8.05.2008

もう一度私を甘やかしてくれる… 編集手帳 八葉蓮華

もう一度私を甘やかしてくれる… 編集手帳 八葉蓮華
芥川竜之介の短編「世之(よの)助(すけ)の話」で、主人公が語る。子供のころ、手習いに行くといたずらっ子によくいじめられた。壮年を迎えたいまでも、墨の匂(にお)いをかぐたびに当時がよみがえると◆「大抵な事が妙に嗅覚(きゅうかく)と関係を持っている」という感懐は小説の世之助に限るまい。目で見、耳で聞いて思い出す昔もあるにはあるが、匂いが呼びさます記憶にはどこか、一瞬に押し寄せる津波にも似た不意打ちの荒々しさがある◆ビニールの浮輪の栓を抜いたときに鼻先をかすめる空気であったり、あるいは夕暮れどきの部屋に漂う蚊取り線香の煙であったり、何十年かの歳月を瞬時にさかのぼる匂いのタイムマシンは、人によりさまざまだろう◆遠出をしようにもガソリンはむやみに高いし、宿も列車も込み合うばかりだし、テレビで五輪の観戦はしたいし…と、今年は夏休みの旅行を見合わせた方もあるに違いない◆「子供の時の喜びと悲しみとが、もう一度私を甘やかしてくれる」。墨の匂いに触れる愉(たの)しみを、世之助はそう語っている。匂いの呼びさます遠い記憶に旅をして、思い出に甘える夏もたまにはいいだろう。

8月5日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge