その国では便所ではなく「便上」と表記する。農作物の育ての親に感謝をこめての当て字らしい。神さまもおられて、天神さまならぬ「便神(べんじん)さま」という
井上ひさしさんの長編「吉里吉里人(きりきりじん)」に描かれた東北地方の独立国、吉里吉里国である。その国の住人ならずとも、脂汗を額に浮かべ、膝(ひざ)と膝をよじり合わせるようにして悲願の小部屋にたどり着いたときは、誰しも“便神さま”に合掌するだろう
以前はテレビのニュースに大型連休で渋滞した道路が映るたび、正岡子規の一首を愛唱した。〈人皆(ひとみな)の箱根伊香保と遊ぶ日を庵(いお)にこもりて蠅(はえ)殺すわれは〉と。ここ数年、羨望(せんぼう)よりも「トイレは大丈夫かしら…」と余計な心配が先に立つのは、脂汗に親しむ年齢のせいかも知れない
Uターンラッシュのきのうは「1000円料金制」も影響し、高速道は大渋滞となった。便神さまに祈った方もおられたに違いない。「ともあれ、お疲れさまでした」と画面につぶやく
わが家の小部屋にまさる愉悦の場所はない。多くの人が明日からまた、忙しい日常に戻る。特等席でしばし、旅の思い出に浸るのもよろしかろう。
5月6日付 編集手帳 読売新聞
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