7.31.2008

日米通算3000本安打… 編集手帳 八葉蓮華

日米通算3000本安打… 編集手帳 八葉蓮華
10年ほど前だったか、第一生命保険が募ったサラリーマン川柳の優秀作を覚えている。〈打てぬ日もあるイチローを好きになり〉。「ああ、彼も人の子だった」という共感の一句だろう◆身を顧みても、その人を引き合いに独り言をつぶやくのは、彼が無安打に終わった日に限られるようである。あの天才だって稀(まれ)に打てない日があるじゃないか。凡才のおれが仕事でしくじって何の不思議があろうかと◆よくて成功率3割、10回に7回は失敗するのが打者であるとは、多くの人が語るところである。失敗が普通の競技で打って当たり前、打たなければ騒がれるという選手はそうそういない◆米大リーグ、マリナーズのイチロー選手(34)が日米通算3000本安打を記録した。「今季、まだ試合に出るのだから、僕は(3000本を)通り過ぎる」。試合後、そう語ったという◆日に2本も3本も安打を放っては野球少年が仰ぎ見る天上の星として輝き、ごく稀に“打てぬ日”をつくっては万年スランプのサラリーマンを慰めるべく地上に降り立つ。天と地を何往復かするうちに、また新しい記録が見えてくるだろう。

7月31日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

7.30.2008

五つの安心プラン… 編集手帳 八葉蓮華

五つの安心プラン… 編集手帳 八葉蓮華
かつてフランスに女神のごとく君臨した名女優、サラ・ベルナールに伝説がある。会食の席でのこと、彼女は料理のメニューを読み上げただけで、同座の人々を泣かせたという。芸の力だろう◆政府がときに緊急対策の名のもとにまとめる政策のメニューも、サラの神業には及ばずとも、聴く人の心にしみ入るように読み聞かせねばなるまい。きのう、「五つの安心プラン」を聴いた◆医療、高齢者対策など社会保障5分野の緊急政策メニューである。医師不足の解消策として救急や産科、へき地で過酷な医療現場を支える医師に手当を直接支給するなど、新機軸の料理もないではないが、疑問は残る◆「食材は調達できますか?」――財源の裏付けが心もとない。「厨(ちゅう)房(ぼう)は清潔ですか?」――消えた年金記録など社会保険庁のでたらめぶりを次から次に見せられて、厨房(厚生労働省)に抱く不信感は抜きがたい◆辞書によれば宰相の「宰」の字は、「刃物で肉を切って料理する」意味だという。福田シェフが財政構造と官僚体質に包丁を振るうまでは、メニューを聴いただけでうれし泣きする人はいないだろう。

7月30日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

7.29.2008

水悩月… 編集手帳 八葉蓮華

水悩月… 編集手帳 八葉蓮華
夕立には「白雨(はくう)」という美しい異称がある。涼しげな名は白い雨脚から付けられたという。〈木から木へこどものはしる白雨かな 飴山実(あめやまみのる)〉。急な雨に遊びを中断して走る子供たちの、はしゃぐ声が聞こえてきそうである◆蝉(せみ)の合唱がやむ。青空がかき曇り、水煙を立てて雨が降り注ぐ。それもつかの間で、ほどなく嘘(うそ)のように晴れ上がり、蝉がまた鳴き出す…。夏の雨といえば、涼を呼ぶありがたいもの、恋しいものであったはずである◆はしゃぐどころか、川べりからわずかに難を避ける時間の余裕も子供たちにはなかったらしい。きのう午後、大雨で増水した神戸市内の川で子供を含む4人が濁流にのまれて死亡した◆未明から北陸地方を襲った豪雨では一時、富山県内で30か所の集落が孤立し、金沢市では約5万人に避難の指示が出されている。夏の雨らしい昔の雨は、どこに行ってしまったのだろう◆旧暦ではまだ6月下旬、「みなづき」がつづく。一説には「水悩月(みずなやみづき)」の略ともいう。「白雨」の美称にはだまされまい。朝となく、夕となく、「水悩」の二文字を胸に、不意の雨にはくれぐれも用心を。

7月29日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

7.28.2008

エラーを犯さないこと… 編集手帳 八葉蓮華

エラーを犯さないこと… 編集手帳 八葉蓮華
「エラーを連発するチームが優勝することはありえないが、エラーを犯さないことを至上目標とするチームが優勝することも難しい」──。プロ野球の話ではない。政府の防衛省改革会議がまとめた報告書の一節だ◆汚職や艦船衝突、情報流出など、不祥事を防止する「守り」だけでは十分でない。より積極的に本来業務に取り組む「攻め」が重要だ。そんな趣旨だろう◆残念ながら今の防衛省には、その積極性が欠けている。スーダンでの国連平和維持活動(PKO)参加問題が一例だ。日本大使館が普通に活動できるほど平穏な首都への司令部要員派遣の決断に4か月以上も費やした。幹部が「アフリカ派遣の意義を説明するのが難しい」と躊躇(ちゅうちょ)したためだ◆在日米軍再編問題でも、主管官庁なのに、ほとんど存在感を示していない。米軍普天間飛行場の移設は、停滞し続けている◆石破防衛相は省改革ばかりでなく、もっと本来の仕事に目を向けてほしい。大規模な組織改革は省の歴史に残る。政治家には魅力的な仕事だろう。だが、政権末期を迎えた同盟国の首脳が“遺産”作りに励むのを真似(まね)ることはない。

7月28日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

7.27.2008

日本を代表する10大発明… 編集手帳 八葉蓮華

日本を代表する10大発明… 編集手帳 八葉蓮華
日本を代表する発明や発見、というと何が思い浮かぶだろうか。特許庁のロビーに「10大発明家」のレリーフが飾られている。紹介しよう◆豊田佐吉(木製人力織機)、御木本幸吉(養殖真珠)、高峰譲吉(アドレナリン)、鈴木梅太郎(ビタミンB1)、杉本京太(邦文タイプライター)、本多光太郎(KS鋼)、八木秀次(八木アンテナ)、丹羽保次郎(写真電送方式)、三島徳七(MK磁石鋼)。これで9人◆もう一人は池田菊苗。功績はグルタミン酸ナトリウム、というよりも「旨味(うまみ)調味料」と呼ぶ方がいいだろう。その製造法の特許を得たのが、ちょうど100年前、1908年7月末のことだった。今や「AJINOMOTO」は世界中で通用する◆いずれも産業の草創期に貢献した。無論、その後に見るべき発明や発見がなかったわけではなく、改めて10大発明を選べば、違う業績と顔ぶれも考えられよう◆先日、大阪の研究所が新たな蛋白質(たんぱくしつ)を見いだし、日本発のアニメにちなんで、ピカチュリンと名付けたという。頼もしいことだ。100年後の日本人が思い浮かべる10大発明は、さて何だろう。

7月27日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

7.26.2008

金平糖の親父… 編集手帳 八葉蓮華

金平糖の親父… 編集手帳 八葉蓮華
何十年か昔の人たちも、〈うちの親父(おやじ)は金平糖(こんぺいとう)の親父、甘い中からツノが出る〉と歌い囃(はや)されていたのだから、家庭内で父親の威令が行き届かないのは今に始まったことでもあるまい◆数えてみた人によれば万葉集に、父母ではなく父親単独で詠まれた歌はたった1首という。歌には詠んでもらえず、ツノを出してもなめられる。表彰台に立たせてもらえなくても、いまさら驚きはしない◆あなたが金メダルを贈りたい人は誰ですか? 住友生命保険が計4000人の男女に尋ねたところ、「親」が42%で1位を占めた。以下は「配偶者」「子供」「有名人・スポーツ選手」「自分自身」…とつづいている◆「親」と答えた人の79%が母親を挙げたという。会社の上司を連れてきて、「毎日、こういう人に泣かされているんだぞ、お父さんは」と判定に異議を申し立てるわけにもいきませんからね、ご同輩◆子のすこやかな笑顔があれば勲章は要らない。世の父親の多くは、そう思っているだろう。「メダルはともかくも王冠ならば、晩酌で2個や3個は楽に稼ぎますがね…」。ひとりつぶやき、瓶ビールの栓を抜く。

7月26日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

7.25.2008

東北の夏… 編集手帳 八葉蓮華

東北の夏… 編集手帳 八葉蓮華
「眠い」を「ねぶたい」ともいう。ねぶた祭りの「ねぶた」も元は睡魔を指したらしい。それを追い払うのは神の災禍を受けぬ用心であったと、国文学者の池田弥三郎さんが「日本故事物語」に書いていた◆神の来臨するお盆の夜に眠ってはいけないと古人は信じ、〈ねぶた流れよ 豆(まめ=健康)の葉よ とまれ〉と歌いつつ、家内の息災を祈ったという◆午前0時26分といえば夢路の途中で叩(たた)き起こされ、狼狽(ろうばい)した方も多かったろう。きのう、最大震度6強の地震が東北地方を襲い、負傷者は岩手や青森などの8道県で計100人を超えた◆ひと月ほど前に、岩手・宮城内陸地震に見舞われたばかりである。青森のねぶた祭りなど「東北の夏」の書き入れ時を目前に控えて、観光に携わる人たちも不安を募らせているに違いない◆ねぶた流しの歌には、〈まなこの性(しょう)に善いように〉という文句もあった。睡魔に負けず、目が働きますようにと祈った言葉だろう。地を揺るがす者は夜も来臨する。眠らぬわけにはいかないが、グラリときたその時は間髪入れずに起動せよ。おのが「まなこ」に言い聞かせてみる。

7月25日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

7.24.2008

お前は何と云う下等な奴だ… 編集手帳 八葉蓮華

お前は何と云う下等な奴だ… 編集手帳 八葉蓮華
暗闇のなかで声が問う。お前がこの世でなした行為の責任は? 「僕」が答えて言う。〈四分の一は僕の遺伝、四分の一は僕の境遇、四分の一は僕の偶然、――僕の責任は四分の一だけだ〉◆その返答に、暗闇の声は告げた。〈お前は何と云(い)う下等な奴(やつ)だ!〉と。きょうが命日の作家、芥川竜之介の遺稿「闇(あん)中(ちゅう)問答」にある。全集をひもといて味わいたい言葉はほかに幾らもあるのだが、時節柄で仕方がない◆先月、17人が死傷した東京・秋葉原の通り魔事件では犯人の男の「境遇」、過酷な派遣労働の実態などが掘り下げて報じられた。事件の背景をなす根がいかに深かろうとも、しかし、境遇によって「僕の責任」が数分の一に軽減されるわけではない◆一昨日の夜、今度は東京・八王子の書店で会社員の男(33)がアルバイト店員の女子大生(22)を包丁で襲い、殺した。「仕事がうまくいかず、ムシャクシャしてやった。誰でもよかった」。男はそう供述しているという◆いかに恵まれぬ、いかに悩み多き境遇も、何の罪も落ち度もない人の命を奪う行為の言い訳にはならない。「僕の責任」は四分の四である。

7月24日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

7.23.2008

読書のにぎやかな話題が続く… 編集手帳 八葉蓮華

読書のにぎやかな話題が続く… 編集手帳 八葉蓮華
作家の子母沢寛(しもざわかん)は若いころの一時期、「朝の気商会」という会社に勤めていた。風変わりな社名は「人間、いつも朝起きたときのような気分でいよう」という社長のモットーから付けられたという◆作家の回想によれば、ありもしない鉄材を売り歩き、現物が見たいと言われたら他社の鉄材置き場に案内する。でたらめな会社であったらしいが、モットーだけは褒めてもいいだろう◆ここ何日か、小一時間ほど早起きをして本をひらいている。ページはそう進まないが、時間を少し得したような、一日のめりはりがつくような心地よさは「朝の気」の功徳かも知れない◆先日は中国人の楊逸(ヤンイー)さんが書いた「時が滲(にじ)む朝」が芥川賞に輝き、きょうは世界のベストセラー「ハリー・ポッター」シリーズの完結編が発売されるなど、読書のにぎやかな話題が続く。朝ひらく一冊を探すのも愉(たの)しい◆夏の読書で思い出す詩がある。〈風にページをめくらせ/海をみている/本よむ人…〉。長谷川四郎「本よむ人の歌」の一節である。海は望めなくとも窓からの風にページをめくらせ、「朝の気」を肺に満たすのもいいだろう。

7月23日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

7.22.2008

炎暑の季節がはじまる… 編集手帳 八葉蓮華

炎暑の季節がはじまる… 編集手帳 八葉蓮華
詩人の杉山平一さんに、「風鈴」という作品がある。〈かすかな風に/風鈴が鳴つてゐる/目をつむると/神様 あなたが/汗した人のために/氷の浮かんだコップの/匙(さじ)をうごかしてをられるのが/きこえます〉◆仕事のあとの一杯がいつも赤提灯(あかちょうちん)では芸がない。たまには神様が匙を動かす一杯にあずかろう。…と思い立ち、川崎大師(川崎市)の風鈴市を訪ねて小ぶりの江戸切り子をひとつ買った◆窓を閉め切って冷房を効かせていては鳴ってくれない。テレビなどをつけていては聞こえにくい。その音色は働いて流す汗のみならず、省エネで流す汗のご褒美でもあろうかと、自宅の窓辺に風鈴をつるしながら思う◆きょうは二十四節気のひとつ「大暑」、炎暑の季節がはじまる。世をあげて原油高にあえぐ夏である。毎日とはいかずとも、昔に返って風鈴と団扇(うちわ)で過ごす一日をつくるのもいいだろう◆原稿の締め切り時間に尻を炙(あぶ)られての冷や汗やら、進まない筆に呻吟(しんぎん)しての脂汗やらを流している身も、さて、「汗した人」のうちに入れてもらえるのかどうか。匙を手にした神様に尋ねてみないと分からない。

7月22日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

7.21.2008

もう世襲で地位を継ぐ時代ではない… 編集手帳 八葉蓮華

もう世襲で地位を継ぐ時代ではない… 編集手帳 八葉蓮華
明治維新期に暗殺された思想家の横井小楠(しょうなん)は、万延元年(1860年)に著した『国是三論』で、ワシントン以来のアメリカ政治の優れた一面として、大統領選挙の仕組みを紹介している。「大統領の権柄(けんぺい)、賢に譲りて子に伝えず」◆天下のための政治をするには、もう世襲で地位を継ぐ時代ではない。賢人を広く天下に求めよ。激動する幕末の世に向けて、覚醒(かくせい)を促す警鐘だった。以来、4年に1度の大統領選には日本も大いに注目してきたが、今年は関心の高さが際立っている◆米世論調査機関ピュー・リサーチ・センターが先月発表した24か国調査で、大統領選の行方を注視していると答えた人は、日本が83%で第1位。米国の80%を上回った。第3位は56%のドイツ、英国でも50%だ◆北朝鮮問題やイラク情勢、イラン核開発、基軸通貨ドルの揺らぎ、景気減速など、日本にとっての深刻な心配事がそれだけ多いということの反映なのだろうか◆万延元年の選挙では共和党のリンカーン候補が勝利した。民主党のオバマ氏であれ、共和党のマケイン氏であれ、真の賢人でなければ世界中が困る今の局面である。

7月21日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

7.20.2008

北京奥林匹克運動会… 編集手帳 八葉蓮華

北京奥林匹克運動会… 編集手帳 八葉蓮華
オリンピックを中国では「五輪」ではなく「奥林匹克」と書く…と小欄で紹介したところ、どう発音するのか、との問い合わせを頂戴(ちょうだい)した。奥林匹克運動会は「アオリンピークーユントンホィ」、略して奥運会は「アオユンホィ」。片仮名で表すのは難しい。やや不正確な点は御容赦を◆「聖火」の表記も日中で違う?との質問も頂いた。これは中国も「聖火(ションフオ)」。そのリレーは「聖火接力(チエリー)」。トーチリレーの意味で「火炬(フオチュイ)接力」ともいう◆北京五輪の聖火リレーでは、警備上の理由で何度もトーチの火が消される場面があり、驚かされた。種火があるから聖火が途絶えるわけではないけれど、あれでは聖火接力ではなく、単に火炬接力と呼ぶ方がいいのかもしれない◆聖火は中国国内でも厳重警備の中を進んでいる。先日はサッカー会場となる遼寧省の瀋陽でリレーされたが、ここでも沿道は一般住民の立ち入りが禁止され、事前に選ばれた2万人の応援要員が並んだ。さすがに住民から不満の声が噴出した、と特派員電は伝えている◆厳戒態勢にますます拍車がかかる中で、火炬接力はラストスパートに入った。

7月20日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

7.19.2008

日本人メジャーリーガーの開拓者… 編集手帳 八葉蓮華

日本人メジャーリーガーの開拓者… 編集手帳 八葉蓮華
「怒りの葡萄(ぶどう)」などで知られる米国の作家ジョン・スタインベックは語ったという。「天才とは、蝶(ちょう)を追っていつのまにか山頂に登っている少年である」と。晴山陽一さんの著書「すごい言葉」(文春新書)に教えられた◆遥(はる)か眼下を見おろしてごらん。何とまあ、高い所までのぼったね。そう褒められても少年はぽかんとし、「ぼくは蝶を追ってきただけで…」と戸惑うのみだろう◆蝶を白球に変えれば、少年は野茂英雄投手(39)の姿に重なる。日本人メジャーリーガーの開拓者が切り開いた登山道があればこそ、イチロー選手や松井秀喜選手の今があるのだが、その人の口から自慢はおろか感慨めいた言葉さえ聞いたことがない◆新人王、123勝、2度の無安打無得点…大リーグに数々の偉大な足跡を刻み、野茂投手が引退を表明した。「悔いが残る」という。頂上からの眺望は眼中になし、少年の目は今も幻の蝶を追っているのだろう◆小池光さんの歌集「滴滴集」から。〈野茂の尻こちらむくときつき出せる量塊の偉(ゐ)は息のむまでぞ〉。見る者の胸に風を呼ぶ、あのトルネード(竜巻)はもう見られない。

7月19日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

7.18.2008

防災情報の信頼… 編集手帳 八葉蓮華

防災情報の信頼… 編集手帳 八葉蓮華
周の幽王が寵愛(ちょうあい)した妃(きさき)、褒(ほう)ジは笑わぬ人だった。あの手この手で笑わそうとしても、にこりともしない。と、外敵の侵入を知らせる狼煙(のろし)が間違って上がり、諸侯が大あわてで駆けつけるのを見て、妃は大いに笑った◆王は喜び、たびたび狼煙で妃の機嫌を取り結んだが、諸侯はしだいに警報を信じなくなる。ある日、本当に敵が襲来したとき、狼煙を上げても「兵、至る者なし」、王の命運は尽きたと司馬遷の「史記」は伝えている◆幽王のようにわざと偽りの狼煙を上げているわけではないが、人々が「どうせまた間違いだろうよ」と、いざという時に反応しなくなるのが怖い。気象庁で防災情報のミスが続いている◆緊急地震速報の誤報で都営地下鉄などが止まったほか、大雨・洪水、竜巻、潮位…と、2か月で計5件は幽王並みとは言わないまでも、やはり多すぎだろう。記者会見で長官が陳謝した。業務を緊急に点検するという◆天変地異の被害よ、大きかれ、と念じる邪(よこしま)な鬼神がいるならば、防災情報の信頼がひとつ揺らぐたびに、不気味な笑みを浮かべていよう。褒ジをこれ以上、喜ばせてはいけない。

7月18日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

7.17.2008

「親ばか」も度を越せば… 編集手帳 八葉蓮華

「親ばか」も度を越せば… 編集手帳 八葉蓮華
向田邦子さんは生前、語ったという。「『バカ』が放送禁止用語になったらテレビドラマをやめます」。たしかに日常会話でよく使われる言葉である◆柴又の昔なじみに「おい、相変わらずバカか」と呼びかける“寅さん”の名人芸は別として、一般には使い方がむずかしい。週刊誌に「バカ市長」と書かれた市長が発行元の出版社を名誉棄損で訴えた裁判で、市長側の勝訴が確定したという◆これを他山の石に「バカ」はなるべく用いまい…とは思えども、大分県の教員採用をめぐる底なしの無軌道ぶりなどを見ていると、その誓いも少々揺らぐ◆県の教育委員会は不正に合格した教員の採用を取り消すという。賄賂(わいろ)でわが子に教員の資格を買い与えた親は結局のところ、子供の人生を狂わせ、辱めただけである。「親ばか」も度を越せば、親の一字を消さねばなるまい◆三省堂の新明解国語辞典で「ばか」を引く。「ばかばか=女性が、相手を甘えた態度で非難して言う言葉」。言いたくもない「バカ」はつい口をついて出るわ、聞いてもいい「ばかばか」は聞いたこともないわ、ままにならない言葉ではある。

7月17日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

7.16.2008

漁業の崩壊を防ぐ手だて… 編集手帳 八葉蓮華

漁業の崩壊を防ぐ手だて… 編集手帳 八葉蓮華
詩人の川崎洋さんは九州に旅した折、居酒屋で青年と隣り合わせた。焼いたカレイを食べている。骨の標本にして飾れるくらいの見事な箸(はし)遣いに感心し、「カレイ」という詩を書いた◆〈きみ きれいに食べるね/と声を掛ければ/カレ こちらも見ずに/はいネコが月謝払って/魚の食べ方ば習いにきよります〉。詩文集「交わす言の葉」(沖積舎)に収められている◆ネコと机を並べて上手な食べ方を習わねば、罰が当たりそうなご時世である。燃料費の高騰に悲鳴を上げて、20万隻の漁船がきのう、全国一斉に休漁した◆漁師の3割が廃業の危機にあるという。税金のばらまきにならない形で、財政支援の知恵を絞る。価格転嫁によって消費者が少しずつでも漁師の負担を引き受けられるよう、流通の仕組みを改める。漁業の崩壊を防ぐ手だてを国は急がねばならない◆漁港の町を旅するとき、満腹して寝そべり、あるいはそぞろ歩く悠揚迫らぬネコたちを眺めるのを愉(たの)しみにしている。彼らも気が気でないだろう。窮状を訴えて振り上げるこぶしにネコの手も貸したい…と、ヒゲの憂い顔で言い交わしつつ。

7月16日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

7.15.2008

ひと筋の道を「恋ヒヨ」… 編集手帳 八葉蓮華

ひと筋の道を「恋ヒヨ」… 編集手帳 八葉蓮華
「恋ふ」の命令形は「恋ヒヨ」です。若い国語教師が動詞の活用を説明して例を挙げたとき、ひとりの女子学生が起立して質問した。「先生、恋ヒヨという命令は成り立つのでしょうか」◆恋をすることを誰も命令はできないはずだと。若い教師――のちの国語学者、大野晋さんは真摯(しんし)なまなざしに内心たじろぎ、言葉を吟味せずに惰性で講義をしていた自分を恥じたという◆後年、数々の著書が幅広い読者を得たのも、日本語の“ご意見番”として世に重きをなしたのも、文法には血が通っていなければならぬという教訓を終生、胸にかざしてきたからだろう。大野さんが88歳で亡くなった◆インドのタミル語と日本語の同源説を唱えたことでも知られる。発想の奇抜さゆえに一部で「学問公害」「疎論」などと論難を受け、出版社から干された時期もあった。一歩も引かず、百年後の友を求めて未踏の山坂をひとり歩いた信念の人である◆文法が苦手で、大野さんの著述に触れてもついに優秀な生徒にはなれなかったが、その人の生涯を貫いた命令形は胸に刻んでいる。ひたむきに、ひと筋の道を「恋ヒヨ」と。

7月15日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

7.13.2008

「絶妙のネーミング…」 編集手帳 八葉蓮華

オリンピックを「五輪」と表記しようと考えたのは、戦前のベルリン大会当時、読売新聞の運動部記者だった川本信正さんである。後にスポーツ評論家として活躍した川本さんが東京五輪に際して、いきさつを小紙に語っている◆ベルリン大会が盛り上がり、「オリムピック」という言葉が紙面の随所に登場するが、新聞の記事や見出しには長い。何か略語はないかと悩んだ末に思い浮かんだのが宮本武蔵の「五輪の書」◆五つの輪はシンボルマークそのものだし、ゴリンとオリンピックは語感も似ている、というわけで紙面で使い始めた。当初は「5厘と聞こえて安っぽい」などと言われたそうだが、ほどなく日本中に定着◆絶妙のネーミングだけに、中国でも五輪と表記すると思っている人が意外に多いのではないか。残念ながらそうではなく、「奥林匹克運動会」略して「奥運会」と記す。何やら奥まった所、近づき難い所で開催されるような◆名前のせいではないけれど、旅行社によれば、オリンピックがあるのに今夏の中国旅行の予約がなかなか伸びないとか。北京奥運会いや北京五輪まで1か月を切った。

7月13日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

7.12.2008

「人につくせることは何と幸せか…」 編集手帳 八葉蓮華

関西で生まれ育ったその人は阪神ファンであったらしい。首位阪神が逆転勝ちを収めた日の日記にある。「4ゲーム開いたのでちょっと安心。私の病気も今日の阪神の試合のようにはいかないものか」◆阪神の元気がいい夏を迎えるたび、書棚に手が伸びる一冊がある。映画にもなった「愛と死をみつめて」のミコ、大島みち子さんが病床で綴(つづ)った「若きいのちの日記」(大和書房)である◆同志社大学に入学した年の夏、顔に発症した軟骨肉腫(にくしゅ)で入院した。難しい手術を繰り返し、命の消(しょう)尽(じん)をときに絶望の、ときに淡い希望を交えた目で見つめながらも、日記は周囲の人々に寄せた感謝の言葉で満ちている◆同室の患者に食事の世話をし、代わって洗濯をし、「人につくせることは何と幸せか」と書く。不幸や不運の鬱憤(うっぷん)をかかわりのない他人を傷つけることで晴らす者が後を絶たない昨今、読み返すたびに心が洗われる◆日記に歌がある。〈枕(まくら)辺(べ)を強く流れるツイストに/病む青春の静かさを知る〉。病魔を相手の逆転がかなわぬまま、21歳で死去したのは1963年(昭和38年)の8月、まもなく45年になる。

7月12日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

7.11.2008

「正直者のみが行列に立つ…」 編集手帳 八葉蓮華

戦時中の戯(ざ)れ歌がある。〈世のなかは 星に錨(いかり)に闇に顔 ばか者のみが行列に立つ〉。星は陸軍、錨は海軍、闇は闇取引の闇、顔は「顔が利く」の顔である◆軍部の威光には縁がなく、闇で買う金もなく、頼るコネもない。ごらん、ないない尽くしのばか者どもが配給の行列に並んでいるよ、と。ばか者とはつまり、「正直者」のことらしい◆星と錨は過去になったが、闇と顔は戦後も生きながらえて、ふとした拍子に醜い姿をさらけ出す。「いい点を取れば受かると思っているの? ばかだねえ」。金にもコネにも頼らず、情熱ひとつを胸に教員採用の門を叩(たた)いた若者たちを、彼らはひそかに嗤(わら)っていたのかも知れない◆校長や教頭が賄賂(わいろ)を使って自分の子供たちを合格させるのみか、県会議員の口利きに応じる「議員枠」まであったという。大分県の教員採用をめぐる汚職事件は日を追うごとに汚染域を広げ、とどまるところを知らない◆闇のなかで札束を数えたのが誰々で、顔の力で採点を操作したのが誰々か、捜査の光は照らすだろう。受かるところを落とされ、行列のばか者扱いされては泣くに泣けない。

7月11日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

7.10.2008

「お暑い盛り…」 編集手帳 八葉蓮華

「四万六千日、お暑い盛りでございます…」。落語「船徳」を口演する八代目桂文楽さんの声音を懐かしく思い出す方もおられよう。きょうは観音様の縁日「四万六千日」、この日にお参りすると4万6000日分の功徳があるとされる◆旧暦の7月10日は新暦に直せば8月の半ば、炎暑のなかのお参りであったろう。いまは東京近辺の人ならば、浅草寺の「ほおずき市」をそぞろ歩いて夏本番の青空を待つ。梅雨どきの風物詩になっている◆4万6000日といえば100年を超える歳月である。その数字にふと遠い未来の地球を想像し、「お暑い盛り」という言葉が浮かんでくるのも時節柄だろう。北海道洞爺湖サミット(主要国首脳会議)が幕を閉じた◆温室効果ガスの排出量を2050年までに半減させる。その目標を世界全体で共有する。サミットの合意はほおずきの実のような小さな炎ではあれ、地球100年、1000年の計を担う炎でもある◆俳人、楠本憲吉さんに一句があった。〈誰を誘いて行かん四万六千日〉。地球を「お暑い盛り」にしないための長い旅がはじまる。もろもろの国を誘いて。

7月10日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

7.09.2008

「金品に神経麻痺した教育者…」 編集手帳 八葉蓮華

中国の官吏登用試験、科挙では「糊名謄録(こめいとうろく)の法」と呼ばれる不正防止策が取られた。受験者の名前が見えないように糊(のり)で封をし、さらに答案全部を筆写して謄本のみを採点委員に回す◆賄賂(わいろ)をもらった委員も、受験者の名前と筆跡を隠されては下駄(げた)の履かせようがない。それでも東洋史家の宮崎市定(いちさだ)さんによれば、何行目の何字目に何という字を書くと示し合わす者もいたというから、悪知恵は尽きないようである◆大分県の教育委員会にも同様の法が要るらしい。校長や教頭が自分の子供たちを教員採用試験に合格させるべく県教委の幹部に現金を渡したり、管理職の任用試験で商品券が物を言ったり、まあ、めちゃくちゃである◆金品に神経の麻痺(まひ)した教育者たちは、もしも児童生徒の父母から「うちの子の成績を何とぞよろしく」と現金を差し出されたら、何と答えるのだろう。よもや、「おぬしもワルよのう」とは言うまいが…◆「糊名謄録の法」にも抜け穴があったように、出直しの鍵は人に尽きる。立場ある人々が、よれよれ、くたくたの良心にパリッと糊を利かせてこそだろう。まずは“糊心”である。

7月9日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

7.08.2008

「星の夜の深き哀れ…」 編集手帳 八葉蓮華

詩歌の古典に詠まれた月は数えきれないが、星はそう幾つもない。星空に美と哀(かな)しみを見た女性歌人に源平争乱期の人、建(けん)礼門院(れいもんいん)右(うき)京(ょう)大夫(のだいぶ)がいる。〈月をこそながめ馴(な)れしか星の夜の深き哀れを今宵(こよい)知りぬる〉◆「月は眺めなれているけれども」という感慨は、都会に暮らす現代人のつぶやきに聞こえなくもない。都市の至る所が不夜城に変わり、仰ごうにも星空はいずこに…という方は多かろう◆昨夜は七夕の催しで、各地の施設や店舗などが2時間ほど一斉に明かりを消した。梅雨の明けない地方でも夜空に目を凝らせば、「星の夜の深き哀れ」がほんの少し味わえたに違いない◆建礼門院右京大夫には七夕の歌もあった。〈彦星の行き合ひの空をながめても 待つこともなき我ぞ悲しき〉。恋人であった平家の公達(きんだち)、平資盛(すけもり)が壇ノ浦で没し、年に一度の逢瀬(おうせ)さえもかなわぬ身を嘆いた一首という◆気がつけば、壁のカレンダーが半分の薄さになっている。むごい事件があった。地震があった。海の事故があった。亡き子の、父母の、夫の、妻の面影を胸に、「待つこともなき」人もきっと、星空を仰いだだろう。

7月8日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

7.07.2008

「瀕死ともいうべき今の地球環境…」 編集手帳 八葉蓮華

俳人としても知られた歌舞伎の初代中村吉右衛門は小唄も達者で、渋い声を聞かせた。「系図」という歌をおはこにしたという。〈ひいじいさん、ひいばあさん、おじいさんにおばあさん、おとっつぁんにおっかさん…〉◆さらには、〈おじごにおばご、むすこによめご、おあにいさんにおととごさん、あねにいもうと、まご、ひこ、やしゃご、いとこにはとこ、おいごにめいご、ごようし、ごようじょ、あとは、ごえんがちととおい〉。ふう~◆歌の文句が胸に優しく響くとすれば、「ちと」(=ほんの少し)一語の手柄だろう。孫の子・ひこ、ひこの子・やしゃご、その先を何と呼ぶかは知らないが、その子との間にもご縁はある。ほんの少し遠いだけで、と◆思えば人はいつの時代も、自分と子、孫あたりまでが豊かになることを念じて生きてきた。系図の先に待つ子孫を「無縁」の存在として視野の外に置いてきた結果が、瀕死(ひんし)ともいうべき今の地球環境だろう。きょうから北海道洞爺湖サミット(主要国首脳会議)がはじまる◆ひこ、やしゃご、さらに先の子供たちに聞かれても恥ずかしくない討議を望む。

7月7日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

7.06.2008

「深刻なテーマが山積…」 編集手帳 八葉蓮華

欧米の首脳たちがリラックスした様子で、一団となって歩いている。福田首相は一人だけ、1メートルほど遅れてついていく。30年前の西独ボン・サミットを報じる紙面に、そんな写真が載っていた。福田首相とは、もちろん現首相の父、赳夫氏。「一歩下がって孤立漂わす」と見出しがついている◆初期のころのサミットの、お定まりの光景だ。日本の総理大臣はいつも隅の方にいて、どこか“出席させてもらっている”という雰囲気だった◆最近のサミットではわが首相が一団の中にいようが端にいようが、かつてほど関心事にならない。今はさまざまな形で首脳会合が頻繁に行われることもあるが、日本の存在感と責任の大きさは、もう誰もが分かり切っているからだろう◆きょう6日、洞爺湖サミットに出席する各国首脳が続々と来日する。議長を務める現・福田首相は、いやおうなしに真ん中に立つ◆地球温暖化、食料危機、原油高騰…。たじろぐほどに、深刻なテーマが山積している。康夫氏の手綱さばきに期待しつつも、隅の方で控え目にしていられた時代であれば――などと、少しばかり思わぬではない。

7月6日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

7.05.2008

「いまの首相…」 編集手帳 八葉蓮華

映画監督の山本嘉次郎は通行人の役など“その他大勢”の役者も、一人ひとり名前で呼んだ。「青い服の君、少し右に」などと指示する助監督を、「人には名前があるのだ」とたしなめたという◆できそうで、できない。道行く人々から挨拶(あいさつ)される古代ローマの有力者も相手の名を思い出すのには苦労し、「ノーメン(=名前)クラトール(=世話役)」と称する記憶係を従えていた◆米国のブッシュ大統領もそういう係をそばに置きたかったに違いない。日本の報道機関と会見し、「コイズミ」は4回、「アベ」も口にしながら、ついに「フクダ」の名は出ず、「いまの首相」でお茶を濁したという◆アウン・サン・スー・チーさんの名前を何度も間違え、サルコジさんの名前には演説草稿にふりがなを振ったと伝えられる人である。“その他大勢”と考えたわけではなく、ただ単純に覚えられなかったのだろう◆誰にも苦手はあるから映画監督の記憶力は望まないが、忘れてほしくない名前がひとつある。母親の切ない訴えを聴いて、目を潤ませた日のことは大統領も覚えておいでだろう。「メグミ」という。

7月5日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

7.04.2008

「万葉びとから…」 編集手帳 八葉蓮華

万葉集にある。〈恋ひ死なば 恋ひも死ねとか 吾妹子(わぎもこ)が吾家(わぎへ)の門を 過ぎて行くらむ〉。恋しいあの娘がわが家の前を通る。ああ、おれに死ねと言っているようなものだ…◆国文学者の中西進さんが著書に書いていた。「思春期の教室風景のようではないか」と。そういえば、片想(かたおも)いの相手が廊下を通るとき、教室のなかで頭を抱えた昔があったような、なかったような◆心ふさぐ日は〈飛びたちかねつ鳥にしあらねば〉と思い、心なごむ団欒(だんらん)のときは〈まされる宝 子にしかめやも〉にうなずく。万葉びとから、ときに慰めの、ときに祝福の手紙をもらったような気持ちになるのも、この歌集をひもとく愉(たの)しみである◆全20巻の最後を締めくくる一首が詠まれて、来年で節目の1250年を迎える。それを記念して小紙などが主催し、“平成の素顔”を伝える短歌、「平成万葉集」の募集も始まった。題材は自由、はるか未来に宛(あ)てた書簡集になるだろう◆何十年後、あるいは何百年後か、あなたの歌に傷心を慰められる人がいるかも知れない。遠い日の廊下をすまし顔で通った子はいま、どうしているだろう。

7月4日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

7.03.2008

「“酒縁”…」 編集手帳 八葉蓮華

作家、吉川英治の歌にある。〈盃(さかずき)よ わが手にふるる汝(なれ)もまた 宿世(すくせ)の縁(えにし)あさからめやも〉。ふと手にした盃ひとつにも、巡り合わせのえにしがある。ましてや人との縁が浅かろうはずがない◆随筆家の佐々木久子さんは“酒縁”を語りつづけた人である。30年にわたって日本酒の雑誌「酒」の編集長を務め、原稿料も払えぬ瀬戸際の経営を、酒一升の現物支給で筆をとってくれた作家たちに助けられたという◆火野葦平は病床でペンを握り、「命ある限り書く」と一筆したためてくれた。立原正秋は「燗酒(かんざけ)だよ」と一升瓶を抱いて風呂に入り、おどけたふりをして原稿を頼む心を軽くしてくれた◆燗をつける火鉢は家庭から消えてゆく。洋酒に合う欧風の酒肴(しゅこう)は増えてゆく。佐々木さんが編集長を務めたのは、日本酒の受難が始まったころである。作家たちの厚意は、逆風に奮迅する細腕への応援歌であったろう◆故郷広島で被爆し、後遺症に苦しんだ。つらい恋もした。酒の結んだ縁が人生の薬であったと、のちに語っている。佐々木さんが78歳で亡くなった。燗をつけるように温めた、酒縁の功徳に酔うごとく。

7月3日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

7.02.2008

「たばこ店からは悲鳴…」 編集手帳 八葉蓮華

住み慣れた町を出ていく青年が、親しくしてくれた人たちに胸の中で別れを告げる。井上順さんが40年ほど前に歌った「お世話になりました」(詞・山上路夫、曲・筒美京平)である◆下宿のおばさん、そば屋のおじさん、「煙草(たばこ)屋(や)のおばあちゃん」が歌われている。〈お金がない時もあとでいいと言って/ハイライトをくれた/お世話になりました…〉。遠い日に暮らした街を回想するとき、小さな店構えが瞼(まぶた)に浮かぶ方もあろう◆その経営が窮地に立っている。未成年者の喫煙を防ぐ自動販売機用の成人識別カード、「タスポ」の面倒な手続きを嫌って、コンビニエンスストアなどでたばこを買い求める人が少なくない。自販機に収入の多くを頼るたばこ店からは悲鳴が聞こえる◆どこの街でも、風景を心やすまる姿に形づくっているのは青果や菓子、たばこなどをささやかに商う「小さな店」である。廃業に追い込まれることにでもなれば、風景は変わる。カードの普及には一段の知恵が要ろう◆歌の青年がのちに、その町を再び訪ねたかどうかは知らない。懐かしい店構えが消えていたら、さびしいだろう。

7月2日付 編集手帳 読売新聞

たばこ自動販売機・・・残すための苦肉の策・・・「タスポ」


八葉蓮華、Hachiyorenge

7.01.2008

「落書きをした面々…」 編集手帳 八葉蓮華

エジプトで技術をつかさどる神、テウトが文字を発明した。神々の王タモスの前に出て、文字を広めましょうと進言した。人々が文字に頼りすぎるようになりはしないか――と、王は問うた◆「ものを思い出すのに、自分以外のものに彫りつけられたしるしによって外から思い出すようになり、自分で自分の力によって内から思い出すことをしないようになる…」だろうと◆プラトンの著述「パイドロス」(岩波文庫)の一節である。旅をした記念に自分の名前などを落書きし、あとでその旅の記憶をたどる“よすが”とする。内から思い出すことをしない、できない、困った人たちがいる◆短大生、大学生、今度は高校野球部の監督という。イタリア・フィレンツェの世界遺産「サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂」に落書きをした面々である。せっかくの旅を幼稚な出来心で、記憶から抹消したい痛恨の旅に変えるのではつまらない◆目に映る像でもいい。匂(にお)いでもいい。手触りでもいい。旅の思い出を胸の石板に刻む彫刻刀はいくつもあるだろう。「しばし、文字を忘れよ」と、タモス王の声が聞こえる。

7月1日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge