人の姿をした猛獣・・・ 編集手帳 八葉蓮華
けものが通る山中の小道を「けもの道」という。小さな動物は大きな動物の厄災を逃れ、自分のけもの道をつくる。街の歩道橋をたとえて「究極のけもの道」と呼んだのは、先日亡くなった演出家の吉田直哉さんである◆道路には車という猛獣がうようよしている。地上を逃れて「歩道橋を通るたびに、けもの道を通る小動物の悲哀を味わいます」と、「目から脳に抜ける話」(ちくま文庫)で語っている◆輪禍のニュースには慣れていたつもりだが、その猛獣の所業にははらわたの煮える感覚が消えない。大阪市内の交差点で車が男性会社員(30)をはね、引きずった。距離にして約3キロ、血痕が点々とつづいていたという◆男性は死亡し、車は逃走した。ビニール袋を車輪に巻き込んでも音でわかる。ましてや人である。「ひき逃げ」よりも「殺人」という言葉がしっくりくる◆被害者のいまわの際の苦痛はもちろんのこと、その苦痛に思いをめぐらす遺族の胸の内はいかばかりだろう。目を閉じても消えない像に、耳を押さえても聞こえる声に、眠れないはずである。人の姿をした猛獣は檻(おり)に収めねばならない。
10月22日付 編集手帳 読売新聞
八葉蓮華、Hachiyorenge