7.15.2008

ひと筋の道を「恋ヒヨ」… 編集手帳 八葉蓮華

ひと筋の道を「恋ヒヨ」… 編集手帳 八葉蓮華
「恋ふ」の命令形は「恋ヒヨ」です。若い国語教師が動詞の活用を説明して例を挙げたとき、ひとりの女子学生が起立して質問した。「先生、恋ヒヨという命令は成り立つのでしょうか」◆恋をすることを誰も命令はできないはずだと。若い教師――のちの国語学者、大野晋さんは真摯(しんし)なまなざしに内心たじろぎ、言葉を吟味せずに惰性で講義をしていた自分を恥じたという◆後年、数々の著書が幅広い読者を得たのも、日本語の“ご意見番”として世に重きをなしたのも、文法には血が通っていなければならぬという教訓を終生、胸にかざしてきたからだろう。大野さんが88歳で亡くなった◆インドのタミル語と日本語の同源説を唱えたことでも知られる。発想の奇抜さゆえに一部で「学問公害」「疎論」などと論難を受け、出版社から干された時期もあった。一歩も引かず、百年後の友を求めて未踏の山坂をひとり歩いた信念の人である◆文法が苦手で、大野さんの著述に触れてもついに優秀な生徒にはなれなかったが、その人の生涯を貫いた命令形は胸に刻んでいる。ひたむきに、ひと筋の道を「恋ヒヨ」と。

7月15日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge