この俺しか見ていないんだから・・・ 編集手帳 八葉蓮華
美貌(びぼう)の名優、歌舞伎の十五代目市村羽(う)左衛(ざえ)門(もん)にこぼれ話がある。忠臣蔵で早野勘平を演じたとき、演技で悩む若い役者に優しく声をかけた◆「あまり気を使いなさんな。見物(観客)は勘平(自分)しか見ていないんだから…」。強烈な自負と、それを隠さない愛すべき人柄とを伝えている。麻生太郎首相は名優にあやかりたいと念じているのかも知れない◆女房役の党幹事長、官房長官に実務家肌の地味な顔ぶれを配した。閣僚名簿の発表も官房長官に任せず、自身でこなした。「見物が見るのは、この俺(おれ)だぜ」というところだろう◆存在感の薄い首相が二代続いただけに、指導力を訴える選挙向けの思惑にもせよ、「俺が俺が」流も悪くはない。颯爽(さっそう)たる二枚目になるか、芝居用語でいう「突っ転ばし」(突っついたら転びそうな、柔弱な色男)に終わるか、要は仕事次第である◆十五代目が演じた四谷怪談・民谷(たみや)伊右衛門(いえもん)のせりふにある。〈首が飛んでも動いて見せるわ〉。政見の実現にその執念、気迫を見せることなくドタバタ劇を繰り返せば、自民党は有権者から背を突かれるだろう。転ぶや、転ばざるや。
9月25日付 編集手帳 読売新聞
八葉蓮華、Hachiyorenge