短編小説を書く作業をたとえて、「空気を搾り、一滴の水をしたたらす」と評したのは司馬遼太郎さんである。それほどのエネルギーが要る、と。作家の心組みを語って見事である
同じ形容も、作家ではなく国家の仕事にあてはめると、いくらか趣が異なる。空気を搾って水をしたたらせるような政策には誰しも、「水が欲しければもっと効率のいい方法があるでしょうに…」と首をひねるだろう
あと3か月ほどで「裁判員制度」が始まる。刑事裁判に市民の常識を反映させるという。反映させたければ、研修や内省を通して裁判官がみずからの心に井戸を掘り、常識という水を汲(く)み上げれば済むことで、日本全土の空気を搾るまでもあるまい
視力に自信がなくて患者の症状を見逃すのが心配なお医者さんはメガネをかけるだろう。目のいいご町内のみなさまに医療知識のイロハを教え、守秘義務の順守を誓わせ、交代で診察を手伝わせるようなことはしない。裁判員制度では、それをする
選ばれたときには、微力ながらも誠実に務める心づもりはできている。「水の作り方」に納得したかどうかは別である。
2月13日付 編集手帳 読売新聞
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