蝋(ろう)を染みこませた原紙に鉄筆で文字を綴(つづ)るとき、「書く」とは言わず、ガリ版を「切る」という。経験のある方は一字一字「彫る」ような感触を覚えておられよう
原田康子さんの小説「挽歌(ばんか)」は、ガリ版刷りの同人雑誌「北海文学」(北海道釧路市)に掲載された。東京で本になり、1957年(昭和32年)1年間で70万部を売る。石原慎太郎氏の「太陽の季節」が年間27万部であったことを思えば、伝説的なベストセラーというほかはない
編集者が自宅に持ち帰った700枚ほどの原稿を、編集者の娘がむさぼるように読みふけり、父親よりも先に一晩で読了してしまった――という挿話も残る
手もとの新潮文庫版は奥付に「五十九刷」とある。北海道の霧の街を舞台に切ない恋をした主人公・怜子がいまも作品のなかに生き続けている証しだろう。原田さんが81歳で亡くなった
「切る」でなく、もはや「書く」でさえなく、文章はキーで「打つ」人が増えた。同人雑誌はときに“老人雑誌”と陰口をきかれるほど衰微が著しい。伝説や挿話がいまは、その人が過ぎゆく時代に奏でた挽歌のように思われる。
10月22日付 編集手帳 読売新聞
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