2.04.2010

半世紀を姿なき「伝説の人」崖から転がり落ちそうになったら・・・ 編集手帳 八葉蓮華

 例えば科学者とか弁護士とか、将来、何になりたいの? 妹に聞かれ、高校生ホールデンはある風景を語ってみせた。崖(がけ)っぷちにライ麦畑があり、何千人もの子供たちが遊んでいる]

 〈僕のやる仕事はね、誰でも崖から転がり落ちそうになったら、その子をつかまえることなんだ…〉。J・D・サリンジャー、野崎孝訳『ライ麦畑でつかまえて』(白水社刊)の一節である。「崖の下」は、大人の“いんちきな世界”を指すらしい

 自己を据える場所が見つけられないいらだちと、大人社会への反抗と、永遠の青春小説を残し、サリンジャー氏が91歳でシ去した

 米国ニューハンプシャー州の自宅にこもり、半世紀を姿なき「伝説の人」として生きた。越してきた当座は、地元の子供たちと親しく交際したという。ある少女が彼との会見記を特ダネとして新聞に載せたことに激怒し、敷地に高い塀を巡らせて世間との交渉を絶ったと伝えられる。信じていた子供たちまで崖の下に消え、ライ麦畑にひとり残された人の孤独がしのばれる

 みずからの後半生を原稿用紙にして小説のつらい続編を書いた、そんな気もする。

 1月30日付 編集手帳 読売新聞
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