯びた野太い声、日本の音楽にはない独特なリズムにひき込まれる

 やがて、ドラ「チン(鉦)」やチャルメラ「テピョンソ(太平簫)」の高い音色も加わり、ダレル・ジェンクスさん(51)がドラムを叩(たた)き始めた。東洋と西洋の打楽器の合奏で、「36分の1拍子」のリズムはモダンジャズのような雰囲気を醸し出す

 この米韓合同セッションは横浜市中区山手町の米国務省日本語研修所で催された。米国の若手外交官に日本語を教える施設で、ジェンクスさんは音楽好きの所長である

 キムさんとはソウル駐在時代に親交を結び、キムさんの音楽グループ「ノルムマチ」が在日韓国人の子供たちに伝統文化を伝える催しで今回来日したのを機に、横浜に招いた

 「伝統を踏まえた、新しいコリアン音楽を日本人にも聴いて欲しい」とキムさんは語り、「〈ノルムマチ・ニューウエーブ音楽〉と名付けてみました」とジェンクスさんは語る。国境を超える音楽の輪が、日本で広がるのはうれしい。

 5月24日付 編集手帳 読売新聞
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5.23.2009

定年65歳を迎える「高見山」日本人以上に日本人らしい・・・ 編集手帳 八葉蓮華

 ある人に「関取、オレンジ色の締め込みですね」と言われ、「いいえ、みかん色です」と答えた話が残っている。ハワイ生まれの東関親方(本名・渡辺大五郎)は高見山の現役当時、〈日本人以上に日本人らしい〉と評された

 東京五輪の年に19歳で来日し、高砂部屋に入る。兄弟子に鼻を引っ張られては「これが鼻」、頭を叩(たた)かれては「これが頭」、そうやって日本語を覚えたと回想の文章にある

 体が硬く、股(また)割りの痛さに泣いた。兄弟子に「ガイジンはこれ式で泣くのか」と嘲(あざけ)られ、「目の汗です」と答えた。当時20円の初乗り切符で山手線を何周も回り、悲しみを紛らせたと杉山邦博さんの「土俵の真実」(文芸春秋)にある

 外国出身者で初の幕内力士、幕内優勝の記録を残し、人なつこい笑顔の記憶を残し、東関親方が来月16日に日本相撲協会の定年65歳を迎える。この夏場所が最後の場所で、あすは親方の土俵人生にとっても千秋楽になる

 モンゴル出身の横綱、大関による白熱の優勝争いがつづく。外国人力士の大輪が幾つも花ひらいたのは、その人の「目の汗」が染みこんだ土壌あればこそだろう。

 5月23日付 編集手帳 読売新聞
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5.22.2009

「さしがね合わせ」大勢が一緒に仕事をする際にはまず、物差しを合わせる・・・ 編集手帳 八葉蓮華

 大工道具に「さしがね」がある。鋼製や黄銅製の直角に折れ曲がった物差しをいう。さしがねも人がこしらえた物であり、一つひとつに角度や寸法の微妙な差があるらしい

 大勢の職人が一緒に仕事をする際にはまず、各人が持ち寄った道具の寸法と角度を調べ、ヤスリで削るなどして寸分も違わないようにする。これを「さしがね合わせ」と呼ぶと、宮大工、小川三夫さんの聞き書き集「棟梁(とうりょう)」(文芸春秋)に教わった

 鳩山由紀夫代表のもとで新執行部が動き出した民主党の弱点は、政策を計測する物差しがばらばらの寄り合い所帯にある。軋(きし)みを恐れてか、安全保障政策などで党内論争を封印してきた

 いまのまま政権交代を叫んでも、角度や寸法がまちまちの物差しを持ち寄った職人衆に、国民が安心して新居の設計を任せるとは考えにくい。まずは「さしがね合わせ」だろう。挙党一致、団結の美名のもとに侃々諤々(かんかんがくがく)の議論から逃げてはなるまい

 辞書は「さしがね」の項目にもう一つの語義を載せ、〈陰で人をあやつること〉とある。「さしがね合わせ」あり、「さしがね封じ」あり、鳩山さんも忙しい。

 5月22日付 編集手帳 読売新聞
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5.21.2009

国民の視点や感覚を反映させる「効果」人を裁く重圧と負う心の傷・・・ 編集手帳 八葉蓮華

 戦時中、「夢の製鉄法」騒動というのが起きている。発明家が畑のなかに砂鉄を盛り、アルミの粉を加えて火をつけると、純鉄が出来た。畑で製錬できれば高価な溶鉱炉は要らない。砂鉄は幾らでもある。これで戦争に勝てる…と軍部は色めき立った

 科学者は笑った。その方法は以前から知られていたが、鉄より貴重なアルミを鉄の10倍も消費する。〈一台の戦車を作るのに百台の飛行機を潰(つぶ)すような話〉(中谷宇吉郎博士)であると

 政策の当否は、望める「効果」と支払う「費用」で決まる。裁判員制度も例外ではない

 刑事裁判に国民の視点や感覚を反映させる「効果」は理解できる。「費用」はどうだろう。初年度だけで約80億円という国費のことではない。仕事のやりくり、人を裁く重圧、ときに残酷な証拠写真を見つめて負う心の傷もあろう。〈一台の戦車を作るのに…〉。中谷博士の比喩(ひゆ)が脳裏によみがえり、小欄では何度か制度に疑問を呈してきた

 裁判員制度がきょうから始まる。純鉄の産出量と、アルミの消費量――その均衡もしくは不均衡は、3年後の制度見直しまでに明らかになるだろう。

 5月21日付 編集手帳 読売新聞
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5.20.2009

漢字「耕して天に至る」志を欲に変える金銭とは怖いものである・・・ 編集手帳 八葉蓮華

 〈耕して天に至る〉という。段々畑、棚田の美しさと、耕作の過酷さとを伝えて、余すところがない。新藤兼人監督の映画「裸の島」で、冒頭に映し出される言葉としてご記憶の方もあろう

 黙々と、営々と耕し、作物の実りがひと重、またひと重と、天の高みに近づいていく。地道に文化を育て守る人に出会うたびに、その言葉が胸をかすめる

 日本漢字能力検定協会の大久保昇・前理事長(73)が34年前に漢字検定を始めたとき、受検者は700人に満たなかったという。商売になる保証もない荒れ地を耕しつづけたのは、漢字文化を豊かに実らせる志が胸にあったからだろう。289万人に耕地を広げていくなかで志は狂いはじめたようである

 昇・前理事長と長男の浩・前副理事長(45)が背任の疑いで逮捕された。協会の資金を親子に流すトンネル会社をつくり、業務委託費などの名目で2億6000万円を振り込ませたという

 親と子は知らず知らずに、「天」という大切な漢字を分解していたのかも知れない。実る作物は2人だけのもの、〈耕して二人に至る〉と。志を欲に変える金銭とは怖いものである。

 5月20日付 編集手帳 読売新聞
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5.19.2009

プロ野球の記録と共に半生を歩み“記録の神様”一つひとつの物語・・・ 編集手帳 八葉蓮華

 安田猛投手(ヤクルト)が田淵幸一選手(阪神)を敬遠で歩かせ、日本プロ野球の連続イニング無四球記録は「81」で途切れた。1973年(昭和48年)9月である。ベンチから敬遠を指示された安田投手の胸の内はどうだったか

 宇佐美徹也さんは「プロ野球記録大鑑」(講談社)に書いている。チームが勝つために〈記録をあっさり犠牲にした安田のマナーは賞賛もの〉である、と

 南海の野村克也選手(現・楽天監督)が正捕手の座を守った期間は22年の長きに及ぶ。同時期に南海のユニホームを着た捕手はほかに38人、うち22人は〈1試合もマスクをかぶって出ることがかなわなかった〉。掲げられた無名捕手の名前を目でたどるとき、歯をくいしばる無念の音が聞こえてくる

 パ・リーグ記録部の公式集計員、報知新聞の記録部長、日本野球機構のデータ本部室長――プロ野球の記録と共に半生を歩み、“記録の神様”と呼ばれた宇佐美さんが76歳で亡くなった

 ページをめくるごとに、一つひとつの記録の背後から物語が浮かび上がる。数字の海に、生身の人間を照らす常夜灯をともしてくれた人である。

 5月19日付 編集手帳 読売新聞
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5.18.2009

ネクタイの結び目に険しい目が向けられる日がいずれ来るのかも知れない・・・ 編集手帳 八葉蓮華

 作家のオスカー・ワイルドは語っている。〈ネクタイを上手に結ぶことは人生の重要な第一歩である〉と。現在のフォアインハンドと呼ばれる形のネクタイは、おしゃれな彼が流行の起源とも伝えられる

 同じ流行でも新型インフルエンザのほうは困りもので、メキシコではネクタイの着用を自粛する動きがあるという。結び目は鼻と口のすぐ下、締めたり緩めたりして手垢(てあか)にまみれるとウイルスが喜ぶ環境になるらしい

 日本国内の感染者が90人を超えた。すでに数百人が感染したとみる専門家もいる。ネクタイの結び目に険しい目が向けられる日がいずれ来るのかも知れない

 弱毒性が感染を繰り返すうちに強毒性に変異する場合もあるから油断は禁物だが、従来の抗インフル薬は有効という。ここで浮足立つ必要はない。マスクの着用や手洗いなどで身辺に用心しつつ、正しい情報に耳をすます冷静さをお忘れなきように

 心がけはネクタイの結び目に似ている。だらしなく緩めてはいけないし、息苦しくなるほどきつく締めすぎても体に良くない。用心の紐(ひも)を上手に結ぶことは、長期戦の重要な第一歩だろう。

 5月18日付 編集手帳 読売新聞
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5.17.2009

民主党の新しい代表に鳩山氏、天下分け目の衆院選もそう遠くない・・・ 編集手帳 八葉蓮華

 切り抜き帳に小さな記事がある。2001年11月29日付、全国町村長大会が開かれたことを報じている。当時首相の小泉純一郎氏と、やはり当時の民主党代表、鳩山由紀夫氏が来賓で出席した

 会場で首相を激励する万歳三唱が行われ、鳩山氏も加わった。記者会見で万歳の真意を問われ、「むっつりしていては失礼だと思って…」と釈明している

 与野党の党首を招いておいて片方だけに万歳を唱える式次第の不見識はさておき、鳩山氏のおっとりした人柄がしのばれる挿話ではある。いまほど政権交代が現実味を帯びていなかった当時ならではだろう

 民主党の新しい代表に鳩山氏が選ばれた。献金疑惑に満足な説明もできず、世論からレッドカードを突きつけられて退場した小沢一郎前代表を重要ポストで処遇するという。小沢グループの支持があればこそ手にすることのできた代表の椅子(いす)である

 天下分け目の衆院選もそう遠くない。“小沢氏の影”を、自民党は大喜びで攻めてくるだろう。気づかぬままに鳩山氏は「麻生さん、万歳」を唱えているのかも知れない。首相官邸につづく道は棘(いばら)の階段である。

 5月17日付 編集手帳 読売新聞
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5.16.2009

「無謀な運転」いかなる刑罰を載せようとも、傾いた天秤は微動だにしない・・・ 編集手帳 八葉蓮華

 日ごろ鼻風邪や花粉症でお世話になっている身近な品を、これほど悲痛な文脈で用いた例を知らない。〈交通事故の裁判における被害者の命の重さは、駅前で配られるポケットティッシュのように軽い〉と

 1997年3月、小学生2人をはねて死亡させた被告に、業務上過失致死罪で求刑通り禁固2年の判決を言い渡したとき、京都地裁の藤田清臣裁判官が血を吐くように語った言葉である

 危険運転致死傷罪の新設など厳罰化がなされた今も、ときに胸をよぎる。4歳、3歳、1歳――3年前の夏、福岡市内で飲酒運転の車に追突され、車ごと海に転落して兄弟と妹の3人が死亡した事故で福岡高裁はきのう、1審の懲役7年6月を破棄し、被告に懲役20年の判決を言い渡した

 天秤(てんびん)の片方に一枚の写真を載せる。風呂上がりか、母親にまとわりついてはしゃぐ愛らしい笑顔を載せる。3人が歩いたはずの人生を載せる。両親が流した涙を載せる。もう片方にいかなる刑罰を載せようとも、傾いた天秤は微動だにしないだろう

 この世から無謀な運転が消えない限り、「ポケットティッシュ」の悲しみは繰り返す。

 5月16日付 編集手帳 読売新聞
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5.15.2009

“壊し屋”集団離党でもすれば、党批判を浴びせる側に回りかねない・・・ 編集手帳 八葉蓮華

 米国の第36代大統領リンドン・ジョンソンは語ったという。攻撃的な言動で知られた政府高官を、大方の予想に反して再任した時である。〈小便は外から室内にされるよりも、室内から外にされるほうがいい〉と

 民主党の代表選びに、このいくらか品位に欠ける格言を思い浮かべた。いわば世論に引きずり降ろされた形の小沢一郎氏が党内で恐縮するふうもなく、全身躍動する光景は不思議である

 代表選挙の方法も日程も小沢氏が主導し、自身の影響力を保ちやすい方向で決められたと報じられている。氏がヘソを曲げて集団離党でもすれば、屋外から党批判の小便を浴びせる側に回りかねない。献金疑惑の説明もしない人に党内が勝手を許すのは、“壊し屋”伝説に恐れをなしてのことだろう

 せわしない選挙日程には、各紙の世論調査で小沢批判が噴き出す前に――との思惑もあると聞く。民主党ほど「民意」の一語を多用する政党はないが、これからは多少なりとも恥ずかしそうに使ってほしいものである

 小便の格言が似合うようでは、「自民党より清潔」という宣伝文句もいささか怪しくなってくる。

 5月15日付 編集手帳 読売新聞
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5.14.2009

JR無料パス「矜持」ばかばかしくて、もうやってられない・・・ 編集手帳 八葉蓮華

 河竹黙阿弥の書いた歌舞伎狂言に通称「鋳掛松(いかけまつ)」がある。貧しい職人の松五郎は金持ちの舟遊びを見て堅気の暮らしに嫌気がさし、悪の道に走る。〈こいつァ宗旨を変えざぁなるめえ〉と

 ここでいう宗旨とは勤勉第一に生きてきた信念をさす。松五郎のせりふを現代風に直せば、「ばかばかしくて、もうやってられない」ということになろう

 定額給付金をめぐる議論で麻生首相が「矜持(きょうじ)」(=誇り)を説いたことがある。世間にではなく、自身の側近に説くべきであったろう。鴻池祥肇官房副長官が女性問題で辞任した

 女性と出かけた泊まりがけのゴルフ旅行で、国会議員用のJR無料パスを使ったという。「1000円高速」に小躍りして大渋滞の列に並んだ人たちの目には、優雅な舟遊びの情景が浮かぶはずである。遊びの足代ぐらいは自分の財布を使いなさいよ――と、68歳の閣僚経験者に公人の心得を説くのは情けない

 緊張感ゼロの人が中枢にいる政権から“世紀の危機”を説かれても、あいさつに困る。宗旨はともかく、〈こいつァ支持政党を…〉と思案に沈んだ松五郎さんもどこかにいるだろう。

 5月14日付 編集手帳 読売新聞
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5.13.2009

逃れようにも逃れられない、魂の奥底を流れる調べ・・・ 編集手帳 八葉蓮華

 作曲家の三木たかしさんが作詞家の星野哲郎さんに語った。「演歌は嫌いです。どうしても好きになれない」。珠玉の演歌「津軽海峡・冬景色」の作曲者が“演歌嫌い”を気取るのか――星野さんは少しカチンときたらしい

 つい、「嫌いと言うからには演歌というものを知った上で、でしょうね」と詰問したが、三木さんの答えを聞いて誤解が解けたという。星野さんの随筆「歌、いとしきものよ」から引く

 「洋服を着て、洋食を食べて、どんなに西洋ぶってみても、ついてくる日本がある。ついてきて後ろから引っ張る日本というものがある。私には、それが演歌です」。だから嫌いだ、と

 逃れようにも逃れられない、魂の奥底を流れる調べ。演歌に捧(ささ)げられた、これにまさる賛辞を寡聞にして知らない。「つぐない」「みずいろの手紙」「思秋期」…数々のヒット曲は、〈日本というもの〉の引力と〈個性〉の遠心力とが組んずほぐれつして咲かせた美しい花だろう

 三木さんが64歳で亡くなった。名曲の五線譜に居場所が与えられる日を待っていただろう音符たちを引き連れて、天にのぼるには早すぎる。

 5月13日付 編集手帳 読売新聞
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5.12.2009

「観客の心に敏感なこと」選挙に強く、気が短くて剛腕・・・ 編集手帳 八葉蓮華

 “喜劇王”エノケンこと榎本健一さんは劇団の座長が備えるべき資質を四つ挙げたという。第一に〈芝居がうまい〉、第二に〈金銭に疎い〉、第三に〈怒りっぽい〉、第四に〈腕力でも座員に対抗できる〉

 沢田隆治さんの著書「私説コメディアン史」(ちくま文庫)の一節にある。芸が未熟では話にならず、カネに目のない座長に人望が集まるはずもない。短気はときに規律を保つ道具であり、コワモテもまた然(しか)り、各項の意味するところは察しがつく

 政治家にあてはめれば、表芸の選挙に強く、気が短くて剛腕で、その人も堂々たる座長になれただろうに、ひとつ欠けていたらしい

 「第二」の資質でつまずくのは師匠直伝か、小沢一郎氏が民主党の代表職を辞するという。違法献金事件で氏に向けられたのは〈金銭に疎い〉の逆、金銭に貪欲(どんよく)なのではないか、という疑いの目である。満足な説明ができない以上、辞任は仕方ない

 それにしても遅すぎた。各種の世論調査で客席から「引っ込め」のヤジを浴び、しぶしぶ舞台を降りる。〈観客の心に敏感なこと〉を、第五の資質として榎本説に付け加えておく。

 5月12日付 編集手帳 読売新聞
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5.11.2009

楽観も悲観も寄せ付けない「構造改革」言い分に耳を傾ける・・・ 編集手帳 八葉蓮華

 財布の中のお金でも、グラスに残ったお酒でもいい。「まだ、こんなにある」と楽観するか、「もう、これしかない」と悲観するか

 日常会話にも時々登場する、人間のタイプの二分法である。よく出来た設問だと思えなくもないが、予(あらかじ)め定められた選択肢から答えを選ぶ気分は、乗せられているようですっきりしない

 数年前、当時の小泉首相は、構造改革賛成派か抵抗勢力かと、踏み絵を迫る勢いで問いかけた。米国のブッシュ政権は、対テロ戦争をめぐり、国際社会を敵と味方に峻別(しゅんべつ)する姿勢に傾いた。その後、一刀両断的な政治手法は長続きしなかったけれど

 就任後100日を経たオバマ米政権は、他国の言い分に耳を傾けることを外交の重点に置く構えだ。政策の力点は、イラクからアフガニスタン、パキスタンへと移る。そこには、イスラム過激派との戦いが待ち受ける

 国際政治の帰趨(きすう)もさることながら、先日、映画「子供の情景」を見て、アフガン情勢の一端に触れた気がした。遊びや教室風景を通して描かれる子どもたち。その向こうに、楽観も悲観も寄せ付けないこの国の現実が見え隠れした。

 5月11日付 編集手帳 読売新聞
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5.10.2009

「母の日」元気な声にまさる親孝行はない・・・ 編集手帳 八葉蓮華

 愛とは優しい心に宿りやすいが、愛そのものは優しくはない。容赦なき苛(か)烈(れつ)な力だ、そう述べたのは「惜みなく愛は奪う」の有島武郎である。〈いささかの子の病にも、その母の眼(め)はくぼむではないか〉と

 子供が幾つになっても親の眼はくぼむ。顔が見られなければ、なおさらだろう。「もしもし母ちゃん、オレだけど」「あんた、声がおかしいね」「ああ、インフルエンザのせいだよ」。そういう手口の振り込め詐欺が続発したのは今年の初めである

 新型インフルエンザも、悪党には新しい“飯の種”になる。お隣の韓国では、「あなたは感染者と接触した可能性がある」と電話をして薬の購入などを持ちかける手口が登場したという

 国境を越えて広がる悪事の感染力は、インフルエンザをしのぐ。日本でも「母ちゃん、オレ、感染者と接触したらしい」といった怪しい声に、いまから用心しておくに越したことはない

 国内で初の「新型」感染者が確認されたという。きょうは「母の日」――電話口から聞こえる元気な声にまさる親孝行はない。子の病は親の眼をくぼませ、子の無事は親の眼を潤ませる。

 5月10日付 編集手帳 読売新聞
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5.09.2009

棋聖戦6連覇の偉業「名誉棋聖」最善手を求めて命を削っているから・・・ 編集手帳 八葉蓮華

 囲碁の名誉棋聖、藤沢秀行さんは競輪の一点買いに250万円をつぎ込んだことがある。目当ての選手に後続がきわどく迫る。藤沢さんは金網をつかみ、「ガマーン」と叫びつづけた

 最後に抜かれて大金は紙くずとなり、金網は菱形(ひしがた)にひしゃげた。貴人お手植えの松、ならぬ「秀行(しゅうこう)引き寄せの金網」として競輪場の名所になったという伝説が残る

 型破りは賭け事にとどまらない。将棋の米長邦雄永世棋聖がまだ若いころ、米長夫人が藤沢夫人を訪ね、「うちの主人は週に5日帰ってこないのですが…」と相談したという。藤沢夫人の答えていわく、「うちは3年、帰りませんでした」と、これは藤沢、米長両氏の対談集「勝負の極北」(クレスト)にある

 事業に失敗して借金の山を築いた。並ぶ者なき棋聖戦6連覇の偉業は高利貸しに追われ、自宅を競売にかけられる修羅のなかで成し遂げられている。「最善手を求めて命を削っているから、借金も女も怖くない」と語った

 きのう、訃報(ふほう)に接した。享年83。誰よりもめちゃくちゃで、誰からも愛されて、誰よりも強かった。こういう人はもう現れないだろう。

 5月9日付 編集手帳 読売新聞
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5.08.2009

犬も食わない「夫婦げんか」失言や醜聞の連続・・・ 編集手帳 八葉蓮華

 夫婦げんかで形勢不利に陥った亭主族には、試みて損はない“奥の手”があるという。作家、梶山季之(としゆき)さんの創案で、「冷蔵庫の扉をあけ、野菜や果物をつかみ出せ」というものである

 一つや二つは傷みかけの食材や不要な物が見つかるはずで、「汗水垂らして稼いだゼニを」と嘆いて劣勢をはねのけるという。女性も汗水垂らして稼ぐのがめずらしくない当節のこと、効果のほどは保証の限りでない

 冷蔵庫作戦ごときではもはや形勢の挽回(ばんかい)は図れなかったか。イタリアのベルルスコーニ首相(72)の夫人、ベロニカさん(52)が書簡をメディアに公開し、女性関係の品行が改まらない夫を「恥知らず」と非難したという

 首相は失言癖でも知られ、先月は地震被災地の子供に「テントで暮らすのはキャンプに行くようなもの」と語って物議を醸したばかりである。経済危機、震災、新型の感染症と多事多難の折も折、失言や醜聞の連続に人々の心情やいかに――と、よその国のことながら気にかかる

 劣勢の夫は「濡(ぬ)れ衣(ぎぬ)」説を唱えている。ご夫妻宅の冷蔵庫の中身が何にせよ、犬も食わないのは確かなようである。

 5月8日付 編集手帳 読売新聞
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5.06.2009

Uターンラッシュ「1000円料金制」トイレは大丈夫・・・ 編集手帳 八葉蓮華

 その国では便所ではなく「便上」と表記する。農作物の育ての親に感謝をこめての当て字らしい。神さまもおられて、天神さまならぬ「便神(べんじん)さま」という

 井上ひさしさんの長編「吉里吉里人(きりきりじん)」に描かれた東北地方の独立国、吉里吉里国である。その国の住人ならずとも、脂汗を額に浮かべ、膝(ひざ)と膝をよじり合わせるようにして悲願の小部屋にたどり着いたときは、誰しも“便神さま”に合掌するだろう

 以前はテレビのニュースに大型連休で渋滞した道路が映るたび、正岡子規の一首を愛唱した。〈人皆(ひとみな)の箱根伊香保と遊ぶ日を庵(いお)にこもりて蠅(はえ)殺すわれは〉と。ここ数年、羨望(せんぼう)よりも「トイレは大丈夫かしら…」と余計な心配が先に立つのは、脂汗に親しむ年齢のせいかも知れない

 Uターンラッシュのきのうは「1000円料金制」も影響し、高速道は大渋滞となった。便神さまに祈った方もおられたに違いない。「ともあれ、お疲れさまでした」と画面につぶやく

 わが家の小部屋にまさる愉悦の場所はない。多くの人が明日からまた、忙しい日常に戻る。特等席でしばし、旅の思い出に浸るのもよろしかろう。

 5月6日付 編集手帳 読売新聞
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5.05.2009

懲りない面々「こどもの日」あどけない笑顔、可愛らしさで親孝行・・・ 編集手帳 八葉蓮華

 安部譲二さんの「塀の中の懲りない面々」(文芸春秋)に、岩崎老人という年季の入った受刑者が出てくる。20年以上も前のベストセラーだが、その人の言葉をいまも記憶している

 “塀の中”で親不孝の身をひそかに嘆く安部さんを気遣ってか、岩崎老人が言う。「誰でも、生れた時から五つの年齢までのあの可愛(かわい)らしさで、たっぷり一生分の親孝行はすんでいるのさ。五つまでの可愛さでな」と

 5歳までの可愛さを20歳になるまでに帳消しにしてしまう子供は世間に幾らもいるのだろうが、心ひかれる説ではある。〈墓に布団は着せられず〉で、親を亡くし、ああ、もっと孝行しておけば、そう悔やんでいる人にも、岩崎老人の言葉は心の荷が少し軽くなるおまじないに違いない

 きょうは「こどもの日」、連休もいよいよ終わりに近い。まわらぬ口のカタコト、あどけない笑顔、遊び疲れた無心の寝顔…と、多彩な親孝行を堪能したお父さん、お母さんも多かろう

 古いアルバムで幼い自分の写真を見ると、おできだらけの汚い顔をしている。一生分はちょっと無理でしたか――と、5月の空に聞いてみる。

5月5日付 編集手帳 読売新聞
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5.04.2009

ビッグ3の一角「泣く」クライすらあ、伊フィアット社の傘下に入って・・・ 編集手帳 八葉蓮華

 小林旭さんが歌った「自動車ショー歌」(詞・星野哲郎、曲・叶弦大)にはいろいろなクルマが織り込まれている。たとえば、〈ベンツにグロリアねころんで/ベレットするなよヒルマンから/それでは試験にクライスラー〉

 「ベンチにゴロリとねころんで」「でれっとするなよ昼間から」はいいとして、その次は少し考えた。「クライ」は英語で「泣く」、そんなことをしていると試験で「クライすらあ=泣きをみるぜ」ということらしい

 いわゆるビッグ3、米国自動車大手3社の一角、クライスラーが経営破綻(はたん)した。伊フィアット社の傘下に入って再生を図るという

 昨年11月、公的支援を求めるビッグ3首脳が優雅な自家用ジェット機で連邦議会のあるワシントンに乗り付けたことを思い出す。宝石をじゃらじゃら身につけて炊き出しの列に並ぶにも等しい振る舞いが顰蹙(ひんしゅく)を買った

 税金をねだりつつ、ベンチにゴロリとねころぶような緊張感の欠如を見せつけてから5か月余、天が用意した生き残りの試験で「クライ」したことになる。洋の東西を問わず、世の経営者にはほろ苦い教訓の歌でもあろう。

5月4日付 編集手帳 読売新聞
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5.03.2009

首都の新タワー東京スカイツリー「鼎(かなえ)」3本脚で支える・・・ 編集手帳 八葉蓮華

 建設中の「東京スカイツリー」が少しずつ姿を現し始めた。4本脚の東京タワーに対して、こちらの脚は3本。ゆえに、それぞれ「東鼎(かなえ)」「西鼎」「北鼎」と呼ばれている

 まず西鼎から組み立てが始まり、30メートルほど立ち上がった。鼎立(ていりつ)する脚は上に向かって延びながら、次第に結束して一本の円柱となり、地上450メートルの展望台を支える。憲法記念日のきょう、完成予想図を眺めると、どこか三権分立の精神をモニュメントにしたようでもある

 「鼎」が気になり辞書を引く。帝都を定めることを〈鼎を定む〉と言うそうだ。首都の新タワーとして、なかなかふさわしい構造かもしれない

 〈鼎の沸くが如(ごと)し〉という表現が載っていた。器の中の湯がわきかえるように多くの人が混乱するさま、を表す。こちらは、新型インフルエンザの脅威に直面している現状を連想する

 パニックを防ぎつつウイルスに打ち勝つには、スカイツリーの展望台から状況を見通すような洞察力や指導力が必要だろう。辞書には無論、〈鼎の軽重を問う――統治者の能力を疑うこと〉もあった。そんな事態にはなりませんように。

5月3日付 編集手帳 読売新聞
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5.02.2009

「新型インフルエンザ」心の底から安堵する終息宣言の日まで、長丁場・・・ 編集手帳 八葉蓮華

 ほっと胸をなで下ろすことを「安堵(あんど)する」というが、この「堵」は漢和辞典によれば「土を詰めて固めた塀」を意味するという。安堵とは「堵に安(やす)んず」、塀のなかで安心している心持ちを指す

 新型インフルエンザが国内に侵入するのを食い止める水際作戦は、列島の周囲に「堵」をめぐらす作業にたとえることができる。堅牢(けんろう)な鋼鉄製ではなし、ほころびを想定しておかねばならない土の塀であるところも、この作戦に通じるものがあろう

 未明――横浜市の男子高校生(17)が新型インフルエンザに感染した疑いに緊張し、夕刻――以前からあるAソ連型ウイルスと確認されて安堵し、きのうは列島じゅうがニュースに耳をそばだてて明け、暮れた

 疑いの段階で手をこまぬいていれば、新型と判明したときにはすでに感染が広がって手遅れになる。新型が疑われる場合にはこれからも“お手つきあり”、すみやかな情報提供を最優先に対処していくほかはあるまい

 塀をめぐらしたからといって楽観できず、塀を破られたからといって悲観することもない。心の底から安堵する終息宣言の日まで、長丁場である。

5月2日付 編集手帳 読売新聞
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5.01.2009

「私は月見草」富士山と対峙して微塵も揺るがない存在感の月見草・・・ 編集手帳 八葉蓮華

 日本のプロ野球で初の2500本安打を記録したのは南海の野村克也さん(73)(現楽天監督)である。34年前のその日、ロッテ戦の観客はわずか6000人であったという

 歓声も何もない。大記録を達成した人に数十人がぱらぱら拍手をしただけであったと、近藤唯之氏の「戦後プロ野球50年」(新潮社)にある。実力でスター選手に肩を並べても注目してもらえない。長嶋はひまわり、私は月見草――という言葉は試合後の記者会見で語られている

 一昨日、2万人を超す大観衆の前で史上5人目の監督通算1500勝に到達した。「満員の中で区切りの記録に遭遇するとは、俺も晩年になって運が向いてきたかな」。遠い記憶が胸をかすめたのだろう

 「弱いチームにばかり縁がある」を口癖にしてきた。鶴岡一人氏など先行の監督4人が常勝軍団を率いたことを思えば、至芸のボヤキを交えつつ積み重ねた勝利には一段の重みがあろう

 富士山と対峙(たいじ)して微塵(みじん)も揺るがない存在感の月見草を、〈金剛力草(こんごうりきそう)とでも言いたい〉と讃(たた)えたのは「富嶽(ふがく)百景」の太宰治だった。その人にも、太宰創案の名がよく似合う。

5月1日付 編集手帳 読売新聞
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