12.31.2008

深夜零時に魔法が解けるのを憂えるシンデレラのように・・・ 編集手帳 八葉蓮華

深夜零時に魔法が解けるのを憂えるシンデレラのように・・・ 編集手帳 八葉蓮華

 森鴎外「青年」に、主人公が体の変調に気づく場面があった。〈鈍い頭痛がしていて、目に羞明(しゅうめい)を感じる〉。「羞明」とは「まぶしさ。また、神経衰弱から強い光の刺激をおそれる病気」(日本国語大辞典)をいうらしい

 子供のころは待ち遠しかった正月というものに、羞明を感じるようになったのはいつからだろう。くすんだ色合いの年の瀬にもう少し浸っていたいのにと、時計を見やりつつ過ごすのを大(おお)晦日(みそか)の習わしにしている

 「年惜しむ」という季語がある。昔の人のなかにも、深夜零時に魔法が解けるのを憂えるシンデレラのように、一刻一刻を名残惜しく見送った人がいたのかも知れない

 新しいカレンダーを壁に掛けたお宅もあるだろう。〈初暦知らぬ月日は美しく 吉屋信子〉。皆さんの「知らぬ月日」がどうか、ほどほどにまぶしい、心のなごむ出来事で埋まりますように

 港のそばで育ったので、除夜の鐘よりも、停泊中の船から一斉に鳴り出す除夜の汽笛になじみが深い。海辺を離れたいまも日付が変わる時刻に窓をひらき、聞こえない汽笛に耳をすますのをシンデレラの儀式にしている。

12月31日付 編集手帳 読売新聞

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12.30.2008

おごることなく、中身のない大言壮語はせず、地に足をつけて歩むべし・・・ 編集手帳 八葉蓮華

おごることなく、中身のない大言壮語はせず、地に足をつけて歩むべし・・・ 編集手帳 八葉蓮華

 〈黙々として牛の如(ごと)くせよ〉。英国留学中の夏目漱石が日記にそう書いたのは、1901年(明治34年)の春である。祖国よ、と

その前後には、〈自ら得意になる勿(なか)れ〉〈内を虚にして大呼(たいこ)する勿れ〉と、戒めの言葉が置かれている。おごることなく、中身のない大言壮語はせず、地に足をつけて歩むべし…。のちの昭和史を予見していたようでもある

牛の絵をあしらった年賀はがきに筆を走らせつつ、手休めに書棚の「漱石日記」(岩波文庫)をひらいた。未曽有の金融危機に揺れた一年を顧みれば「牛の如く」とは、米国流錬金術を信奉してきた世界経済をきつく叱(しか)りつけた言葉にも聞こえる。時宜を得たといえば得た、どこか胸にほろ苦い来年の干支(えと)である

前回の丑年(うしどし)にも日記の同じくだりを一読したおぼろげな記憶がある。そうか、北海道拓殖銀行や山一証券がバブルに踊ったツケを経営破綻(はたん)という形で支払った年だったか…と、年表を手にとって知る

年賀はがきのわが牛たちは、「人間は学習が苦手だね」とつぶやいては、コタツの上で悠々と道草を食っている。どうやら元日には届きそうもない。

12月30日付 編集手帳 読売新聞

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12.29.2008

中国人の対日観や日本人との交流・・・ 編集手帳 八葉蓮華

中国人の対日観や日本人との交流・・・ 編集手帳 八葉蓮華

 百年ほど前の清朝末期に盛宣懐(せいせんかい)という中国人の高級官僚・実業家がいた。8年前まで東京・芝公園で40年余り続いた中華料理の老舗「留園」の経営者で文筆活動でも知られた華僑、盛毓度(せいいくど)さんの祖父だ

 盛宣懐は、祖国の経済建設のためと、自分の病気の治療を兼ね、3か月間、日本に滞在した。時は明治41年(1908年)秋、日本が日露戦争に勝利した3年後で、日中関係も良好な時代だった

 盛は、北里柴三郎の診察を受ける一方で、日本の通貨政策、製鉄技術、鉄道建設などの知識を求めた。滞在中に伊藤博文、山県有朋、大隈重信、松方正義、小村寿太郎、後藤新平、高橋是清、三井八郎右衛門ら錚々(そうそう)たる人物と相次いで面談した。中国に図書館を開設するため日中双方の書籍も買い求めた

 盛の来日百周年を記念して今月発刊された、当時の日本滞在日記や書簡を集めた『中国近代化の開拓者・盛宣懐と日本』(中央公論事業出版)には、古い東京の光景なども登場する

 清朝末期のエリート中国人の対日観や日本人との交流ぶりを読み進むにつれ、現在の中国指導者の姿が二重写しになり興味は尽きない。

12月29日付 編集手帳 読売新聞

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12.28.2008

窒息事故 飲み込む力が弱くなってきた・・・ 編集手帳 八葉蓮華

窒息事故 飲み込む力が弱くなってきた・・・ 編集手帳 八葉蓮華

 年の瀬は一年のさまざまな事故統計が気になる。まず交通事故だ。死者数は年々減少しており、今年は5000人を少し上回るあたりでとどまりそうな見通しである。一昔前までは年間1万人を超えていた

 これは事故から24時間以内に亡くなった人の数で、最終的には残念ながら8000人前後になってしまうだろう。それでも着実に減りつつあることに変わりはない

 一方で亡くなる人の数が年々増加し、近年、交通事故より多くなったのが窒息事故だ。年間9000人以上とは驚く。半数が食べ物をのどに詰まらせたケースで、うち8割以上は、飲み込む力が弱くなってきた高齢者という

 今年はコンニャク入りゼリーの事故が記憶に強く残っている。だが、これに限らず、食品はすべて油断大敵。今の時期は何と言っても餅に気をつけたい。専門家は予防策の第一として、一口で食べる量を小さくし、飲み込もうとする前にもう5回、余計に噛(か)むよう勧めている

 万一の時に傍らに人がいるかどうかも大切だろう。年末年始を一人で過ごすお年寄りが増えているとすれば、それもやはり気になるところだ。

12月28日付 編集手帳 読売新聞

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12.27.2008

せめて心身の暖まる住処をと願わずにいられない ・・・ 編集手帳 八葉蓮華

せめて心身の暖まる住処をと願わずにいられない ・・・ 編集手帳 八葉蓮華

 昔はなぞなぞ風に、「十階の身の上」とも言ったらしい。二階に厄介(八階)になっている――居候、別名では掛人(かかりゅうど)という

 江戸川柳には〈掛人小さな声で子を叱(しか)り〉〈居候ある夜の夢に五杯食い〉などと揶揄(やゆ)されているが、衣食住の「食」「住」をなくした失意の人に緊急避難の手を差し伸べる“人情の装置”を備えていた社会は、いまの目にはうらやましいものがある

 かつての昭和恐慌で、失業者の多くが農村に帰った。親きょうだいがいて、再起の時節を待つことのできた故郷もまた、緊急避難の装置であったろう

 今年10月から来年3月までに職を失ったか、これから失う非正規労働者は8万5000人にのぼり、すでに2000人以上が住む場所を失ったという。身を寄せる知人宅も、帰れる故郷も持たぬ人が増えたいま、大量失業の深刻さは数字以上だろう

 国が、自治体が、解雇した企業が、まずは持てる居住施設を総動員して“人情の装置”を作る。失業した人が百の同情よりも一つの安定した職を望んでいることは承知しつつ、底冷えのする夜、せめて心身の暖まる住処(すみか)をと願わずにいられない。

12月27日付 編集手帳 読売新聞

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12.26.2008

元気でね/身体に気をつけてね/今度はいつ帰れるの ・・・ 編集手帳 八葉蓮華

元気でね/身体に気をつけてね/今度はいつ帰れるの ・・・ 編集手帳 八葉蓮華
 1週間ほど前の本紙で、「ゆめ」という詩を読んだ。〈今朝/死んだお父さんから/電話がかかってきたゆめを見た〉。作者は小学5年、茨城県鉾田市の少年である◆〈…ぼくは受話器をにぎりしめて/会いたいよって/泣きながら話してて/目がさめた/お父さんの声が/いつまでも耳にのこった〉。「天国に電話をかけなおせたらいいのに」と、「こどもの詩」欄の選者、詩人の長田弘さんが感想を添えている◆民間援助団体「ペシャワール会」の職員、伊藤和也さん(当時31歳)がアフガニスタンで武装集団に殺害されたのは今年8月である。12月の会報で母順子さん(56)の手記を読んだ。そこにも電話が出てくる◆よくぐずった赤ちゃんの昔を回想し、事件を境に父正之さん(61)の酒量が増えたことを告げ、供えるためだけのケーキを誕生日にこしらえる気の重さを語り、手記は息子に呼びかけて結ばれている。〈ではいつものように言うからね/元気でね/身体に気をつけてね/今度はいつ帰れるの/お母さんのいる時電話してよ/いってらっしゃい〉◆「天国に…」と、長田さんの言葉を胸に繰り返す。

12月26日付 編集手帳 読売新聞

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12.25.2008

「金が泣いてる」立ち往生したみずからを憐れみ ・・・ 編集手帳 八葉蓮華

「金が泣いてる」立ち往生したみずからを憐れみ ・・・ 編集手帳 八葉蓮華
 将棋を好んだ作家、幸田露伴に一句がある。〈長き夜をたゝる将棋の一(ひ)ト手哉(てかな)〉。ああ指さずに、こう指していれば勝てたのに…と悔やまれて、寝つけない夜を詠んでいる◆麻生首相には、あのときの指し手がのちのちまで悔いる「一ト手」になるかも知れない。景気対策を盛り込んだ第2次補正予算案を、きょうが会期末の臨時国会に提出せず、年明けの通常国会に先送りしたことである◆多くの国民は「政局より政策」「景気の麻生」にそれなりの期待を寄せていたはずである。危機突破の気構えを疑わせる先送りにより、二つのスローガンに「なんちゃって」と付け加えたのは首相自身にほかならない◆同じ何兆円を使っても、首相は本気だぞ、景気は上向くぞ――と、世間が信じるか否かで、景気対策のカネは生きもすれば死にもする。補正予算案の早期提出は信じさせるための必然手(ひつぜんしゅ)「盤上この一手」であったろう◆盤上に立ち往生したみずからの銀を憐(あわ)れみ、「銀が泣いてる」と語ったのは孤高の棋士、坂田三吉である。効果は薄く、ツケのみ重く終わり、「金(カネ)が泣いてる」と嘆く日が来なければいい。

12月25日付 編集手帳 読売新聞

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12.24.2008

忙しい時ほど、心がよそに遊ぶのはなぜだろう ・・・ 編集手帳 八葉蓮華

忙しい時ほど、心がよそに遊ぶのはなぜだろう ・・・ 編集手帳 八葉蓮華
 月刊誌「文芸春秋」の編集長などを務めた車谷弘さんが、作家の内田百(ひゃっ)けんに叱(しか)られた思い出を著書「わが俳句交遊記」に書いている。百けんに「お忙しいですか」と聞かれ、「忙しくて困っています」と答えたときのことという◆「忙しいというのは、それはひとに向かって尋ねるときの言葉ですよ。自分で自分を忙しいというのはバカです。一日二十四時間を自分で適当に処理できないで、どうしますか」と◆その説に従えば恥ずかしながら、一年のほとんどを「バカ」で通している。上に「大」の字がつくのはやはり、仕事が何かと立て込む年の瀬である◆例年ならば28日の仕事納めを、今年は曜日のめぐりあわせで26日の金曜に予定する会社も多いと聞く。短期集中で仕事を片づけるとなれば、きょうを含めて3日間、世間には「バ」の字のお仲間が増えることだろう◆そう言いつつ、差しあたって読む暇のないミステリー小説を求めて書店をうろつき、出かけもしない旅の行程を時刻表で調べている。忙しい時ほど、心がよそに遊ぶのはなぜだろう。「極めつきのバカだからです」と、百けん先生の声が聞こえる。


12月24日付 編集手帳 読売新聞

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12.23.2008

「経営者の志」 従業員を食べさせるには ・・・ 編集手帳 八葉蓮華

「経営者の志」 従業員を食べさせるには ・・・ 編集手帳 八葉蓮華
 トヨタ自動車名誉会長の豊田章一郎さんから、カマボコづくりの修業をした思い出をうかがったことがある。終戦直後、まだ大学に通うころ、北海道稚内市で海辺の小屋に住み込んだというから本式である◆戦争が終わり、トラックの需要が激減した。乗用車の時代はまだ来ない。従業員を食べさせるには自動車のほかにも事業を広げねばならず、「食いはぐれのないのは飲食関係」という思案の末がカマボコだったという◆のちに朝鮮戦争特需でトラックの業績が盛り返し、トヨタ印のカマボコは幻に終わったが、トヨタの歴史で一番つらいころである◆と、1年前ならば書けた。「一番つらいころ」はもしかするとこれからかも知れない。販売不振と円高で、来年3月期の連結決算は営業利益が1500億円の赤字に転落するという。終戦直後にもなかったことである。雇用にも深刻な影響が及ぼう◆現在の巨大トヨタにカマボコ談議が無益であることは承知している。学業途中の創業家御曹司に不慣れな修業をさせてまで従業員を守り抜こうとした、当時の経営者の志だけは忘れずにいてほしいと、切に願う。

12月23日付 編集手帳 読売新聞

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12.22.2008

反米感情の高まりをも引き継がなければならない ・・・ 編集手帳 八葉蓮華

反米感情の高まりをも引き継がなければならない ・・・ 編集手帳 八葉蓮華
 中国の古典「淮南子」に見える「足を削って履(くつ)に適す」は、本末転倒を形容する成句として知られる。確かに、靴のサイズに合わせて足を痛めつけるのでは、筋が通らない◆だが米国発の金融危機は、どうだろう。成長を牽引(けんいん)する「足」とみなされてきた金融工学が、ひどいまやかしであったことが露呈した。常識という「靴」に、足の方を合わせることはできなかったものか◆任期ひと月足らずとなったブッシュ米大統領は外交面でも課題を残した。対テロ戦争の主戦場となったイラクもアフガニスタンも国家再建にはほど遠い。オバマ次期政権は、国際社会における反米感情の高まりをも引き継がなければならない◆嫌われつつ外交成果を上げるのは、やはり困難である。収容所での拘束者虐待事件などに象徴される、時に大きい靴で踏みにじるように見えたやり方も、いらざる反感を招いた◆記者会見の席上、イラク人記者がブッシュ大統領に靴を投げつけた。アラブ社会で最大の侮辱とされる行為に大統領は靴のサイズに言及する余裕を見せたが、機転の利いた冗談よりも、もっと別の言葉を聞きたかった。

12月22日付 編集手帳 読売新聞

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12.21.2008

「人生ゲーム」人生、山あり谷あり ・・・ 編集手帳 八葉蓮華

「人生ゲーム」人生、山あり谷あり ・・・ 編集手帳 八葉蓮華
 サイコロを振り、止まったマス目の指示でカードをめくる。〈議会へのデモに向かう。投げる卵を買おうとしたものの、あまりにも値上がりしていたため買えず〉◆その出来事は幸なのか不幸なのか、よく分からないけれど笑える。経済危機で大混乱のアイスランドに、現状をネタにした「危機ゲーム」が登場――と英紙フィナンシャル・タイムズが報じていた◆記事によると、発案者はこの不況で失業した男性とのことだ。発売元の会社は「ユーモアがあれば今の危機は乗り切れる」と宣伝している。明るいお国柄なのだろう。実物を見たわけではないが、察するに人生ゲームのような双六(すごろく)らしい◆「人生、山あり谷あり」の宣伝文句で知られた「人生ゲーム」は、今年ちょうど日本発売40周年。今ではテレビゲーム版も出ているが、昔ながらの盤面タイプも時代とともに少しずつ内容を変え、根強い人気を保っているという◆クリスマス前のきょうあたり、買い求める人もいるだろう。日本の人生ゲームには、アイスランドのような出来事は登場しないようだ。だからといって、ホッとしてはいられないけれど。

12月21日付 編集手帳 読売新聞

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12.20.2008

「一陽来復」冬至冬なか冬はじめ ・・・ 編集手帳 八葉蓮華

「一陽来復」冬至冬なか冬はじめ ・・・ 編集手帳 八葉蓮華
 日本初の近代的な国語辞書「言海」を著した大槻文彦は本名を「清復」という。「きよまた」あるいは「きよしげ」と読んだらしい◆人名にはめずらしい「復」の字は、冬至の日に生まれたことにちなんで付けられた。北半球で一年のうち夜が最も長くなる冬至は古来、陰から陽に転じる時の意味で「一陽来復」と称され、その「復」をもらっている◆あすは冬至、日の長短はともかくも、後を絶たない食品偽装や振り込め詐欺などで世相は濁り、不況の濁流にのまれて雇用の視界はきかない。いつにまして「清復」の二文字、清澄に復する日が待たれる年の瀬である◆実際には冬至のころから寒さが増し、昔の人は〈冬至冬なか冬はじめ〉と言い習わして戒めた。景気はいまが陰の極みなのか、冬はじめではないのかと、多くの人が不安を募らせている◆不安を解くのは政治の仕事だが、自民党内はいま、やれ「離党者には刺客を送るぞ」、やれ「批判封じは平成の大獄だ」と“幕末ごっこ”で多忙らしい。辞書の名前「言海」は文字通り、言葉の海である。益体(やくたい)もない言葉ばかりを浮かべた海が、永田町にはある。

12月20日付 編集手帳 読売新聞

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12.19.2008

「永世竜王」激闘譜として語り継がれるだろう ・・・ 編集手帳 八葉蓮華

「永世竜王」激闘譜として語り継がれるだろう ・・・ 編集手帳 八葉蓮華
 将棋の大山康晴十五世名人に、講演をした折の逸話が残っている。演壇から降りて係の人に、「お客さんは何百何十何人でしたね」と告げた。主催者の記録と、ぴたり一致していた◆「客席は将棋盤と同じマス目だから、ひと目で分かりました」、そう語ったという。米長邦雄永世棋聖には「兄たちは頭が悪いので東大に行ったが、私は頭が良いので棋士になった」という伝説の語録もあるが、棋士の頭脳ほど神秘的なものはない◆郷里で“神童”と騒がれた少年たちの一部が選ばれてプロになり、ほんの一握りがタイトルを手にする。「永世」の称号となれば、気の遠くなる天の高みである◆将棋界の最高棋戦、竜王戦で渡辺明竜王(24)が挑戦者の羽生善治名人(38)を破り、5連覇を果たして初代「永世竜王」の資格を手にした。3連敗から4連勝は将棋タイトル戦の歴史で初めてという。「すわ逆転か」「いや再逆転か」と最後の最後まで優劣不明だった最終局は、激闘譜として語り継がれるだろう◆神に愛(め)でられし頭脳二つが白刃を交えて綴(つづ)った棋譜を眺めつつ、神に疎んじられしわが頭脳も芯まで痺(しび)れている。

12月19日付 編集手帳 読売新聞

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12.18.2008

「はないちもんめ」記憶のかなたにまた一歩、遠ざかっていく ・・・ 編集手帳 八葉蓮華

「はないちもんめ」記憶のかなたにまた一歩、遠ざかっていく ・・・ 編集手帳 八葉蓮華
 遠い昔、路地裏や原っぱで、〈あの子がほしい、あの子じゃわからん〉と歌った方もあろう。子供の遊び、「はないちもんめ」(花一匁)である。〈勝ってうれしいはないちもんめ、負けてくやしいはないちもんめ…〉◆かつて口減らしがおこなわれた貧しい農村から子供を買い集めるとき、「花」(女児)1人につき金1匁が支払われた。中国史家、阿辻哲次(あつじてつじ)さんの「部首のはなし 2」(中公新書)によれば、字面も美しい「花一匁」には哀(かな)しい一説があるという◆1匁は3・75グラム、一文銭の重さ(一文の目方=文目)から生まれた単位で、匁という字は「文」と「メ」を組み合わせた形ともいわれる。いまでは真珠の計量以外で用いられることはない◆常用漢字表の見直しで、191字の追加と5字の削除が決まった。「匁」も削られる。「はないちもんめ」で遊ぶ子供を見かけぬようになって、すでに久しい。漢字表からも消えることで「匁」は記憶のかなたにまた一歩、遠ざかっていくのだろう◆1匁とはどれほどの重さであったかと、小銭入れを探ってみる。5円玉はぴったり3・75グラム、1匁である。

12月18日付 編集手帳 読売新聞

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12.17.2008

押しくら饅頭 少しずつ知恵と思いやりを ・・・ 編集手帳 八葉蓮華

押しくら饅頭 少しずつ知恵と思いやりを ・・・ 編集手帳 八葉蓮華
 いまは用いられることのない季語に「越冬資金」がある。冬のボーナスをいう。大冊の「日本大歳時記」(講談社)にも例句は見あたらない◆俳人の夏井いつきさんは「絶滅寸前季語辞典」(東京堂出版)のなかで、「『年末賞与』というだけでも古くさい表現だと思っていたが…」、その比ではないと書いている◆派遣契約を打ち切られ、住む家もなくす人々が日々生まれている今年ほど、「越冬」の二文字が生々しい現実として胸に響く年の瀬はない。何年か前ならば笑い飛ばせたサラリーマン川柳〈職安で 働かせろよ この盛況〉を、いまは頬(ほお)をこわばらせて聴く人も多かろう◆自治体のなかには、地元の企業に解雇された非正規社員を臨時職員として採用するところもあると聞く。皆が膝(ひざ)送りで席を詰め、たとえ一人でも二人でも多くが座れる場所を――という心は企業の側にも欲しいものである◆夏井さんの辞典で「越冬資金」の隣には「押しくら饅頭(まんじゅう)」があった。企業と、地元の自治体と、国の機関とが少しずつ知恵と思いやりを持ち寄り、押しくら饅頭のなかから凍える人々を温めていくしかない。

12月17日付 編集手帳 読売新聞

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12.16.2008

一年という時間、指折り数えてみる。五輪のあれこれ、ノーベル賞・・・ 編集手帳 八葉蓮華

一年という時間、指折り数えてみる。五輪のあれこれ、ノーベル賞・・・ 編集手帳 八葉蓮華
 今年9月の本紙「読売歌壇」で読み、書き留めた歌が二つある。<もったいなくて北島康介の載る新聞犬小屋の中には敷きえざりし 町田市 岩本房子>◆北京五輪での平泳ぎ2種目、2連覇を報じた、その日の新聞だろう。今年のスポーツ界で最も活躍した選手、チームを表彰する日本スポーツ賞の選考委員会がきのう開かれ、北島選手がグランプリ(大賞)に選ばれた◆もう一首。<あぁ上野演歌ではない由岐子さんソフトボールの力投で金 旭市 山田純子>。その歌「ああ上野駅」を知らない世代も、あの413球は「あぁ」の感動詞を抜きにしては語れまい。ソフトボール女子日本代表チームは限りなく大賞に近い特別賞に選ばれている◆顧みれば、秋葉原の無差別殺人から年の瀬の派遣打ち切りまで、むごくて、あるいは気の毒で犬小屋に敷けない新聞ばかりが記憶に残る年である。五輪のあれこれ、ノーベル賞…もったいなくて敷けない新聞がいくつあったかと、指折り数えてみる◆一年という時間は夜汽車の旅に似ている。闇が深いほど、山あいにひとつ、またひとつと流れた灯の色が忘れがたい。

12月16日付 編集手帳 読売新聞

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12.14.2008

きょうは各地で忠臣蔵の公演や行事が盛況・・・ 編集手帳 八葉蓮華

きょうは各地で忠臣蔵の公演や行事が盛況・・・ 編集手帳 八葉蓮華
 「大阪府下、谷町三丁目に忠臣蔵長屋と称(とな)へる四十六戸あり」。1882年(明治15年)の小紙に傑作な記事があった◆長屋の名の起こりは明治の初め、平民も名字を持つよう命じられたことだ。住人たちは困ったようで、数もほどよい四十七士にあやかることにした。歌舞伎「仮名手本忠臣蔵」の登場人物から、くじ引きで大星(由良之助)、寺岡(平右衛門)などの名字をもらった、という次第◆この長屋に高野(こうの)(高師直(こうのもろのう)=モデルは吉良上野介)さんが引っ越してきたので「偽士(ぎし)」たちは面白くない。「仇敵(あだがたき)の苗字(みょうじ)の者と同じ長屋に住まっては世間へ対し恥辱」と大家にねじ込み悶着(もんちゃく)中――というのが記事の要旨である◆これがニュースになるとは平和なことだ。敵役までみんなそろっていたほうが忠臣蔵長屋の名にふさわしいじゃないの、と120年前の出来事に思わず突っ込みを入れてみたくなる◆訳の分からぬ殺人やら、内定取り消しやら、現代の紙面に並ぶ記事の何と殺伐としたことか。きょうは各地で忠臣蔵の公演や行事が盛況だろう。それをながめつつ、明治の先輩記者をうらやましく思う年の瀬だ。

12月14日付 編集手帳 読売新聞

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12.13.2008

「変」年越しの晩はめでたい言葉を口ずさみ、厄払い・・・ 編集手帳 八葉蓮華

「変」年越しの晩はめでたい言葉を口ずさみ、厄払い・・・ 編集手帳 八葉蓮華
 年越しの晩に商家をまわり、めでたい口上を述べて祝儀をもらう。厄払いという。ある男、小遣い欲しさに真似(まね)してみたものの、口上のカンニングペーパーを読み違えて思わぬ恥をかく…上方落語「厄払い」である◆「鶴は千年、亀は万年」と言うべきを「亀は一カ年」と読んでしまい、「えらいまた寿命の短い亀やな」と、商家の番頭を驚かせた。いつの世にも漢字の苦手な人はいる◆在任期間は「一カ年」365日、えらいまた寿命の短い政権やな――と世間をたまげさせ、福田康夫氏が首相の座を降りたのは9月である◆歳末恒例「今年の漢字」に「変」が選ばれたという。深刻な金融危機に、揺らいだ食の安全と、変事を数えて五指に余るこの一年だが、政権を投げ出すような首相交代劇も生々しい「変」の記憶だろう◆あとを引き継いだ麻生首相も、与党内には離反の芽が兆し、支持率も急落して、大変の「変」の字が身につきまとう。年越しの晩はめでたい言葉を口ずさみ、厄払いもいいだろう。「万年」を「一カ年」と読み違えても気にすることはない。いまの迷走を見れば、一カ年もまた長寿である。

12月13日付 編集手帳 読売新聞

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12.12.2008

一芸に抜きんでた人は、夢も無駄には見ないらしい・・・ 編集手帳 八葉蓮華

一芸に抜きんでた人は、夢も無駄には見ないらしい・・・ 編集手帳 八葉蓮華
 囲碁の呉清源さんは若いころ、ときに夢のなかで妙手を見つけたという。「目がさめてから、形の一部をおぼえていることがあるそうだ」と作家、川端康成が「名人」(新潮社)に書いている◆ビートルズの名曲「イエスタディ」には、ポール・マッカートニーさんの夢に現れたメロディーから生まれたという語り伝えがある。一芸に抜きんでた人は、夢も無駄には見ないらしい◆普通は思い出せなくて、もどかしいのが夢である。将来はどうだろう。人が見たものを、脳の活動パターンをもとに画像で再現する。その技術を国際電気通信基礎技術研究所(京都府精華町)などが開発した◆「□」や「×」などの図形やアルファベットを見た人の脳から情報を読み取り、コンピューターの画面上に映し出す技術で、睡眠中の夢や脳裏の空想にも応用できる可能性があるという◆一芸なき身は時折、献立の記憶はおぼろながら、飲食の夢を見る。ほほう、きょうは刺し身だったか、熱燗(あつかん)まで一本ついちゃって…と、目ざめてから再現画像に見入る日がいつか訪れるのかも知れない。うれしいような、そうでもないような。

12月12日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

12.11.2008

「借金返済」歳出削減などの構造改革路線を推し進めていく・・・ 編集手帳 八葉蓮華

「借金返済」歳出削減などの構造改革路線を推し進めていく・・・ 編集手帳 八葉蓮華
 舟から剣を川に落とした男がいる。あとで捜そうと、舟べりに目印の刻みをつけた。岸について、刻みを頼りに川にもぐったが、剣は見つからなかった◆「小泉改革」を旗印に、歳出削減などの構造改革路線を推し進めていくグループが、自民党内で相次いで動きを強めているという。中国の古典「呂氏(りょし)春秋」の伝える故事を思い浮かべた◆麻生内閣から民心が離れつつあるのを受け、人気の高かった小泉政権の成功体験をもう一度、というのだろう。「時」の川は流れ、当時とは景況が一変している。病床で読経を聞いているような違和感を覚えぬでもない◆工具箱に「小泉改革」という金づちしかなければ、ノミが必要なときも、鉋(かんな)が必要なときも、金づちを振り回すしかない。かつては自慢の道具であったにせよ、いま叩(たた)けばトン、チン、カンと音の出そうな金づちは、党の工具箱の中身が貧弱であることを世に知らしめるだけだろう◆職を失い、路頭に迷う人々の、溺(おぼ)れかけた川がある。その濁流から目をそむけ、何年か前に舟べりに刻んだ“自民圧勝”の目印に頼ったところで、なくした剣は見つかるまい。

12月11日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

12.10.2008

先生も分からないから一緒に考えてみよう・・・ 編集手帳 八葉蓮華

先生も分からないから一緒に考えてみよう・・・ 編集手帳 八葉蓮華
 8年前にノーベル化学賞を受賞した白川英樹さん(72)が中学時代の思い出を語ったことがある。物理の時間、ひとりの生徒が「雲はなぜ落ちてこないのですか」と教師に尋ねた。「雲をつかむような質問だ」と教師は話をそらした◆先生も分からないから一緒に考えてみよう。「そう答えてくれたら、私は化学ではなく物理の道に進んでいたかも知れない」と。学校の教室が好奇心の芽を摘み取る場になることもある◆夜道が教室になることもある。今年のノーベル物理学賞に選ばれた益川敏英さん(68)がストックホルムで受賞記念の講演をした。小学生の昔を回想している◆家具職人や砂糖商をしていた父親は科学や技術にも関心が深く、いつも銭湯に通う道すがら、モーターの回る仕組みや日食、月食の原理を話してくれた。理科の面白さをそうして知ったと、“英語嫌い”の益川さんは日本語で話した。遠い日の父に語りかけた講演でもあったろう◆暗い路地を脳裏に描く。タオルと石鹸(せっけん)の手桶(ておけ)を小脇に、ときに手ぶりを交えて語る父がいる。耳をすまして聴く子がいる。並んで歩く二人の上には、夜空の黒板。

12月10日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

12.09.2008

「弁慶か、義経か」義経は八艘とんでべかこをし・・・ 編集手帳 八葉蓮華

「弁慶か、義経か」義経は八艘とんでべかこをし・・・ 編集手帳 八葉蓮華
 徳川家康がくつろいだ座談の折、「いまの世に武蔵坊弁慶のような剛勇の士はいない」と語った。と、頑固一徹の家臣、本多正重が異を唱えたという。「弁慶は幾らもござるが、義経のようなよい大将がござらぬ、て」◆いないのは弁慶か、義経か、迷走する組織を見るたびに、史書が伝える主従のやりとりが浮かぶ。本紙の世論調査で麻生内閣の支持率が20%台に急落した◆漢字の読み違いや失言もあったが、景気対策を盛った第2次補正予算案の国会提出を先に延ばすなど、「経済の麻生」という看板の偽りに人々は失望したらしい◆福田前内閣、安倍前々内閣がいずれも、“消えた年金”など官僚の不始末や政治資金をめぐる閣僚の醜聞により、いわば弁慶たちに足を引っ張られたのに対して、現内閣の場合は義経が自分で転んで招いた危機である◆古川柳に〈義経は八艘(はっそう)とんでべかこをし〉とある。壇ノ浦で八艘とびの離れ業を演じ、敵に「べかこ=アッカンベー」をする義経の得意顔を詠んでいる。総選挙の陣で野党に「べかこ」をする首相の姿を瞼(まぶた)に描くには、尋常でない想像力が要る。義経がいない。

12月9日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

12.08.2008

人口流出に歯止めをかけることは切実な課題だ・・・ 編集手帳 八葉蓮華

人口流出に歯止めをかけることは切実な課題だ・・・ 編集手帳 八葉蓮華
 故郷に帰るたびに、寒々しい光景を目にする。駅前近くで虫食い状に広がる駐車場や、入居者のいない老朽ビル…。やむを得ぬ事情で事業をやめ、退去した人も多かろう◆都会で暮らす自らにも責任の一端があると承知のうえで、心が痛む。三大都市圏以外の地方圏の人口は今後30年間で1200万人も減少するという。地方にとって人口流出に歯止めをかけることは切実な課題だ◆一つの対策として、総務省は定住自立圏構想を進めている。「中心市」と周辺市町村が協定を結び、産業振興や医療、交通、観光などで手を携える。中心市に圏域全体に必要な都市機能を整え、国が支援する。青森県八戸市、長野県飯田市など26自治体が先行実施団体に指定された◆企業誘致や農産品の地域ブランド育成に各市町村が協力する。地域の拠点病院から周辺自治体の診療所に医師を派遣する。いかに若者を地元にとどめ、中高年を都会からUターンさせるか◆もちろん特効薬などない。試行錯誤を重ねつつ様々なアイデアの具体化に努めねばなるまい。国の権限や職員、財源を自治体に移す地方分権も、その一助となろう。

12月8日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

12.07.2008

「源氏物語千年紀」国内外で広く読まれている・・・ 編集手帳 八葉蓮華

「源氏物語千年紀」国内外で広く読まれている・・・ 編集手帳 八葉蓮華
 文豪も源氏物語を原文で読み通すことには難渋したらしい。森鴎外は明治の末、与謝野晶子が口語訳を出版した際に寄せた序文の中で「(原文は)とにかく読みやすい文章ではないらしゅう思われます」とぼやき、新訳で読めることを大喜びした◆今では谷崎潤一郎、円地文子、瀬戸内寂聴などが多彩な現代語訳を成し、鴎外のような苦労をせずに奥深い宮廷物語を味わうことができる。英語など約20の外国語に翻訳されてもいる◆日本が誇る「世界最古の長編小説」が国内外で広く読まれているのは、そうした訳者の功績も大きい。そしてさらに、目の不自由な外国の人にもぜひ読んでほしい、と考えた訳者がいた◆東京・世田谷の点訳ボランティア「紫会」の主婦5人だ。4年がかりで英語版の点訳39巻4400ページを完成させ、日本点字図書館などに寄贈した。その点字データはインターネットでも入手できる◆「源氏物語千年紀」の今年にふさわしい業績として、読売福祉文化賞を受けていただくことになった。いずれ世界中で、多くの人が点字をなぞりながら、心のスクリーンに平安絵巻を映すことだろう。

12月7日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

12.06.2008

「挑戦する企業精神の象徴」 いかにして生き残るか・・・ 編集手帳 八葉蓮華

「挑戦する企業精神の象徴」いかにして生き残るか・・・ 編集手帳 八葉蓮華
 ホンダの創業者、本田宗一郎さんは読書嫌いだった。「立派なことが書いてある本はどうせ嘘(うそ)だから読まない」と。活字文化振興の面からはあまりお薦めできない説だが、百の能書きよりも一つの実証を大事にした、その人らしい◆亡くなるまで自動車レースの最高峰F1世界選手権に血をたぎらせたのも、いいクルマ、いいエンジンであることを百の宣伝文句ではなく一つの勝利によって実証したかったからだろう◆「挑戦する企業精神の象徴」と自他ともに認めてきたF1から、ホンダが撤退する。金融危機に端を発した景気後退と自動車販売の不振で、年間500億円にのぼる費用の負担が困難になったという◆「企業は実力の範囲内で健全な赤字部門を持たねばならない」とは、旭化成で社長、会長を務めた故・宮崎輝(かがやき)氏の言葉だが、ホンダに限らず、自動車業界に限らず、企業精神を支える「健全な赤字部門」を抱える余力は限界に近づいているのだろう◆「本には過去のことしか書かれていない」と本田語録にある。いかにして生き残るか。企業には、万巻の書物にも答えの見つからない問いがつづく。

12月6日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

12.05.2008

【チェンソー】総理大臣がかわること。チェンジ総理の略・・・ 編集手帳 八葉蓮華

【チェンソー】総理大臣がかわること。チェンジ総理の略・・・ 編集手帳 八葉蓮華
 「新語は毎日3語ずつ発生している」と述べたのは国語学者の見坊豪紀(けんぼうひでとし)さんである。国語辞典を編(へん)纂(さん)するために長年、見慣れない、聞き慣れない言葉を収集・分類してきた経験から割り出したという◆日々生まれる3語の多くははかなく消えていくのだろうが、世に知られる幸運な言葉もある。「明鏡国語辞典」の版元である大修館書店が全国の中高生から日常の若者言葉を募った第3回「みんなで作ろう国語辞典!」の優秀作品一覧を眺めている◆【乙男】(おとメン=乙女心をもっている男のこと)、【指恋】(ゆびこい=好きな人と携帯でメールをすること)といった具合である◆【チェンソー】とはどんなノコギリかしら…と思えばそうではなくて、「総理大臣がかわること。チェンジ総理の略」という。「福田から麻生に――した」などと用いるらしい。伐採された木の倒れる音を空耳に聴かせて、よくできた言葉ではある◆求心力が衰えて予算編成の司令塔にもなれず、支持率も低迷する首相のこと、若い人の新語辞書にこの一語を見つけたら憂鬱(ゆううつ)になるだろう。国語辞典の愛用者でないのは幸いである。

12月5日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

12.04.2008

あなたは男でしょ/強く生きなきゃだめなの・・・ 編集手帳 八葉蓮華

あなたは男でしょ/強く生きなきゃだめなの・・・ 編集手帳 八葉蓮華
 脅迫とは賭けであると、英国情報部のベテラン諜報(ちょうほう)員が同僚に語る。「脅迫ってのはジョージ、つねに一か八かでね。相手によっては強情を誘い出してしまうものなんだ」◆ジョン・ル・カレのスパイ小説「スマイリーと仲間たち」(早川書房)の一節である。「秘密を口外されたくなければ言うことを聞け」と脅され、「面白いね、ばらしてごらん」と開き直れるならば、それが脅迫の誘い出す“強情”だろう◆その人も「さあ、やってみろ」と強く出ればいいものを、脅されるままに500万円を差し出したという。警視庁玉川署の男性巡査長(27)が拘置中の男(21)に恐喝されていた◆勤務中に携帯電話を使ったことも、男にたばこを差し入れたことも、その他の便宜供与も、口外されて困る弱みには違いなかろうが、500万円には驚く。一か八かの脅迫がすんなり通り、脅した男もびっくりしただろう◆警察の規律をうんぬんする以前に、あまりといえばあまりの弱気がもどかしく、嘆かわしい。〈あなたは男でしょ/強く生きなきゃだめなの…〉(「わたし祈ってます」)と、わが心境は古い流行歌である。

12月4日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

12.03.2008

名をも命も惜しまざらなむ・・・ 編集手帳 八葉蓮華

名をも命も惜しまざらなむ・・・ 編集手帳 八葉蓮華
 対米戦争の火ぶたを切る真珠湾攻撃で日本の連合艦隊が大戦果を挙げたとき、山本五十六司令長官に参謀が告げた。長官の郷里で市民の祝賀行列が催されたそうです…◆「フン、その連中がな、いまに俺の家へ石を投げつけに来るよ」。山本はそう答えたと、作家の阿川弘之さんが参謀から直接に聞いた話として随筆集「葭(よし)の髄(ずい)から」(文芸春秋刊)に書き留めている◆1941年(昭和16年)12月8日の開戦にあたり、山本が所懐を遺書としてしたため、戦後は所在不明になっていた肉筆文書「述(じゅつ)志(し)」が見つかったという◆〈名をも命も惜しまざらなむ〉。命のみならず、名誉も惜しまない。「いまに俺の家へ石を…」と、暗い結末を見通した眼光がここにもある。やってはならぬと唱えてきた戦争で先陣に立たねばならない人の、決死の覚悟がしのばれる◆アジアで戦線が拡大しているところへ、鉄鋼生産量は日本の10倍、原油生産量は740倍の国を向こうに回しての開戦である。政治学者の南原繁に当時の歌がある。〈人間の常識を超え学識を超えておこれり日本世界と戦ふ〉。12月8日がまためぐってくる。

12月3日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

12.02.2008

友は別れて友と知り・・・ 編集手帳 八葉蓮華

友は別れて友と知り・・・ 編集手帳 八葉蓮華
流行語でも新語でもないので、世間でそう話題になることもなかったが、北京パラリンピックを報じる本紙で目にした宝石のような言葉が忘れられない◆男子400メートル、800メートル(車いす)で2冠を手にした伊藤智也選手が、金メダルの喜びを語っている。〈いままでの人生で5番目にうれしい。子供が4人いるので…〉。その子たちが生まれた時はもっとうれしかった、と◆師走の声を聞くといつも、その年に出会った宝石を胸のなかの手帳から取り出して眺める。昨年は70歳で逝去した作詞家阿久悠さんのお別れの会で、会場に飾られていた詩を書き留めた。〈夢は砕けて夢と知り/愛は破れて愛と知り/時は流れて時と知り/友は別れて友と知り〉◆手帳には悲しい宝石もある。拉致被害者の横田めぐみさんが小学5年のとき、旅先の福島県から両親と弟たちにあてた手紙である。一家の写真展で見た。〈たくや てつや おとうさん おかあさん もうすぐかえるよ まっててね めぐみ〉◆今年の「新語・流行語大賞」が〈グ~!〉その他であることに異存はない。しまう場所が宝石とは違うだけである。

12月2日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

12.01.2008

氷に閉ざされた沈黙の世界の氷が解ければ・・・ 編集手帳 八葉蓮華

氷に閉ざされた沈黙の世界の氷が解ければ・・・ 編集手帳 八葉蓮華
 世界最大の島、デンマーク領グリーンランドの名付け親は、10世紀後半、アイスランドから追放されてこの島にたどりついた殺人犯、赤毛のエリックだ。呼び名にひかれ、豊かな暮らしを夢見て入植した食い詰め者が、さぞや多かったに違いない◆日本の6倍も広い「緑の地」は、その名前とは裏腹の極寒の地だ。全土の8割が厚い氷雪に覆われた厳しい風土が、長年にわたり人間による開発をはねつけてきた◆犬ぞりで世界最初にグリーンランド縦断に成功した植村直己さんは、「この氷に閉ざされた沈黙の世界こそ、自然の原点なのではないか」と語っている。ところが、ここにも地球温暖化の影響が及んでいる◆住民には悪い話ではないらしい。氷が解ければ、これまでは夢物語だった石油やウラン、ダイヤモンドなど地下資源の開発も現実になりそうだとの期待がふくらんでいる。11月末に行われた住民投票で、地下資源の管理権移譲など、自治拡大案が承認された◆資源開発に成功すれば、漁業とデンマーク政府からの補助金に頼ってきた経済も自立可能となる。極北の地の風景が、変わろうとしている。

12月1日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge