8.31.2009

天下分け目「政権交代」歴史のページは偉人がめくるとは限らない・・・ 編集手帳 八葉蓮華

 〈赤い糸 夫居ぬ間にそっと切る〉という川柳がある。“万年政権党”と結ばれていた「赤い糸」の絆(きずな)を有権者がそっと切ったのはいつだろう。衆院選の開票結果は長く連れ添った夫婦の熟年離婚を思わせる

 麻生政権の発足当時、自民党の支持率は民主党より高かった。見限られたのはそれ以降、政権交代の立役者はやはり麻生さんになる。歴史のページは偉人がめくるとは限らない

 不手際つづきで不人気は隠れもないその人を、天下分け目の一戦にかつがざるを得なかった自民党――人材の枯渇ぶりに、「もはやこれまで」とサジを投げた有権者は多かろう

 相手の自壊作用にも助けられて歴史的な勝利を手にした民主党だが、政策の財源や外交の進路をめぐる人々の不安は、いまに至るも解消できていない。「きっと何かが変わるはず」という漠然たる希望に、不安がひとまず席を譲っただけである

 亀井勝一郎の「青春論」にいわく、〈人はしばしば、結婚してから失恋するものである〉。新しい伴侶の座を射止めた鳩山民主党ものぼせてはいられない。希望が失望に変わるとき、「赤い糸」ははかないものである。

 8月31日付 編集手帳 読売新聞
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8.27.2009

誰よりも飲酒運転を憎んでいい警察官が自ら悲劇の種をまいて・・・ 編集手帳 八葉蓮華

 〈あんたがおまわりさんになったら それこそ大事件やねぇ〉。広告会社の電通が編集した「時代を映したキャッチフレーズ事典」によれば大阪府警が10年前、警察官募集のポスターに使った文章という

 何にでも笑いの調味料を加える大阪人の面目躍如だが、大事件を起こす警察官が現実にいないと確信すればこそ掲げられるので、いたら洒落(しゃれ)にならない。博多弁に書き直しても、福岡県警はポスターに使えないだろう

 酒酔いのひき逃げ事故で相手に打撲傷を負わせた小倉南署巡査部長(49)の血液から、基準の4倍を超すアルコール分が検出されたという

 逮捕された日は、福岡市職員の飲酒運転で幼児3人の命が奪われた事故から丸3年の命日だった。命日との遠近で罪が決まりはしないが、同じ県内で、ましてや警察官で、誰よりも飲酒運転を憎んでいい者がみずから悲劇の種をまいてどうする。全国に数多くいる同様事故の遺族も、心に打撲傷を負っただろう

 3年前、幼子たちのあどけない遺影に、あなたの目も潤みましたか――「大」の字をつけてもいい事件を起こしたその人に聞いてみたい気がする。

 8月27日付 編集手帳 読売新聞
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8.26.2009

「宇宙の旅」人込み見物に出かけたような夏休みの行楽・・・ 編集手帳 八葉蓮華

 地球を飛び立ち、月面に立つ宇宙基地を科学者が訪問した。基地の行政官には〈宇宙生まれ第一世代〉の子供がいる。8歳ほどに見える少女だが、年を聞けば4歳になったばかりだという

 驚く科学者に、父親の行政官が言う。「ここの低重力では子供の成長も早い。それでいて老けるのはおそい。――われわれよりずっと長生きするだろう」と。アーサー・クラークのSF小説「2001年宇宙の旅」(早川書房刊)のひとこまである

 理化学研究所と広島大学の共同研究が教えるところではどうやら、その楽しい夢に至る道のりはなかなか遠いらしい

 ほぼ無重力状態でマウスの体外受精を試みたところ、子の生まれる割合は通常の4分の1にとどまり、哺乳類(ほにゅうるい)の受精卵が育つには一定の重力が必要なことが分かった。重力の弱い月では子供ができにくいかも知れない

 地球を訪ねてみたい? 問われて、宇宙生まれの少女は首を横に振った。「人がたくさんいすぎるわ」と。人込み見物に出かけたような夏休みの行楽を終えたばかりの身にはお説の通りで、こちらのほうは小説そのままに進んでいるようである。

 8月26日付 編集手帳 読売新聞
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8.25.2009

優勝旗を手にし、記憶のアルバムをいっぱいにして、夏がゆく・・・ 編集手帳 八葉蓮華

 冒険の旅に出た少年たちを一瞬、稲光が照らす。主人公がつぶやく。〈神がわたしの写真をお撮りになった〉。スティーブン・キングの小説「スタンド・バイ・ミー」(新潮社)の一場面である

 きのうの夕、東京の職場でテレビの高校野球中継を見ていると、表彰式の場面で空がゴロゴロ鳴り、窓に数えるほどの雨粒が落ちた。見ていて手の汗ばむ決勝戦を終えた両校ナインを称(たた)え、神様が記念に遠くから一枚お撮りになったのかも知れない

 敗れたとはいえ九回二死から5点を連取して1点差まで迫った日本文理(新潟)ナインの、力を出しきったすがすがしい笑顔がよかった。耐えに耐えて優勝旗を手にした中京大中京(愛知)ナインの、万感の涙がよかった

 準決勝で敗れた花巻東(岩手)の選手たちも忘れがたい。泣くにつけ、笑うにつけ、“仲間”と呼び合える間柄とはこういうことなのだと、嫉妬(しっと)に似たものを感じたことを白状しておく

 稲光のストロボ付きカメラを首からさげた高校野球好きの神様も、この甲子園は被写体に恵まれて大忙しだったろう。記憶のアルバムをいっぱいにして、夏がゆく。

 8月25日付 編集手帳 読売新聞
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8.24.2009

ゴールドラッシュで沸いた「黄金の州」が財政再建を訴える・・・ 編集手帳 八葉蓮華

 I owe you(私はあなたに借りがあります)―略して「IOU」と呼ばれる借用書を米カリフォルニア州が発行したのは先月である。財政危機に瀕(ひん)したシュワルツェネッガー州知事が、税金還付などで州民に支払うカネの代用手段として決断した

 かつてゴールドラッシュで沸いた「黄金の州」が、皮肉にも「金欠州」に転落だ。州の新年度予算が成立し、財政破綻(はたん)はとりあえず回避されたが、綱渡りが続く。州の景気悪化も深刻だ

 映画スターでもある知事が、「私を信じて欲しい」と財政再建を訴える姿は、スクリーンでみせた強靱(きょうじん)なターミネーターとは違う。カリフォルニア州は、住宅バブル崩壊と金融危機の打撃が大きかった。IOUは、そんな苦境を象徴しているようだ

 2期目のシュワルツェネッガー知事に、3選は認められない。金融危機は最悪期を脱しつつあるが、全米最大州の財政悪化に歯止めをかけ、経済を再生させる持ち時間は限られる

 ターミネーターは「終焉(しゅうえん)」や「断ち切る」などが語源である。“カリフォルニア火の車劇場”の幕引き役を担うターミネーター知事の責任は重い。

 8月24日付 編集手帳 読売新聞
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8.22.2009

語呂合わせ「円周率」身ひとつ、世ひとつ、生くるに無意味・・・ 編集手帳 八葉蓮華

 3・14159265358…昔、円周率を長々と覚えた経験をもつ方もおありだろう。語呂合わせの暗記法〈身ひとつ、世ひとつ、生くるに無意味…〉が知られている

 もう少し長いものでは、〈身ひとつ、宵、獄に向かう、惨たるかな医薬なく…〉というのもある。どちらも景気のよくない内容であるのは、嫌々ながら暗記した人の浮かない気分がおのずと映じているのかも知れない

 小数点以下わずか数桁(すうけた)で降参し、いまも数字の羅列に恐れをなす身には、気の遠くなる数字である。筑波大学が最新のコンピューターで2兆5769億8037万桁まで計算したという

 これまでの世界一、小数点以下1兆2411億桁を一気に2倍以上に伸ばして記録を塗り替えた。恐る恐る電卓を叩(たた)いてみると、ひと桁を1秒ずつ眺めて全部の桁を見終えるには、この先8万年ほどかかる計算になる

 「3・14」で満足し、貧しい頭脳の記憶容量は時節柄、各党の公約を頭に叩き込む作業に使うことにする。若い人が、高齢者が、〈身ひとつ、世ひとつ、生くるに無意味…〉と感じることのない明日をつくる選挙である。

 8月22日付 編集手帳 読売新聞
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8.21.2009

むずかしい言葉「国語じ典でべん強」言葉がわかっておもしろい・・・ 編集手帳 八葉蓮華

 ときどき、辞書を引き比べて遊ぶ。意味の分かりきった言葉が面白い。例えば「右」――岩波書店の広辞苑には〈南を向いた時、西にあたる方〉とある

 三省堂の新明解国語辞典には〈アナログ時計の文字盤に向かった時に、一時から五時までの表示の有る側〉、大修館書店の明鏡国語辞典には〈人体を対称線に沿って二分したとき、心臓のない方〉とある。各社各様、苦心の知恵比べを愉(たの)しんでいる

 暇な遊びはどうやらコラム書きだけのようで、ご飯をもりもり食べるように辞書をめくる子供たちもいる。数日前の本紙で「国語じ典でべん強」という小学3年生の詩を読んだ

 分からない言葉を国語辞典で調べては、付箋(ふせん)を張る。〈今日一日で16まいはったよ/お兄ちゃんは11まいはった/言葉がわかっておもしろい〉とある。最近は学校でもそういう授業が広まっているそうで、日本語の未来にとって頼もしい限りである

 夏休みも、もうすぐ終わる。日に焼けた顔でちょっとむずかしい言葉を口にし、先生を驚かせる子もいるだろう。国語辞典も、「右」に喜ぶおじさんに引かれるよりは、きっとうれしい。

 8月21日付 編集手帳 読売新聞
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8.20.2009

本格的な流行の始まり「新型インフルエンザ」冷静に、あわてずに、全部やる・・・ 編集手帳 八葉蓮華

 穏やかな表情で近づき、相手が気を許したと見るや、牙をむく。兵法三十六計のうち第十計、〈笑裏蔵刀〉はそういう戦術をいう

 うさんくさい商品や利殖法を勧める連中の術策としては珍しくもないが、ウイルスはどこでこの悪知恵を仕込んだのだろう。この春に新型インフルエンザの第1波を経験して、「なあんだ、威力はこの程度だったの?」と気を許し、用心のカブトの緒を緩めかけた方もあったろう

 晩夏の列島を見舞った第2波はいささか様相を異にしている。国内のシ者は3人を数えた。本格的な流行の始まりと見られる。甲子園につどう高校球児にも感染がおよんだという

 こちらにも「科学」と「情報」二刀流の兵法がある。政府はワクチンなどの準備を急ぎ、自治体と医療機関は連携を密にし、各人は時と場合に応じてマスクの着用を怠らない。カブトの緒を締め直すことから始めよう

 兵法の第三十五計〈連環〉の計は、敵の様子を細大漏らさず観察し、複数の策を連続して、あるいは同時に繰り出して敵の動きを鈍くする計略をいう。冷静に、あわてずに、全部やる。〈連環〉のときである。

 8月20日付 編集手帳 読売新聞
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8.19.2009

「人を敬う言葉です」言葉は、人の心を潤す魔法の水・・・ 編集手帳 八葉蓮華

 ドイツのソプラノ歌手エリカ・ケートさんは言語の響きや匂(にお)いに敏感であったらしい。歓談の折に語った比較論を「劇団四季」の浅利慶太さんが自著に書き留めている

 イタリア語を「歌に向く言葉」、フランス語を「愛を語る言葉」、ドイツ語を「詩を作る言葉」と評した。日本語は――浅利さんの問いに彼女は答えたという。「人を敬う言葉です」(文芸春秋刊「時の光の中で」)

 一昨日、甲子園の高校野球中継で実例に接した。横浜隼人(神奈川)戦に完投した花巻東(岩手)菊池雄星投手の勝利インタビューである

 「これまでも練習試合で対戦し、ずっと横浜隼人のようなチームになりたかった。きょう勝てて、少し近づけたかなと思う」。選抜の準優勝投手で、屈指の左腕で、文句なしの快投を見せた直後で、多少の大口は許されるだろうに、この言葉である

 じつを言えば小欄は郷土の代表、横浜隼人を応援していたのだが、負かされた悔しさはどこかに消えていた。言葉は、人の心を潤す魔法の水だろう。折しも列島は選挙一色、激戦のなかでも「人を敬う言葉」は忘れずにいて欲しいものである。

 8月19日付 編集手帳 読売新聞
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8.18.2009

悲劇あり、喜劇ありの「政治の季節」難題ぞろいのいま、ともかくも逃げない人・・・ 編集手帳 八葉蓮華

 年配の時代劇ファンならば、旗本退屈男の額に残る傷あとを思い出すかも知れない。「パッ、天下御免(ごめん)の向こう傷」。弓形の冴(さ)えた月が夜空に懸かっている

 江戸期の俳人、田捨女(でんすてじょ)に、三日月を釣り針に見立てた一句がある。〈出て見よと人釣り針か三ヶの月〉。月を見に出ておいで――人を釣っては戸外に誘い出すような月であることよ、と

 解散からやけに長く感じられた前哨戦も終わり、きょうは衆院選の公示である。餌の甘言をちりばめた人釣り針ならぬ“票釣り針”が隠されていないか、投票日までじっくり、候補者の声に耳をすますとしよう

 旗本退屈男のせりふにある「向こう傷」とは体の前面に受けた傷をいう。敵に正面から立ち向かった証しである。景気、年金、財政、安全保障と難題ぞろいのいま、ともかくも逃げない人を、政党を選ぶほかあるまい

 三日月を釣り針ではなく、研ぎ澄ました匕首(あいくち)に喩(たと)えたのは俳人松本たかしである。〈雪嶺(せつれい)に三日月の匕首(ひしゅ)飛べりけり〉。なかには劣勢で、刃の感触をひんやり首筋に感じている候補者もいるだろう。悲劇あり、喜劇ありの「政治の季節」である。

 8月18日付 編集手帳 読売新聞
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8.16.2009

お盆にお墓を清め、お参りすること自体が貴重なものになりつつある・・・ 編集手帳 八葉蓮華

 〈合併に村の名消えて他郷めく故郷に父母の墓を洗へり〉。先日編まれた平成万葉集の中に、印象深い一首があった。詠んだのは東京都の原澤●司さん76歳

 もとより津々浦々の地名を知っていたわけではないが、このところ、ニュースの中に聞き覚えのない自治体の名が出てくることが多い。平成の大合併とやらで、味気ない地名や珍奇な地名も増えた

 引き換えに、10年前は3200以上あった市町村の数は半減した。景色やにおいは変わらねど慣れ親しんだ村の名は消えて、故郷のような故郷でないような、しっくり来ない思いで墓参りをした人も多いのではないか

 今ではお盆にお墓を清め、お参りすること自体が貴重なものになりつつある。〈迎へ火も送り火もなくマンションの盂蘭盆(うらぼん)静かに暮れてゆきたり〉。これは愛知県の佐々木よし子さん57歳の歌。寂しいと感じるか、時代の流れと感じるか、それぞれあろう

 きのうときょう、ふるさとから都会へと帰るUターンのラッシュはピーク。この風物詩が続いていることに少し安堵(あんど)する。高速道路の渋滞など、大変でしょうが、みなさんお気をつけて。(●は「日」の下に「舛」)

 8月16日付 編集手帳 読売新聞
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8.15.2009

「一億火の玉」で各紙が“みんな”一糸乱れず論調をそろえたとき・・・ 編集手帳 八葉蓮華

 明治生まれの作家、安藤鶴夫の小説で、耳慣れない物言いに出合った。主人公が博打場(ばくちば)の若い衆に使い走りを頼む。「煙草(たばこ)がみんなになった」、買ってきてくれ、と

 辞書を引くと、あった。【みんなになる】=「全部なくなる。終わりになる」。賭け事や相場で「なくなる」「終わる」は禁句であり、忌み言葉の言い換えから生まれたのかも知れない

 新聞記者の舌に、この言い回しは苦い味がする。かつて「一億火の玉」で各紙が“みんな”一糸乱れず論調をそろえたとき、言論はシんだ。結束を乱すからと、敵を利するからと、異説・異論を排除し、「みんなになった」過去がある

 〈あなたが言うことには一切同意できないが、あなたがそれを言う権利はシんでも守ってみせる〉。劇作家ボルテールが語ったとも、後世の創作とも伝えられる。二度と言論を、国を“みんな”にしないための一歩は、その言葉の上に刻むしかない

 理があると思えば、情にかなうと思えば、合唱に声を合わせることがいまもある。そのときも、独唱の口を封じるような真似(まね)はすまい。筆をもつ端くれの、ささやかな誓いである。

 8月15日付 編集手帳 読売新聞
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8.14.2009

「旅する人間」にあこがれつつも、あくせく「到着する人間」でいる・・・ 編集手帳 八葉蓮華

 人には2種類ある。「旅する人間」と「到着する人間」だ――とは推理作家ジェフリー・ディーバーが主人公の犯罪学者に語らせた言葉である(文春文庫、「エンプティー・チェア」)

 過程を楽しむ人間と、結果を急ぐ人間、そう言い換えることもできよう。悲しいかな現代人は「旅する人間」にあこがれつつも、あくせく「到着する人間」でいる時間が長いようである

 先日の地震で壊れた東名高速は上り線がまだ復旧していない。せめてお盆休みぐらいは「旅する」派に転じたいものだが、車で出かけて無事に帰ってこられるかしら…と、「到着する」派から抜け出せない方もあろう

 コピーライター、吉竹純さんに一首がある。〈東京を繃帯(ほうたい)のように巻いている高速道路よ一週間のさようなら〉。この夏に限れば包帯姿は、東京ではなく被災地の高速道路かも知れない

 静岡県内の崩落現場を上空写真で見る。東名高速の直線は包帯のようであり、えぐり取られた路面の黒ずみは滲(にじ)んだ血のように見える。11日の地震発生から15日の復旧(見込み)まで“全治4日”の軽傷も、利用客にはやはり痛い傷である。

 8月14日付 編集手帳 読売新聞
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8.13.2009

勘違いの“人間”「パンダゾウ」パンダ人気にあやかっての演出らしい・・・ 編集手帳 八葉蓮華

 動物が見せる何気ないしぐさは、ときに人の心を打つ。川柳作家、時実(ときざね)新子さんの句がある。〈象が膝(ひざ)折る 涙が湧(わ)いてくる〉。説明は要らないだろう

 膝を折らなくても、目がしらの湿ってくるゾウもいる。何日か前の国際面で「パンダゾウ」の写真を見た。タイの古都アユタヤの観光施設で、パンダに似せて白黒に塗られたゾウである

 パンダ人気にあやかっての演出らしい。絵の具は無害というが、まあ、人間さまの勘違いだろう。遠く離れた小欄が嘆いてみてもゾウ君の慰めにはならないが、とりあえず溜(た)め息をついておく

 きょうも各地の動物園で子供の歓声がゾウたちを包むことだろう。ありのままの姿で、それだけで人は感動するものを。〈パンダゾウの悲哀〉と見出しのついた記事は「ゾウの目は笑っていなかった」と結ばれている

 本来の自分を見せればいいものを、場違いな冗談を言っては周囲の空気を冷え込ませてみたり、上機嫌を装っては疲れ果ててみたり、勘違いの“人間パンダゾウ”を演じた気まずい記憶がふと脳裏をかすめぬでもない。何かと気分を落ち込ませてくれる写真ではある。

 8月13日付 編集手帳 読売新聞
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8.12.2009

自然の猛威がつづく「地震の怖さ」身の回りの品が突然、凶器に変じて牙をむく・・・ 編集手帳 八葉蓮華

 書物を詠んだ短歌のなかでは異彩を放つ一首だろう。歌人の道浦母都子(もとこ)さんに阪神大震災の歌がある。〈本は凶器 本本本本本本本本本本 本の雪崩〉(朝日出版社刊「悲傷と鎮魂」より)

 誇張ではないことをきのう、静岡県を襲った震度6弱の地震で知る。会社員の女性が自宅で大量の本に埋もれてシ亡しているのが見つかった。シ因との関連はまだ分からないが、本は普段、床に積み上げていたという

 本、食器、あるいはテレビと、身の回りの品が突然、凶器に変じて牙をむくのが地震の怖さだろう。負傷者は100人を超えた。西日本で大雨が多くの人命を奪ったばかり、自然の猛威がつづく

 宇宙から届く若田光一さんの映像に拍手し、皆既日食に息をのみ、天の高みを仰いで胸をときめかせた夏である。遠くは見えても1秒後の未来が見えない

 〈人は山と蟻(あり)の中間だ〉。アメリカ先住民オノンダガ族の格言という。自然の前で人間は微小の存在にすぎないのだと、説いた言葉だろう。そのことを現代人に諭すのなら、もっと穏やかな諭し方があろうにと、荒ぶる天地に恨み言を告げずにはいられない。

 8月12日付 編集手帳 読売新聞
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8.11.2009

一生懸命のおしゃべりでございます。よろしくお付き合いを願うのでございます・・・ 編集手帳 八葉蓮華

 そば、うどん、ラーメンを食べる音はどう違うのだろう。桂枝雀さんは弟子の南光さんと録音機を置き、三つを食べて聞き比べたという

 「桂枝雀爆笑コレクション」(ちくま文庫)に演芸研究家の小佐田定雄さんが書いている。音で麺(めん)の区別はつかなかったそうだが、表情も身ぶりも派手な爆笑落語を支えていた飽くなき研究心のしのばれる挿話である

 「一生懸命のおしゃべりでございます。よろしくお付き合いを願うのでございます」。高座の語り出しそのままに万事に懸命であった人には、人知れぬ苦しみがあったのだろう。10年前、みずからの手で59年の生涯を閉じた。ほんとうならば今月13日が70歳の誕生日である

 夏目漱石は「三四郎」で登場人物の口を借り、「三代目柳家小さんと同時代を生きる幸せ」を語った。枝雀さんも同様の感懐を誘う落語家だが、「同時代を生きた…」と過去形で言わねばならないのが残念でならない

 円熟の色つやを重ねた「代書屋」や「宿替え」を、「崇徳院」を聴きたかった――と書けば、往年の名せりふ「どうも、スビバセンね」が天上から聞こえてきそうである。

 8月11日付 編集手帳 読売新聞
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8.10.2009

お国ことば「ことば教育」名古屋をどえらけにゃあ面白い街にしたい・・・ 編集手帳 八葉蓮華

 今週からふるさとで過ごす人も多かろう。親戚(しんせき)や旧友と話し込むうち、忘れていたお国ことばを思い出すのも帰省の楽しみだ

 ところが最近の調査では、名古屋や仙台、福岡など地方都市を中心に、若者が「訛(なま)りが恥ずかしい」という理由で方言を使わなくなっているという。危機感を抱いた名古屋市の河村たかし市長は、担当室を設け、市内の小中学校で「ことば教育」を始める

 衆院議員の当時から名古屋のことばを愛し、その復権を政権公約に掲げた。「地方のことばはただの標準語の方言ではない」という持論の裏には官製標準語への対抗心もあるのだろう

 もうひとつの公約である「市民税の10%減税」にも、国が定める「標準」が立ちはだかる。国が定めた標準税率より税率を下げた自治体は、国の許可がないと新たに借金ができなくなる。そうなれば、市は自由に予算も組めない

 河村市長は就任後初の所信表明で、「名古屋をどえらけにゃあ(よりすごく)面白い街にしたい」とぶちあげた。公約が放言に終わるようなら、市長の名古屋ことばも色あせる。標準語の“河村節”に戻らないことを願う。

 8月10日付 編集手帳 読売新聞
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8.09.2009

核廃絶への道「長崎原爆忌」「核実験博物館」知らなかったことばかり・・・ 編集手帳 八葉蓮華

 ラスベガスに「核実験博物館」なるものがある。ネオン輝くカジノの街には似合わぬように思えるが、地上で100発以上の核を爆発させた米ネバダ州の実験場は、そこから北西に100キロほどしか離れていない

 盛んに地上核実験が行われていた1950年代、ラスベガスのホテルはキノコ雲を見物する観光客でにぎわったそうだ。そんなエピソードと合わせ、名前やデザインに原爆を織り込んだ当時の日用品なども並んでいた

 米国とすれば、これも核開発の歴史の一部ということなのだろう。他の展示も、核が第2次大戦の終結に果たした役割などを肯定的に紹介している。原爆の悲惨さを理解できるものは残念ながら見あたらない

 国立長崎原爆シ没者追悼平和祈念館がここで特別展を開いたことがある。被爆者が語る体験談にアメリカの高校生は「知らなかったことばかり」と驚いていた、と特派員は伝えていた。こうした取り組みを、息長く積み重ねていくしかないのだろう

 きょう長崎原爆忌。彼我の隔たりを思い知り、国際情勢の現実を受け止めつつも、核廃絶への道を立ち止まらずに歩み続けたい。

 8月9日付 編集手帳 読売新聞
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8.08.2009

魂をこめた言葉は残る「一語一絵」握りしめたペンを杖に言葉の世界をさまよう・・・ 編集手帳 八葉蓮華

 夏休みに北海道を訪れる人の何人かは、何十人かは、きっと口にするだろう。〈でっかいどお。北海道〉

 全日空がかつてポスターなどに用いた広告コピーである。作者のコピーライター、眞木準さんは今年6月、60歳で急逝した。作品群に随想の文章を添えた生前の著書「一語一絵」(宣伝会議刊)を故人にゆかりの深い方から頂戴(ちょうだい)し、時折ひらいては言葉の冴(さ)えに酔っている

 たとえばサントリーの〈カンビールの空カンと/破れた恋は/お近くの屑(くず)かごへ〉や〈あんたも発展途上人〉〈飲む時は、ただの人〉、あるいは伊勢丹の〈恋を何年、休んでますか〉や〈恋が着せ、愛が脱がせる〉をご記憶の方もあろう

 コピーは旅である、と眞木さんは書いている。「握りしめたペンを杖(つえ)に言葉の世界をさまよう」のだと。苦心の跡をとどめることなく、わずか数文字、十数文字で人の心を奪う作業ほど、身を削る過酷な旅はあるまい。その早すぎる別れを思うとき、400字を超すコラム書きが字数の不足を言えば罰があたる

 〈でっかいどお…〉は32年前の作品である。人は去りゆくとも、魂をこめた言葉は残る。

 8月8日付 編集手帳 読売新聞
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8.07.2009

暦の上ではもう秋「立秋」締まりがなくダラダラ感も漂う夏・・・ 編集手帳 八葉蓮華

 話術の大家で、軽妙な随筆や小説でも知られた徳川夢声は、何気ない描写に独特の観察眼を示した人である。〈空ハ黒キマデニ碧(アオ)ク…〉という表現が終戦の前年、8月某日に綴(つづ)った日記のなかに見える

 快晴のあまり、逆に太陽が照明を絞ったように感じられる青空がたしかに、ひと夏に幾日かはある。物音が途絶えた昼下がり、〈黒キマデニ碧ク〉澄みわたった空の下にヒマワリの花を配せば、これぞ夏の風景だろう

 そういう夏空を今年はまだ見ない。気象庁によれば7月は、降水量の多さと日照時間の少なさで30年に1度の異常気象であったという。8月の埋め合わせを待つうちに今日は「立秋」、暦の上ではもう秋の声を聞く

 衆院の解散から投開票まで40日間というのはこれまでで最も長いが、締まりがなくダラダラ感も漂う選挙模様が空模様に伝染したような気がしないでもない。公示まであと10日ほどある

 〈よきことば生れよと秋立ちにけり〉。本紙「四季」欄でおなじみの俳人、長谷川櫂さんの句にある。せめて候補者たちには真夏の陽光のような、気合あふれる「よきことば」を望むとしよう。

 8月7日付 編集手帳 読売新聞
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8.06.2009

核廃絶「広島原爆忌」いつの日か美しい弧をなす虹のかけら・・・ 編集手帳 八葉蓮華

 上方落語の「雨乞(あまご)い源兵衛」に雨上がりの虹を愛(め)でる場面がある。「尾頭つきの虹じゃ。見てみよれ、地べたから地べたまで架かりよる」と

 いささか唐突な連想ながら、米国のオバマ大統領が「核兵器のない世界」を説いたときに脳裏をかすめたのはこの虹である。「核依存」の安全保障という現実の地べたに立ち、「核廃絶」という遠くの地べたに架かる弧を夢想した演説であったろう

 作家の長谷川四郎に、「軍艦マーチの歌」という詩がある。「軍艦マーチ」の〈守るも攻むるも黒鉄(くろがね)の/浮かべる城ぞ頼みなる〉をもじり、〈守るも攻むるも原子力/核分裂ぞ頼みなる〉と皮肉った

 唯一の被爆国として核兵器を誰よりも憎みつつ、正気とは言いがたい隣人から身を守るには米国の「核の傘」にすがらねばならない。核分裂ぞ「恨みなる」と歌うべき歴史をもちながら、「頼みなる」と歌わざるを得ない日本人ほど、尾頭つきの虹を切実に願う国民はないだろう

 きょうの広島原爆忌、今年も犠牲者の霊前には数限りない祈りがささげられる。その一つひとつが、いつの日か美しい弧をなす虹のかけらである。

 8月6日付 編集手帳 読売新聞
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8.05.2009

時刻表を旅する「きょうは雨」駅舎の灯がにじみ、文字が読めない・・・ 編集手帳 八葉蓮華

〈土地の名前はたぶん/光でできている〉と、大岡信さんの詩「地名論」にある。駅の名前も、たぶんそうだろう。先日の小欄で、時刻表を旅する愉(たの)しみに触れた。沈んだ気分にふっと光が差し、灯(ひ)がともる心地がする、と

 まだ訪ねたことのない北海道・JR日高線の駅「絵笛」を例に引き、「童画の世界に誘われる」と書いた。それを読んで函館市の医師、水関清さんが思い出をお便りに綴(つづ)ってくださった

 11年前、4歳の坊やと旅をした時である。「え…ふ…え」。停車駅で坊やは、ひらがなの駅名標から一つずつ字を拾って声に出し、上から読んでも下から読んでも同じであるのを発見した喜びに、駅の名を連呼してはしゃいだという。その年の冬、坊やは事故で亡くなった

 坊やとの旅を童話の形にまとめた文章が同封されていた。その一節。〈のぶちゃんのこと、大好きだった…。とても会いたくて。いっしょに汽車に乗りたくて。もう一度会いたくて。一度だけでもまた会いたくて…〉

 時刻表をひらく。空想の駅に、きょうは雨が降っているらしい。駅舎の灯がにじみ、「絵笛」の文字が読めない。

 8月5日付 編集手帳 読売新聞
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8.04.2009

うつむくな「自分の見果てぬ夢」まっすぐ顔を上げて生きよう・・・ 編集手帳 八葉蓮華

 実況したNHK飯田次男アナウンサーの涙声をご記憶の方もあろう。「古橋選手は戦後日本の光明でした。敗れた古橋選手を日本の皆様、どうか責めないでください」

 日本が五輪に復帰した1952年(昭和27年)のヘルシンキ大会で、選手としての最盛期を過ぎていた古橋広之進さんが無冠に終わったときの放送である

 4年前、敗戦国日本はロンドン五輪に招かれなかった。日本水泳連盟は五輪と同じ日程で、“裏五輪”の国内大会を東京で開く。招かれざる者の、奥歯をぎりぎり食いしばる音が聞こえよう。古橋さんは2種目で五輪優勝タイムを上回る記録を打ち立てた

 戦争に敗れても、占領下でも、うつむくな。まっすぐ顔を上げて生きよう。自信を喪失していた人々がどれほど励まされたか、「戦後日本の光明でした」という実況の言葉に尽きている

 水泳の世界選手権が開かれているローマで古橋さんが急逝した。80歳という。自分の見果てぬ夢であったロンドン五輪を目指す選手たちを、最後まで見守りつづけた。顧みてその人に、プールサイドの国旗掲揚ポールほど似つかわしい墓標を知らない。

 8月4日付 編集手帳 読売新聞
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8.03.2009

「選挙限り」公約の達成度をしっかり点検しないと、マニフェストの意義は失われる・・・ 編集手帳 八葉蓮華

 せっかく知恵を絞ってネーミングしても定着しなかった言葉がある。さしずめ〈E電〉(旧国電)が横綱格だ。明石海峡大橋も〈パールブリッジ〉の愛称を定めたが、今は忘れ去られている

 〈マニフェスト・サイクル〉もこのままなら死語となる運命だ。これを提唱した学者たちは、政策ごとに財源や実施期限を明示するマニフェストを出すだけでは不十分で、公約の達成度をしっかり点検しないと、マニフェストの意義は失われると説いた

 かつての公約は「選挙限りの悪質広告」と大差なく、衆院選ごとの政策評価が大事だ、という指摘はもっともだ。だが、理屈にとらわれ過ぎ、「政権選択の選挙は衆院選なので、参院選で負けても首相は辞める必要なし」とまで唱えたのは余計だった

 07年の参院選で大敗した安倍首相は学者のお墨付きにすがって政権にとどまろうとし、失敗した。〈~サイクル〉は理屈倒れという印象だけが残った

 各党のマニフェストは依然、財源の裏付けがあやふやで、標語調の表現も目立つ。かつての悪質広告へ“逆サイクル”させぬためにも、有権者が目を凝らすことが大事だ。

 8月3日付 編集手帳 読売新聞
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8.02.2009

「長岡の花火」毎年、戦争犠牲者を悼んで打ち上げられてきた・・・ 編集手帳 八葉蓮華

 真珠湾のアリゾナ記念館に、山本五十六の肖像画がある。米国が決して忘れない攻撃を指揮したにもかかわらず、〈人望ある艦長にして卓越した戦略家。合衆国との戦争には反対していた〉と、説明書きは意外に好意的だ

 責務を全うした軍人、というのがヤマモト評らしい。故郷・新潟県長岡市の訪問団が昨年秋、真珠湾の戦シ者に花輪を捧(ささ)げた際、一行は米側から棘(とげ)のある言葉を聞くことも覚悟していたそうだが、杞憂(きゆう)に終わった

 長岡も終戦直前の空襲で焦土と化している。山本の故郷ゆえに標的にされたとの説もあるが、定かではない。いずれにせよ、真珠湾で山本個人への悪感情に出会わなかった訪問団は確信した。あの戦禍を繰り返すまい、と訴えるのに長岡とホノルルほどふさわしい組み合わせはない、と

 山下清も張り絵で描いた長岡の花火は毎年、戦争犠牲者を悼んで打ち上げられてきた。これを真珠湾でも見てもらいたい、との夢が膨らみつつある

 きょうホノルル市の一行が信濃川河川敷の花火会場を訪れ、その迫力を堪能する予定だ。長岡の三尺玉が真珠湾を彩る日は遠くないかも知れない。

 8月2日付 編集手帳 読売新聞
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8.01.2009

蝉の声「ミーン、ミーン」が「民意、民意」と聞こえたり・・・ 編集手帳 八葉蓮華

 朝、自宅のベランダで蝉(せみ)を見つけた。腹を上に向けて動かない。コンクリートの上では土に返ることもできなかろうと、手にとって階下の地面に抛(ほう)った。と、指先を離れる瞬間、まだ息があったらしく、蝉は羽ばたいて視界から消えた

 〈来年の今日に逢(あ)わないもののため欅(けやき)は蝉をふところに抱く 清水矢一〉。来年のきょうも木々は緑を茂らせているが、いま鳴いている蝉はもうそこにいない。短いその命は古来、はかないもののたとえとされてきた

 きょうから8月、広島と長崎の原爆忌があり、終戦記念日があり、多くの人にとって「命」の一語が胸を去ることのない季節である。月が替わり、聞く蝉の声にはひとしお胸にしみ入るものがあろう

 今年は選挙の8月でもある。公示日を迎えれば「ミーン、ミーン」が「民意、民意」と聞こえたり、「オーシツクツク」が「惜しい、つくづく」と聞こえたり、蝉たちの声もいくらかは時節の色を帯びて響くのかも知れない。いまのうちに、声を限りの絶唱に耳をすますとしよう

 飛び立つ瞬間の、腹部の振動が指先に残っている。命の鼓動とは哀(かな)しいものである。

 8月1日付 編集手帳 読売新聞
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