災害時特有の混乱・・・ 編集手帳 八葉蓮華
いつぞや立川談志さんの落語「鼠穴(ねずみあな)」を聴き、胸にとどめた一節がある。〈まさかそこまでは…という「まさか」の坂が越えられない〉。あと一歩の想像力を欠いたばかりに、主人公が苦難を背負うくだりである◆「まさか」の坂を越えられず、「よもや」の靄(もや)を抜けられず、思慮の不足を悔いの種に変えながら人は生きている。とはいえ世間には無理にでも坂を越え、あらん限りの思慮を動員しなくては成り立たない仕事もある◆豪雨で冠水した栃木県鹿沼市の市道で、女性(45)が乗用車に閉じこめられて水死した。目撃者が通報し、女性みずからも携帯電話で助けを求めたが、警察や消防はほかの災害現場と混同し、救助の出動を怠ったという◆災害時特有の混乱があったにせよ、「もしも被災者が別にいたら…まさか!」と想像力を働かせ、救助の手を尽くしていれば、坂の向こうには救えたかも知れない命があったはずである◆亡くなった女性は水没していく車内から母親(75)にも電話している。「助けて、水が、水が…」のあとは悲鳴だけが聞こえ、最後の言葉は「お母さん、さようなら」であったという。
8月27日付 編集手帳 読売新聞
八葉蓮華、Hachiyorenge