評論家の小林秀雄、中村光夫、作家の水上勉、3氏が講演旅行をしたときという。三重県松阪市の宿で迎えた朝、小林の姿が見えない。中村氏が近所を探し、公園のベンチに座って講演の練習をしているその人を見つけた
「昨夜は、聴衆の手応えがなかったので…」。そう語ったという。〈その日、その日が勝負だった。投げやりな一日とてなかった先輩たちの修羅である〉と、水上さんが著書『文壇放浪』(新潮文庫)で回想している
小林が晩年の大作『本居宣長』について国学院大学で講演した録音テープが見つかった。4月にCDの形で発売されるという
同書は小林の思索の到達点とされ、録音テープはその成立過程をたどる貴重な資料である――といった学問的な関心は薄い人も、“修羅”をくぐり抜けた話術がどういうものであったか、ちょっと心が動くに違いない
小林は『批評家失格』と題する一文に批評の気構えをつづっている。〈ドクは薄めねばならぬ。だが、私は、相手の眉間(みけん)を割る覚悟はいつも失うまい〉。思い入れの深い作品を語る声からは、きっと、その気魄(きはく)が聴き取れることだろう。
3月3日付 編集手帳 読売新聞
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