社会そのものに牙をむく許しがたい蛮行・・・ 編集手帳 八葉蓮華
古代中国の遊説家、張儀は盗っ人と間違われて傷だらけにされたことがある。満身創痍(そうい)の身となって「わが舌を視(み)よ、なお在りや」(私の舌はまだあるか)と妻に問うた。あると聞いて、「足れり」(十分だ)と述べたという◆民主主義というものに思いが及ぶたび、史記の一節が浮かぶ。行政の不手際や不始末で社会が傷を負うこともある。自由に物を言う国民の「舌」があれば、しかし、治癒に「足れり」と◆世の中をより良く変えていく道具は発言する「舌」であり、法を見る「目」であり、一票を投じる「指」である。刃物を握る「手」では断じてない◆厚生労働省の元次官宅が相次いで襲われ、さいたま市では夫妻が刺殺され、東京・中野では妻が刺されて重傷を負った。年金などで不祥事の続いた厚生行政に不満を持つ者の仕業かどうかは不明だが、社会そのものに牙をむく許しがたい蛮行である◆事件を受けてメディアに求められるものは、政治や行政の批判を手控えることではなく、批判すべきは節度と責任をもってきちんと批判していく姿勢だろう。わが舌を視よ――張儀の言葉を胸に繰り返す。
11月20日付 編集手帳 読売新聞
八葉蓮華、Hachiyorenge