今日は倒れた旅人たちも/生まれ変わって/歩き出すよ・・・ 編集手帳 八葉蓮華
〈ふりかへり振り返り走るランナーよ追ふはおのれの影のみなるを〉。大江昭太郎さんの歌集「黄瑞香(きずいこう)」より。顧みれば人はいつも、何かに追われるように後ろを振り返りながら生きている。山坂があり、雨にも濡(ぬ)れる◆長距離走者の孤影には人生の旅を思わせるものがある。4年間という歳月をマラソンの行程42・195キロにあてはめれば、最後の5日間は144メートルほどの距離である。競技場の門をくぐり、ゴールが見える地点だろう◆女子マラソンの野口みずき選手(30)が北京五輪本番の5日前、左足の肉離れで出場を断念した。アテネの金メダルから4年、北京での連覇を目標に走りつづけてきた人の無念はいかばかりだろう◆発表したコメントのなかで野口選手は出場する代表ふたり、土佐礼子、中村友梨香の両選手に期待の重圧が集まることを気遣った。旅人が小柄な体に背負ってきた荷の重さを改めて知る◆つらい後ろをいまは振り返らず、心と体をゆっくり休めてほしい。中島みゆきさんの歌った「時代」の一節が浮かぶ。〈今日は倒れた旅人たちも/生まれ変わって/歩き出すよ〉。その日は来る。
8月14日付 編集手帳 読売新聞
八葉蓮華、Hachiyorenge