6.25.2008

「どんなに賢くっても…」 編集手帳 八葉蓮華

表具職人の栄二は男前で頭が切れ、腕もいいが、やや言動に難がある。年配の与平が諭した。「どんなに賢くっても、にんげん自分の背中を見ることはできないんだからね」◆山本周五郎の小説「さぶ」の一節である。鏡を用いれば背中を見ることができる。世の経営者には、耳に痛い諫言(かんげん)を聞かせてくれる部下こそが鏡だろう◆経営が破綻(はたん)した英会話学校「NOVA」の猿橋(さはし)望(のぞむ)元社長(56)が“社員の財産”を横領した疑いで逮捕された。会社の資金繰りに窮し、社員が給料天引きの形で福利厚生用に積み立てた約3億円を無断で流用したという◆生徒勧誘の虚偽説明といい、茶室やサウナを備えた常識外れの社長室といい、周囲をイエスマンで固めたワンマン経営者に、背中を映す鏡はなかったらしい。目端の利く創業者で広告宣伝に異才を振るったとはいえ、「どんなに賢くっても…」である◆作家は12歳で質店に奉公した。山本周五郎という筆名は主人の名前を拝借したという。かけてもらった恩を終生、忘れないようにと。感謝の涙を流させる人、怒りの涙を流させる人、上に立つ経営者もいろいろである。

6月25日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge