7.03.2008

「“酒縁”…」 編集手帳 八葉蓮華

作家、吉川英治の歌にある。〈盃(さかずき)よ わが手にふるる汝(なれ)もまた 宿世(すくせ)の縁(えにし)あさからめやも〉。ふと手にした盃ひとつにも、巡り合わせのえにしがある。ましてや人との縁が浅かろうはずがない◆随筆家の佐々木久子さんは“酒縁”を語りつづけた人である。30年にわたって日本酒の雑誌「酒」の編集長を務め、原稿料も払えぬ瀬戸際の経営を、酒一升の現物支給で筆をとってくれた作家たちに助けられたという◆火野葦平は病床でペンを握り、「命ある限り書く」と一筆したためてくれた。立原正秋は「燗酒(かんざけ)だよ」と一升瓶を抱いて風呂に入り、おどけたふりをして原稿を頼む心を軽くしてくれた◆燗をつける火鉢は家庭から消えてゆく。洋酒に合う欧風の酒肴(しゅこう)は増えてゆく。佐々木さんが編集長を務めたのは、日本酒の受難が始まったころである。作家たちの厚意は、逆風に奮迅する細腕への応援歌であったろう◆故郷広島で被爆し、後遺症に苦しんだ。つらい恋もした。酒の結んだ縁が人生の薬であったと、のちに語っている。佐々木さんが78歳で亡くなった。燗をつけるように温めた、酒縁の功徳に酔うごとく。

7月3日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge