何の闘争か。何の主義主張か。・・・ 編集手帳 八葉蓮華
歌人の河野裕子さんに一首がある。〈しつかりと飯を食はせて陽(ひ)にあてしふとんにくるみて寝かす仕合(しあわ)せ〉。何をおいても子供がひもじくないように――国境も宗教の違いも超えた普遍の親ごころだろう◆その人は、子供たちが食べる物に困らないアフガニスタンの国づくりに志を立て、現地で農業を指導していた。戦禍と内紛に荒れた土地に「しつかりと飯を食はせ…」の種を蒔(ま)こうとした人である◆民間活動団体の職員、伊藤和也さん(31)が武装集団に拉致され、遺体で見つかった。親と子の笑顔ひとつを報酬に、身も心も地元民に捧(ささ)げてきた人の無念はいかばかりだろう◆アフガンを祖国のごとく愛してやまない人の命を奪い、アフガンの人々を悲しませ、何の闘争か。何の主義主張か。許しがたい蛮行に、文字をつづる指先の震えが止まらない◆「アフガンのために働いてきた息子をどうか返してください」。まだ安否が不明のころ、母の順子さん(55)が涙ながらに訴えた声が耳に残っている。わが子を手料理と柔らかな布団で迎える。奇跡の時が訪れるのを祈るように待っていただろう。ともに目をつむる。
8月28日付 編集手帳 読売新聞
八葉蓮華、Hachiyorenge