日本人メジャーリーガーの開拓者… 編集手帳 八葉蓮華
「怒りの葡萄(ぶどう)」などで知られる米国の作家ジョン・スタインベックは語ったという。「天才とは、蝶(ちょう)を追っていつのまにか山頂に登っている少年である」と。晴山陽一さんの著書「すごい言葉」(文春新書)に教えられた◆遥(はる)か眼下を見おろしてごらん。何とまあ、高い所までのぼったね。そう褒められても少年はぽかんとし、「ぼくは蝶を追ってきただけで…」と戸惑うのみだろう◆蝶を白球に変えれば、少年は野茂英雄投手(39)の姿に重なる。日本人メジャーリーガーの開拓者が切り開いた登山道があればこそ、イチロー選手や松井秀喜選手の今があるのだが、その人の口から自慢はおろか感慨めいた言葉さえ聞いたことがない◆新人王、123勝、2度の無安打無得点…大リーグに数々の偉大な足跡を刻み、野茂投手が引退を表明した。「悔いが残る」という。頂上からの眺望は眼中になし、少年の目は今も幻の蝶を追っているのだろう◆小池光さんの歌集「滴滴集」から。〈野茂の尻こちらむくときつき出せる量塊の偉(ゐ)は息のむまでぞ〉。見る者の胸に風を呼ぶ、あのトルネード(竜巻)はもう見られない。
7月19日付 編集手帳 読売新聞
八葉蓮華、Hachiyorenge