7.31.2009

上方演芸資料館の移転構想、ムチャクチャでござりまする・・・ 編集手帳 八葉蓮華

 いまは亡き喜劇役者の藤山寛美さんが桂米朝さんとの対談で、大阪・花月劇場の愉快な思い出を語っている。夏の盛りに冷房が故障した。客はうだる暑さに閉口したが、「売店のアイスクリームが全部売れてしまうまで故障が直らなんだ…」と

 対談集「一芸一談」(桂米朝、淡交社)の一節にある。偶然か、さにあらずかはともかくも、劇場を運営する吉本興業は金銭を大事にする社風で知られる

 その企業イメージもわざわいしたか、大阪府立上方演芸資料館(ワッハ上方)の移転構想をめぐり、橋下徹知事から「がめつい」と噛(か)みつかれた

 資料館は現在、吉本興業の所有する建物に入居している。「恒久的な入居を前提とした特別仕様の施設であり、資料館を移転させるのならば相応の補償を」と、吉本側は府側に告げた。財政難に頭を悩ます知事には、これが欲得ずくと映ったらしい

 かつて花月劇場を沸かせた漫才の花菱(はなびし)アチャコさんは「ほんまにもう、ムチャクチャでござりまするがな」で一世を風靡(ふうび)した。いずれの言い分が「ムチャクチャでござりまする」か、互いに頭を冷やして語らう以外にない。

 7月31日付 編集手帳 読売新聞
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7.30.2009

古希を過ぎてから「高齢者は働くことしか才能がない」はずがない・・・ 編集手帳 八葉蓮華

 6歳の息子が二銭をせがんだ。友だちが皆、持っているのだろう、ヨーヨーが欲しいという。二銭あれば、キャベツが買える。「ヨーヨーなんてつまんねえぞう。じっきはやんなくなっちまあよ」と、母は諭した

 諭しつつ、心のなかでは泣いたのだろう。数十年の時が過ぎて、母は書く。これまで何ひとつ親にねだったことのない子が〈初めてねだったいじらしい希望であった〉と。吉野せいの随筆集「洟(はな)をたらした神」である

 一編一編が土のような、木の肌のような手触りで綴(つづ)られている。書棚の隅に埋もれさせていた一冊を久しぶりで手に取ったのは、麻生首相のおかげである

 せいは、福島県の山のなかで開墾と子育てに生きた。鍬(くわ)をペンに持ち替え、遠い過去から糸を紡ぐように人生の断片を書き留めたのは、古希を過ぎてからである。活字になったのは74歳のとき、大宅壮一ノンフィクション賞や田村俊子賞を受けたのは75歳のとき、そして2年後に世を去った。高齢者は働くことしか才能がない――はずがない

 今年が生誕110年にあたることを、再読の書をひらいて知った。失言にも功徳がある。

 7月30日付 編集手帳 読売新聞
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7.29.2009

“カッコ悪い”名前「ダサイ族」と呼ぶ運動、浸透と効果のほどは・・・ 編集手帳 八葉蓮華

 パトリシア・コーンウェルの推理小説「検屍官(けんしかん)」(講談社)に、「がん作り棒」という言葉が出てくる。登場人物がたばこをそう呼んでいた。その名称が広がれば愛煙家もちょっと一服しにくかろう

 「借金」を「キャッシング」と呼べば借り手の警戒心は薄れ、「売春」を「援助交際」と偽れば未成熟な心に落とし穴を掘る。路上の違法駐車も「青空駐車」と聞けば快晴の空が目に浮かび、呼び名とは不思議である

 その不思議な力で若者に暴走族離れを促すという。沖縄県警宜野湾署が暴走族を「ダサイ族」と呼ぶ運動を始めた

 “カッコ悪い”名前を募り、「ゴキブリ族」「よわむし族」など応募685案から選んだという。つい先日は地元住民による「ダサイ族を許さない市民総決起大会」も催された。浸透と効果のほどは、さてどうだろう

 かつての英国の二大政党、ホイッグ党(スコットランドの裏切り者、の意味)とトーリー党(アイルランドの追いはぎ、の意味)のように、相手から浴びせられた罵言(ばげん)をそのまま平気で自分の党名にした例もある。ダサイ族の面の皮が政治家ほど厚くないことを願う。

 7月29日付 編集手帳 読売新聞
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7.28.2009

宮里藍選手が米ツアーで初優勝、次なる飛躍の扉をひらく日を楽しみに・・・ 編集手帳 八葉蓮華

 あらかじめ祝い、祝った通りの現実が訪れるように祈ることを「予(よ)祝(しゅく)」という。いわば、お祝いの予言である。今年3月の「読売歌壇」で、予祝の一首を読んだ。〈鍵穴とまがふ臍(ほぞ)みせ胆力のありかを示す宮里藍は 成田市 神郡一成〉

 女子ゴルフの宮里藍選手(24)がときに見せる“へそ出し”ルックを詠んでいる。おへそを鍵穴に見立てたところが歌の眼目で、「成程(なるほど)。精神一到何事かならざらん、の鍵穴だ」と、選者の歌人、小池光さんの評にある

 歌から4か月、宮里選手が米女子プロゴルフツアーで初優勝を飾った。米ツアーで日本人女子選手の快挙は福嶋晃子選手以来10年ぶり、24歳は日本人最年少である

 年来の夢に指先が触れた最後のパットでは、パターを握る手が激しく震えたという。この日はおへそこそ見せなかったが、〈胆力のありか〉を示す一打は予祝の歌そのままであったろう

 精神の鍵穴が次なる飛躍の扉をひらく日を楽しみにしている。…と言っても、見せてほしいわけではなくて、若い女性のおへそにもうろたえてしまう胆力のないオジサンとしては、シャツの下で差し支えない。

 7月28日付 編集手帳 読売新聞
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7.27.2009

戦後64年「無名の元兵士たちの声」戦争賛美か反戦か戦争とは何か・・・ 編集手帳 八葉蓮華

 戦後64年を前に、これまで沈黙を守って来た旧日本軍の元兵士らが、自らの戦争体験を語り始めている。同時代の出来事として、あの戦争を語れる人の多くも今や80歳代以上と高齢だ

 長尾栄治監督が撮影したドキュメンタリー映画「語らずにシねるか! 無名の元兵士たちの声」(45分)は、地味だが貴重な証言集だ。老いた元兵士らの淡々とした語り口からは、あの時代の空気が伝わって来る

 2歳上の兄に続いて志願した元少年兵は「アジアの平和のために戦わねばと真剣に考えていた」と追想する。別の元兵士は「当時は戦うのは国の名誉のためであり、兵隊に行けないことは恥ずかしいことだった」と証言する

 特攻隊員など3人の兄を戦争で亡くした女性は「(兄たちは)国のためになっていると、私も何か誇らしい気持ちだった」と語り、「いまは本当にむなしい」と涙ぐむ

 証言からは、戦争賛美か反戦かでは割り切れない複雑な心境がうかがえる。戦争とは何かを考えるのによい材料である。映画の上映と元兵士の証言は、8月11~13日、東京・中野駅南口の「なかのZERO本館」で行われる。

 7月27日付 編集手帳 読売新聞
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7.26.2009

長生き「平均寿命」心おきなく老後を過ごせる世の中かどうか・・・ 編集手帳 八葉蓮華

 〈ヘルパーさんが台所仕事やって下さる私はひるねいいのでしょうか〉。福岡県の藤井千代子さんが詠んだ一首。小紙が募集し、7人の選者によって先日編まれた「平成万葉集」に収められている

 介護保険サービスの情景であろう。高齢者の家へ赴いたヘルパーが家事支援をしている。その傍らでは、お年寄りご本人が昼寝をしている。高齢者福祉も多くは公費、確かにそれでいいのでしょうかね

 と、何気なく読めばそんな感想を持ってしまうのだが、現代の万葉集は作者の年齢も重要な要素だ。藤井さんの名前の下には「96」とあった。まだまだその歳(とし)には見えない方だとしても、白寿を目前にした人が家事支援を受けて恐縮する必要はあるまい

 日本人の平均寿命は男性79・29歳、女性86・05歳と、ともに過去最高を更新した。今や100歳以上の高齢者は4万人近く、90歳以上は100万人を超える

 問題は心おきなく老後を過ごせる世の中かどうか。社会保障の財源を、政治はしっかりと手当てしなければならない。藤井さんの歌に「長生きしてもいいのでしょうか」と問いかけられているようで切ない。

 7月26日付 編集手帳 読売新聞
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7.25.2009

歌舞伎座 建て替え「さよなら公演」伝統芸の来し方を顧みる・・・ 編集手帳 八葉蓮華

 歌舞伎の六代目尾上菊五郎が「祭囃子(ばやし)」というラジオ放送劇に出演したことがある。火打ち石を使う場面があり、六代目に代わって効果音係が自分で石を打ち、事前に録音しておいた

 本番の前、録音テープを聴いた六代目が「おれの役は左利きか…」と言う。いまの音は左手で打っている音だ、と。効果音係が頭をかきながら、「私は左利きです」と名乗り出たという。放送に立ち会った劇作家の宇野信夫が随筆に書き留めている

 舞踊にひいで、「腰に神が宿る」と評された人は耳の良さも尋常でなかったらしい。惜しまれつつ世を去ったのは1949年(昭和24年)7月、没後満60年を迎えた

 歌舞伎座は建て替えが決まり、来年4月まで続く「さよなら公演」に連日のにぎわいを見せている。忌日の節目といい、ふと立ち止まっては伝統芸の来し方を顧みる芝居好きも多かろう

 亡くなる数日前、身動きもならぬ名優を憐(あわ)れみ、周囲の人々が思わず泣き出した。押し殺した声が卓越した耳に届いたか、六代目はつぶやいたという。「まだ早い」。命の瀬戸際で語った名ぜりふ――と、これも宇野の文章にある。

 7月25日付 編集手帳 読売新聞
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7.24.2009

「巧言令色」一票めあてのばらまき政策が言葉たくみにちりばめられ・・・ 編集手帳 八葉蓮華

 ことば遊びの名作は数あれども、この季節にふさわしいのは、〈素麺(そうめん)冷食涼しいかな縁〉だろう。論語の一節、〈巧言令色鮮(すくな)いかな仁〉をもじり、縁側で食べるよく冷えた素麺はおいしいね、と

 二十四節気の「大暑」も過ぎ、列島はこれから酷暑に包まれる。いつもならば素麺冷食の恋しさもひとしおだが、今年は衆院選がすぐ先に控えている。もじりの原典、巧言令色(口がうまく、愛想のいいこと)のほうが気になるという人も多かろう

 一票めあてのばらまき政策が言葉たくみにちりばめられていないか、各政党のマニフェスト(政権公約)にしっかり目を凝らさねばならない

 その場限りの巧言令色に有権者が失望させられるのは昔からのようで、劇作家の高田保は59年前の随筆集「ブラリひょうたん」(創元社刊)のなかで、入れ墨コンクールの開催を唱えた。各候補者は公約を入れ墨に彫り、裸になって披露し合え、と

 入れ墨は見たくもないが、心組みはそうあるべきだろう。どこぞの政党から漏れ聞こえてくるところの、党とは別個の候補者限定マニフェストなどは姑息(こそく)の極み、沙汰(さた)の限りである。

 7月24日付 編集手帳 読売新聞
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7.23.2009

太陽と月「ダイヤモンドリング」つかの間の指輪・・・ 編集手帳 八葉蓮華

 婚約指輪を交換する習わしはヨーロッパの中世貴族にはじまる。浮気心を起こさぬ証しに、互いの心臓を縛り合った。心臓の実物は縛れないので、“出先機関”の指を縛ったという

 西洋史学者、木村尚三郎さんの「色めがね西洋草紙」(ダイヤモンド社)からの受け売りだが、その方面で社交的な人のなかには、心臓の縛り合いと聞いてギョッとした方もおられよう

 皆既日食の「ダイヤモンドリング」をテレビで見た。思えば、人に生きる力を与える陽光は酸素と栄養分を運ぶ動脈に、疲労と悲しみを癒やす月光は老廃物と二酸化炭素を流し去る静脈に似ている。太陽と月は天の高みをつかの間の指輪で飾り、人間にどんな約束を告げたのだろう

 前回46年前に観測されたとき、宇宙飛行士の毛利衛さんは北海道・余市の高校1年生だった。当日は体育祭で、学校を休むことを先生は許してくれない。さぼって網走に行き、日食を見た。のちに眠りの夢に、何度も真珠色のコロナが現れたという

 ぼくは天文学者になる、わたしは宇宙飛行士になる…。きのう、約束の指輪を夏空と交わした少年少女もいただろう。

 7月23日付 編集手帳 読売新聞
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7.22.2009

「選挙は水もの」有権者の心を射止める弓矢となる政権公約づくり・・・ 編集手帳 八葉蓮華

 新約聖書のマタイ伝に、〈汝(なんじ)の敵を愛せよ〉とある。カトリック信者の麻生首相には先刻承知の教えだろうが、読み間違いの名人は〈汝の敵に愛されよ〉と誤読したのかも知れない

 わが手で衆院を解散したい麻生さんを、「その調子。反麻生勢力に負けるな。踏ん張れ」と励ましたのは野党の民主党である。都議選に惨敗したあなたが好き、衆望のないあなたが好き――と、これほど「敵」に愛されて総選挙に臨む首相はいない

 自民党内をまとめきれず、解散の間際まで醜い泥仕合を演じるわ、有権者の心を射止める弓矢となる政権公約(マニフェスト)づくりは遅々として進まないわ、「敵」に愛されるにもほどがある

 鴨(かも)が葱(ねぎ)を背負(しょ)ってくるどころか、鍋やコンロまで背負った鴨が祝い酒を一升ぶらさげて、「さあ、召し上がれ」と現れた。民主党の目にはそう映るだろう

 巷(ちまた)では「がけっぷち解散」「やけくそ解散」等々の呼び名がささやかれている。選挙は水ものであり、ごちそうのカモさんが鍋のなかでひと暴れ、ふた暴れしないとも限らないが、小欄ではとりあえず「カモネギ解散」と名づけておく。

 7月22日付 編集手帳 読売新聞
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7.20.2009

170種を超えた「ボスコ」素材に対する深い愛情・・・ 編集手帳 八葉蓮華

 板になったものなら判別はつくが、立ち木の区別は難しい。木工家の故・早川謙之輔さんが、そんな趣旨のことを書いていた(「木に学ぶ」新潮新書)

 話は続く。餅は餅屋に限るようで、当時の営林署員が早川さんにぼやいたという。「板になったものは分からない」。家具制作を中心に活動を続ける宮本茂紀さん(71)は、素材としての木に眼力を持つ“木工派”だろう

 「ボスコ」と名付けられた椅子(いす)のシリーズがある。約40年前から制作を始めた一連の作品は同一のデザインだが、材料の木の種類が異なる。イチョウなど聞き覚えのあるものから耳にしたこともないような外国産の樹木まで、170種を超えた

 色が違う。柾目(まさめ)と板目で表情が変わる。引き出された木の個性を通して、素材に対する宮本さんの深い愛情が見える。香りを知るためには、おがくずを口に含むのだそうだ

 ボスコとはイタリア語で森のことだが、最近入手した米国産のメタセコイアも、まもなくこの「森」の仲間に加わるという。緑陰が恋しい季節、外に持ち出した椅子に座り、本でも開いてみよう。そんな気にさせる森である。

 7月20日付 編集手帳 読売新聞
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7.19.2009

防衛白書「高校生にも読めるように」活字離れに悩んでみる価値・・・ 編集手帳 八葉蓮華

 活字離れの悩みは役所も一緒らしい。より多くの人に読んでもらおうと、40前後ある政府の白書の担当者が試行錯誤を続けている

 今年の防衛白書は表紙に、著名な書道家、武田双雲氏の筆による題字「日本の防衛」を掲げた。例年は自衛隊の活動写真だったが、「マンネリ化している」という浜田防衛相の指摘で刷新した

 本文も、「高校生にも読めるように」を心がけ、「趨勢(すうせい)」「真摯(しんし)に」といったお役所用語を極力排している。分かりやすさ優先か正確さか、文章表現をめぐる内閣法制局との論争があるとも聞く。5年前からは、より若い層向けに漫画版も出版している

 防衛白書は、厚生労働白書や環境白書とともに人気が高い。それでも、インターネットの普及も影響し、一般向け売り上げは2004年の2万4900部をピークに、今は下降傾向にある

 防衛白書がよく売れたのは、不幸にして軍事情勢が緊張した時だという。今年は、北朝鮮の核実験や弾道ミサイル発射が続いたが、より多くの人が日本の安全保障の「動向」を「真剣に」考える機会になるならば、活字離れに悩んでみる価値はあろう。

 7月19日付 編集手帳 読売新聞
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7.18.2009

逃げおおせた犯人「時効」被害者の思い出に終わりはない・・・ 編集手帳 八葉蓮華

 詩歌の読み方は人によってさまざまだろう。「五行歌秀歌集」(市井社)で出合った一首がある。〈思い出に/コロされながら/生きてゆく/君といた日は/輝くナイフだ 桜井匠馬〉

 若い人には失恋の歌かも知れない。情熱の季節を通り過ぎた身には、子をナくした親の叫びを聴いている心地がする。犯罪被害者の遺族とは、思い出にコロされながら生きる人たちだろう

 犯人は、時効まで何年、あと何年…と「引き算」で生きる。遺族は、あの子がいれば今年は小学生、もう中学生…と、「足し算」で生きる。ゴールのある引き算と違い、足し算に終わりはない。遺族にとって時効は、逃げおおせた犯人に贈る理不尽な“ご褒美”と映ろう

 法務省の勉強会が、サツ人など重い罪の時効を廃止する方針を最終報告にまとめた。事件から日がたつほど物証や目撃証言は集めにくく、時効廃止が冤罪(えんざい)につながるのを懸念する声もあり、議論はまだ扉の入り口である

 肉親をコロされ、思い出にもコロされて生きる人が、時効の成立でもう一度コロされるのは見るに忍びない。扉の入り口から奥へ、現実へ、橋をわたす知恵が要る。

 7月18日付 編集手帳 読売新聞
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7.17.2009

腐っても解散、あすの日本を照らしもすれば曇らせもする一票・・・ 編集手帳 八葉蓮華

 時の風雪に磨かれた慣用句というのは、どれも味わい深く、あれこれ改変して遊ぶこともできる。時節柄、「解散」の一語を用いて遊んでみる

 麻生降ろしの風が吹き荒れる前に解散権という「伝家の宝刀」を抜きたかった首相には、〈転ばぬ先の解散〉(=杖(つえ))だろう。鳩山由紀夫代表の“故人献金”問題に幕を引きたい民主党には〈臭い物に解散〉(=蓋(ふた))の歓迎ムードも見えなくはない

 東京都議選で惨敗した自民党では多くの議員が〈泣き面に解散〉(=蜂)を嘆き、民主党の思うつぼ、〈飛んで火にいる解散〉(=夏の虫)になってしまうと焦りを募らせる

 首相に批判的なグループは〈敗軍の将、解散を語らず〉(=兵)が筋ではないか、〈あとは野となれ解散〉(=山となれ)は断じて容認できないと言う。派閥の領袖をはじめとする首相擁護派は〈和をもって解散〉(=貴しとなす)を――と党内の一致結束を訴えているが、さて、どんな具合に落ち着くだろう

 衆望も求心力も散々な首相が抜き放つ宝刀ではあれ、〈腐っても解散〉(=鯛(たい))、あすの日本を照らしもすれば曇らせもする一票になる。

 7月17日付 編集手帳 読売新聞
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7.16.2009

生き延びた者の、発言する「責任」言葉のもつ力に、粛然と襟を正さずにはいられない・・・ 編集手帳 八葉蓮華

 美空ひばりさんに、「一本の鉛筆」(松山善三作詞、佐藤勝作曲)という35年前の歌がある。〈一本の鉛筆があれば/八月六日の 朝と書く/一本の鉛筆があれば/人間のいのちと 私は書く…〉

 広島・長崎の被爆からまもなく64年、“一本の鉛筆”を手に取った人がいる。世界で活躍するデザイナーの三宅一生さん(71)が米紙に寄稿し、自身の被爆体験を明かしたうえで、オバマ大統領に広島訪問を呼びかけた

 7歳のときに広島で被爆した三宅さんはこれまで、体験談や感慨めいたものは語らずにきた。「原爆を生き延びたデザイナー」といったレッテルを張られるのが嫌で、広島についての質問は避けてきたという

 核廃絶に言及したオバマ氏の演説が「私の中に埋もれていた何かを呼び覚ました」と、書いている。何か――とは生き延びた者の、発言する「責任」であると。ひとつの演説が胸を揺さぶり、“一本の鉛筆”に封印が解かれる。言葉のもつ力に、粛然と襟を正さずにはいられない

 三宅さんのお母さんは放射線を浴びて亡くなった。〈一枚のザラ紙があれば/あなたをかえしてと 私は書く…〉

 7月16日付 編集手帳 読売新聞
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7.15.2009

時代の酒「マリッジ」原酒と原酒がなごみ、まろやかな味をつくる・・・ 編集手帳 八葉蓮華

 佐佐木幸綱さんに酒の歌がある。〈水で割るな薄めてはいかんウイスキーが時代の酒でありし日のこと〉。戦後の高度成長期か。グラスを手に明日また完全燃焼するべく、琥珀(こはく)色のガソリンをあおる企業戦士の横顔が浮かぶ

 いまはビールや発泡酒の花盛りだが、「時代の酒」とは呼びにくい。人いきれにむせ返るほど混沌(こんとん)とした活気にこそ似つかわしく、少子高齢化の世に「時代の酒」はないのかも知れない

 キリンとサントリーの経営統合交渉も、国内市場が少子高齢化で縮小し、海外市場で存在感を高める狙いと聞く。「時代の酒なき時代」ならではだろう

 どちらも「超」のつく優良企業である。うまくいっているときに変身を図るのが経営であるといわれる。苦し紛れの統合・合併を金融界などでさんざん見てきたあとだけに、ちょっと心の浮き立つ組み合わせではある

 別々に蒸留・熟成した2種類の原酒を混合し、樽(たる)に寝かせる工程をウイスキー造りでは「マリッジ」(結婚)と呼ぶ。原酒と原酒がなごみ、相手の個性をコロすことなく、まろやかな味をつくるという。縁談の成りゆきを見守るとしよう。

 7月15日付 編集手帳 読売新聞
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7.14.2009

衆院解散・総選挙「自分が解散して」美質かどうかは知らない・・・ 編集手帳 八葉蓮華

 サッカーの元Jリーガー呂比須(ろぺす)ワグナー選手は語っている。〈一番うれしい試合は、自分がゴールを決めて勝った試合。2番目にうれしい試合は、自分がゴールを決めて負けた試合〉であると

 サッカーの名言を集めた「蹴球神髄」(出版芸術社)の一節だが、正直といえば正直、個人技に身を削る競技者には、自分本位もときに美質だろう。政治家にも美質かどうかは知らない

 〈一番うれしい選挙は、自分が解散して勝つ選挙。2番目にうれしい選挙は、自分が解散して負ける選挙〉…というわけでもあるまいが、麻生首相がきのう、衆院解散・総選挙(8月30日投票)の日程を決断した

 3代続きの政権投げ出しはご法度とはいえ、都議選で惨敗した翌日である。「うれしい選挙」の1番目と2番目の間に、〈ほかの誰かが解散して勝つ選挙〉という選択肢も考慮し、てっきり何日間か悩むものと思いきや、これが悩まない。空恐ろしいくらい、いい度胸をしている

 党のために一身をなげうつ政治家ならば過去にもいた。一身のために党をなげうった政治家はいない。ともあれ、キックオフの秒読みが始まる。

 7月14日付 編集手帳 読売新聞
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7.13.2009

宝刀の切れ味、首相擁護派、反麻生派、時間はかからない・・・ 編集手帳 八葉蓮華

 先日の本紙「よみうり時事川柳」に、〈宝刀の切れ味トギの出来次第〉とあった。麻生首相が柄(つか)に手をかけた解散権の宝刀も、切れ味は「研ぎ」ならぬ「都議」次第だね――と、お見事である

 衆院選を受験に例えれば、試験官(有権者)に合否の判定を仰ぐべきは景気や外交の各科目に取り組んできた麻生さんであり、ここで首相を交代させれば“替え玉受験”になる。宝刀は麻生さんが抜くべし、という首相擁護派の言い分には一理ある

 受験ではなく野球に例えれば、足のふらつく先発エースが引き続きマウンドに立つのは“捨てゲーム”の意思表示であり、競技(選挙)を冒涜(ぼうとく)する。九回の裏まで勝機を求め、宝刀は救援投手にゆだねるべし、という反麻生派の言い分にも一理ある

 世の人々も一理と一理のあいだで迷っているのだろう。本紙の世論調査では、自民党は選挙に「麻生首相で臨むほうがよい」が39%、「別の人に代わるほうがよい」が44%と割れている

 注目の東京都議選も終わった。「抜けば玉散る氷の刃(やいば)」か、「抜けば錆(さび)散る赤(あか)鰯(いわし)」か、宝刀の切れ味が知れるまで、そう時間はかからない。

 7月13日付 編集手帳 読売新聞
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7.12.2009

「人間ドック」人間も定期的に赤サビや青コケをかき落とすことが必要・・・ 編集手帳 八葉蓮華

 「人間ドック」の呼び名を広めたのは読売新聞らしい。1954年(昭和29年)9月の紙面で「短期間入院特別健康精査」という厳(いか)めしい名前の取り組みを取材した記者が、「人間がドック入りするということだ」と紹介した

 この記事に関係者は言い得て妙と膝(ひざ)を打ち、日本中に定着した――と人間ドックの生みの親の一人、大渡順二氏が自伝に記している。まだそう呼ばれる前の人間ドックが都内に開設されたのが55年前のきょう、7月12日だった

 かねて政局をにらみつつ全身の健康チェックを頼みに来る政治家がいて、それも開設の背景にあったという。振り返れば、自由民主党の誕生へとつながる政界再編前夜である

 当初から1年待ちの大盛況だったそうだ。永田町から、政局の神経戦に疲れた先生方の申し込みが相当あったと推察する。解散・総選挙が目前に迫った今は、さて…

 人間も定期的に赤サビや青コケをかき落とすことが必要だ、と半世紀前の本紙記事は書いていた。人間を政治あるいは日本と言い換えてもいいだろう。きょうの都議選は、政治ドック、日本ドックの重要な予備検査になる。

 7月12日付 編集手帳 読売新聞
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7.11.2009

ゴミ箱に押し込み「はかない運命」ゆりかごにゆれているように・・・ 編集手帳 八葉蓮華

 小椋佳さんが作詞し、作曲した「ほんの二つでシんでゆく」という歌がある。ご自身の経験ではないが、事故で早世した2歳の男の子に捧(ささ)げた曲という

 〈雨がふる 僕はしずくをかき集め/ほんの二つでシんで行く/あなたの小舟を浮かべたい…〉。36年前の同名のアルバムに収められている。せつない歌詞を久しぶりに口ずさんでみた

 2歳の男の子、菅野優衣(ゆい)ちゃんが都内の自宅でシボウしたのは昨年12月である。きのう、両親が逮捕された。ゴミ箱に押し込み、自力で脱出できないようにふたをして、窒息シさせた疑いがもたれている

 〈ゆりかごのうたを かなりやがうたうよ…〉。カナダの小児病院で皇后さまが難病の子供たちに歌われた子守歌に、テレビの前で聴き入ったばかりである。おさな子が大好きな場所は、どこだろう。ゆりかごもそう、抱かれた母の胸もそう、肩車をしてくれる父の肩の上もそうだろう。ゴミ箱のなかではない

 雨のしずくを集めた湖の上で、おさな子の小舟は揺れる。小椋さんの歌は、次のように結ばれている。〈はかない運命(さだめ)にシぬ時も/ゆりかごにゆれているように〉

 7月11日付 編集手帳 読売新聞
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7.10.2009

車内に明滅した携帯電話「光り、舞う、蛍」JR福知山線脱線事故・・・ 編集手帳 八葉蓮華

 森鴎外「うたかたの記」は、少女とのはかない恋を描いている。少女は湖でシぬ。遺体が引きあげられたとき、芦辺(あしべ)から蛍が現れた。〈あはれ、こは少女が魂(たま)のぬけ出(い)でたるにはあらずや〉

 亡き人の霊のように、光り、舞う。蛍の季節になると思い出す光景がある。4年前の4月、JR福知山線で乗客106人がシボウした脱線事故の記事である

 救助隊員が車内に入ったとき、折り重なる遺体のそばには携帯電話が散乱していた。暗がりのあちこちで光り、呼び出し音が鳴る。切れても、すぐにまた光る。ニュースで事故を知った家族が一刻も早く無事な声を聞きたくて、祈るように電話をかけつづけていたのだろう

 当時、安全対策の責任者だったJR西日本の社長が一昨日、業務上過失致シ傷罪で在宅起訴された。社長は法廷で争う意向という。いかなる裁きになるとしても、安全の徹底が何よりの供養であることに変わりはない

 「あっちの水は苦いぞ、こっちの水は甘いぞ」とは国文学者の中西進さんによれば、あの世からこの世へ魂を呼び寄せる歌だという。車内に明滅した携帯電話の蛍が眼裏(まなうら)に浮かぶ。

 7月10日付 編集手帳 読売新聞
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7.09.2009

「私を総裁候補にするなら…」人気をねだって、心をなくしてはいけない・・・ 編集手帳 八葉蓮華

 芸人は食うものを食わなくても、着るものには金をかけろよ。無名時代のビートたけしさんにコメディアンの師匠、深見千三郎さんはそう教えたという

 〈腹減ってんのは見えねぇけど、どんな服着てるかってのはすぐにわかるぜ〉と。たけしさんの自伝エッセーにある。人気商売に欠かせない、見栄(みえ)を張ることの大切さを説いたのだろう

 世間を明るく照らす人気商売ということでは、政治家も喜劇人に似ている。ビンボウが外見に透けて、拍手(票)はもらえまい。「私を総裁候補にするなら…」とコケにされても、自民党は東国原英夫・宮崎県知事の衆院選出馬に執心している。見栄もなりふりも捨てた姿には、「そこまで、お困りか」と哀れを誘うものがある

 知事の特異な発信力は認めるにせよ、マイクの性能だけ高めても自民党の歌唱力が上達しなければ、聴き手の耳には大音量が逆に迷惑だろう。日本郵政問題や閣僚補充人事で露呈した“世論音痴”をマイクでごまかすのは誠実なやり方とは言えない

 金品をねだることを「無心」という。心を無(な)くす、と書く。人気をねだって、心をなくしてはいけない。

 7月9日付 編集手帳 読売新聞
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7.08.2009

少数民族の不満、力ずくの鎮圧で「声」を封じられる・・・ 編集手帳 八葉蓮華

 中国共産党に君臨した毛沢東が専用列車で国内を旅したとき、沿線の党支部は遠方の水田から見ばえのいい稲穂を大量に抜き取り、線路に沿って植え替えた

 最高権力者に褒めてもらいたい一心から出た豊作の偽装工作であったと、毛主席の元主治医、李志綏(りしすい)氏が「毛沢東の私生活」(文芸春秋刊)に書いている

 1年前の北京五輪開会式には、民族衣装を着た「中国の56民族からの56人の子供たち」が登場し、団結を世界に誇示した。じつは偽りで、大半が漢族の子供だったことが後に露見している。だます相手が独裁者から国際社会に、偽装の小道具が稲穂から子供に変わっただけである

 新疆ウイグル自治区で起きたウイグル族による暴動の報を聞く。しぼう者は150人以上という。厳しく抑圧されてきた少数民族の不満が事件の根にあるといわれ、力ずくの鎮圧で「声」を封じられる雲行きにはない。また、封じてはならないだろう

 今年10月の建国60年を機に、共産党政権は「歴史的功績」を自賛する予定という。経済がいかに成長しようとも、人間の尊厳が1本の稲穂ほどに軽い国で、何を誇るのだろう。

 7月8日付 編集手帳 読売新聞
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7.07.2009

人の心と心を隔てる川に「木の橋」流れやすい橋があったなら・・・ 編集手帳 八葉蓮華

 鉄筋コンクリートの橋は丈夫だが、木の橋には木の橋で、いいところがあるらしい。文芸春秋の元編集者で随筆家の故・車谷弘さんが「銀座の柳」(中公文庫)に書いている

 子供のころから何度も洪水を経験した車谷さんによれば、木の橋の良さはすぐ流されることだという。頑丈な橋は木材などの流出物をせきとめてしまい、いずれは怒濤(どとう)となってあふれ出る。木の橋は被害を小さくとどめる昔の人の知恵であった、と

 工学音痴の身に車谷説の当否を語る資格はないが、人の心に架かる橋ならばその通りだろう。奈良県桜井市の駅ホームで起きた事件はやりきれない

 男子高校生が同級生の男子生徒に刺されてシ亡した。昨年秋に仲たがいしたという。理由が何にせよ、頑丈な橋でせきとめ、溜(た)め、怒濤を爆発させなくては晴らせないほどの恨み、憎しみが高校生同士の交友にあろうとは思えない。加害者生徒の心に、流れやすい橋があったなら

 きょうは七夕、織姫と彦星(ひこぼし)を隔てる天の川よりも、橋を架けるのがむずかしい川が地上にはある。人の心と心を隔てる川に「木の橋」を――胸の短冊に書いてみる。

 7月7日付 編集手帳 読売新聞
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7.06.2009

米ソ首脳会談「核のない世界」核軍縮で成果をあげられるのか・・・ 編集手帳 八葉蓮華

 「レイキャビクで、核のない世界を目指す私の希望は、しばし舞い上がったのち地に落ちた」――米国のレーガン元大統領は、決裂に終わった1986年10月のゴルバチョフ・ソ連共産党書記長との米ソ首脳会談をこう回想している

 核軍備競争に邁進(まいしん)した冷戦時代の両超大国の指導者が、核戦力の大幅削減という劇的合意を目前にしながら、握手もなしに別れたのは、宇宙空間で核ミサイルを破壊する米国の戦略防衛構想(SDI)が原因だった

 それから23年。同じく「核のない世界」を究極の目標に掲げるオバマ米大統領がきょう、モスクワ入りし、ロシアのメドベージェフ大統領との首脳会談に臨む

 レーガン時代の交渉を基礎に、米露両国は、戦略核弾頭の数を、冷戦期の60%程度まで減らした。それをさらにどこまで削減できるのか。今回、ロシアは米国のミサイル防衛(MD)の東欧配備に強く反発している

 オバマ大統領は、「核兵器を使用したことがある唯一の核保有国として米国には行動する道義的責任がある」と宣言した。その言葉通り、核軍縮で成果をあげられるのか。大いに注目したい。

 7月6日付 編集手帳 読売新聞
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7.05.2009

「仕事」デートの約束がある時に残業を命じられたらどうするか・・・ 編集手帳 八葉蓮華

 〈仕事を幸福の原因の一つに数えるべきか、それとも、不幸の原因の一つに数えるべきか〉。バートランド・ラッセルの幸福論第14章「仕事」の書き出しだ

 日本生産性本部が今年入社の会社員約3000人に「デートの約束がある時に残業を命じられたらどうするか」と質問した。結果は、仕事を選んだ人が83%、デートを選んだ人が17%だったという

 ほう、そうですか――と聞き流すこともできるが、同じ問いを1972年(昭和47年)から続けていると聞けば興味がわく。今年の数字は、仕事を選んだ人が過去最高、デートは過去最低らしい。ちなみに同年の調査では、仕事69%、デート30%だった

 定年間近にさしかかった72年当時の新入社員の皆さんは、今年の新人諸君をどう見るだろう。頼もしいと感じるかもしれないし、あるいは、この不況では会社に従順にならざるを得まい、と同情するのかもしれない。調査から何を読み取るかは難しい

 デートより優先するかどうかはさておき、できれば仕事は楽しくやりたい。ラッセルはそうするための要素の一つを「建設的であることだ」と言っている。

 7月5日付 編集手帳 読売新聞
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7.04.2009

水晶の玉「新銀行東京」「築地移転」「五輪開催」など都政の争点・・・ 編集手帳 八葉蓮華

 易者の前で子供たちがふざけて騒ぎ、商売の邪魔をする。「お前たちは、どこの子だ」。易者が怒ると、子供が「当ててみな」

 当たるも八卦(はっけ)、当たらぬも八卦をからかった小(こ)咄(ばなし)だが、国政選挙直前の東京都議選という「占い」に限っては高い的中率で知られている。衆院選の行方を占う都議選がきのう告示された

 自民党が下野して細川内閣が発足した16年前の衆院選でも、小泉人気で自民党が大勝した8年前の参院選でも、直前の都議選は凄腕(すごうで)の易者を演じている。「新銀行東京」「築地移転」「五輪開催」など都政の争点はあるものの、都民の一票は今回も水晶の玉になるのだろう

 占いといえば、先日の読売歌壇に花占いの歌があった。〈たんぽぽの花びらちぎり幼子が「好き大好き」とひとりつぶやく 仙台市 小野寺健二〉。「好き」と「嫌い」ではなく、「好き」と「大好き」が素敵(すてき)である

 解散時期はなお不透明だが、麻生首相は不手際と判断ミスを重ね、民主党の鳩山由紀夫代表も不可解な“故人献金”の傷をもつ身である。どちらがマシか、〈嫌い、大嫌い、嫌い、大嫌い…〉の花占いはつらい。

 7月4日付 編集手帳 読売新聞
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7.03.2009

「大丈夫デスカ」ワカラナイ イマ一番ニ私ガ知リタイ・・・ 編集手帳 八葉蓮華

 歌人の島田修二さんは晩年、車にはねられる災難に遭った。事故のことを詠んだ連作がある。〈大丈夫デスカトイフ声 ワカラナイ イマ一番ニ私ガ知リタイ〉

 円熟した詩心の手にかかればこういう事柄も歌に昇華するのだと、読み返すたびに深く感じ入る一首である。ご難つづき、事故つづきの麻生首相を見るにつけ、その歌を思い出している

 自民党内の猛反発を受け、党役員人事を断念した。人事ひとつままならぬ人に解散の決断は「大丈夫デスカ」と問うても首相自身、「ワカラナイ 俺ガ知リタイ」と答えるだろう

 渡る気があれば電光石火で渡る。なければ、おくびにも出さない。それが「人事」という道の渡り方であり、道路の真ん中でぐずぐずしていれば危ないに決まっている。横断禁止の赤信号を無理に渡って日本郵政の社長を続投させたときは、支持率急落の事故に遭った。交通安全の悪いお手本のような人である

 連作の一首。〈モウイイ修二 モウイイ島田 起キナクテイイ 天ヲミテ居レ〉。党内からの「モウイイ太郎 モウイイ麻生…」の声は、日を追って音量を増すばかりである。

 7月3日付 編集手帳 読売新聞
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7.02.2009

永田町には寛政ならぬ「感性の改革」金銭に対する感度の鈍さ・・・ 編集手帳 八葉蓮華

 老中松平定信は「寛政の改革」で文武に精を出すよう促し、これまでに学んだ師匠の名前を書き出せ、と旗本衆に命じた。遊び暮らす連中は困ったらしい

 弓は誰、馬は誰、学問は誰と、故人の名前ばかりを挙げ、「只今(ただいま)は皆、死去つかまつり候」と書く者が続出したと森銑三「古人往来」(中公文庫)にある

 「うそも大概にせよ、貴殿のことなど存じ申さぬ」とあの世から苦情が届くわけでもなし、書類のでっち上げに故人の名前が借用されるのは、今も昔もあまり変わらないようである

 鳩山由紀夫・民主党代表の資金管理団体が故人などを「寄付者」と偽り、政治資金収支報告書に記載していた。架空の献金は約90人分、4年間で総額2177万円にのぼる。違法献金事件で辞任した小沢一郎前代表のあとを受けて「党の顔」になった人に、この不祥事は情けない

 責任逃れの魔法の言葉「秘書が」にも懲り懲りだが、たかだか千万円単位の“はした金”にまで目が届かなくて――とでも言いたげな反省の弁の軽さ、金銭に対する感度の鈍さについていけない。永田町には寛政ならぬ「感性の改革」が要る。

 7月2日付 編集手帳 読売新聞
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7.01.2009

四股名「右肩上り」勝ち名乗りを一つあげるたび、番付も景気も

 昭和の20~30年代にかけて「ヒゲの伊之助」として親しまれた大相撲の立行司、第19代式守伊之助には、勝ち名乗りをあげようとして力士の名前を忘れ、「お前さァん」と呼んだ逸話が残っている

 さすがの伊之助さんでも、この四股名(しこな)は忘れないだろう。今月12日に初日を迎える名古屋場所の三段目西3枚目、吉野改め〈右肩上り〉(21歳、大嶽部屋)、「みぎかたあがり」と読む

 棒グラフや折れ線グラフが右に向かって伸びていく様子から、景気や業績を語って「右肩上がりの成長」などと用いられる。報知新聞の記事によれば、番付も景気も右肩上がりに、との願いをこめて師匠の大嶽親方(元関脇・貴闘力)が考えたという

 明治の昔にも珍名さんがいて、〈新刑法源七=三段目〉〈自動車早太郎=序二段〉のように、時代、世相を映した四股名が伝わっている。〈右肩上り〉も未曽有の経済危機に襲われなければ生まれなかった名前だろう

 勝ち名乗りを一つあげるたび、世の中の照度計が目盛り一つぶん明るさを増す――と信じれば、言葉に霊魂が宿る「言霊の幸(さき)わう国」に似合いの四股名ではある。

 7月1日付 編集手帳 読売新聞
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