9.30.2008

「弁舌の闘技場」国民生活を二の次にして・・・ 編集手帳 八葉蓮華

「弁舌の闘技場」国民生活を二の次にして・・・ 編集手帳 八葉蓮華
早くから浮世の荒波にもまれた劇作家の長谷川伸は少年のころ、喧嘩(けんか)のコツを仕込まれたという。相手の顔から目を離してはいけない。「手はツラの次に動くものだ」と◆手が動く前に必ず顔が動く。相手の表情を見ていれば後手を引くことはない、という教えらしい。きのう、国会で所信を表明した麻生首相の目の前には小沢一郎民主党代表の顔がぶら下がっているように見えた◆「民主党」という言葉は計12回、政局第一で国民生活を二の次にしていると非を鳴らし、国会運営の見解や補正予算案の賛否を問いただした。いわば啖呵(たんか)で、読んで字のごとく「信ずる所」を淡々と述べるのが普通の所信表明としては型破りである◆政策論争に成算があっての強気と見るか、ただの虚勢と見るか、果敢と見るか、下品と見るか、感想は人さまざまだろう。代表質問で小沢氏は売られた喧嘩に応えることになる。いずれにせよ国会という「弁舌の闘技場」が活気づくのは悪いことではない◆閣僚の不始末など政府の痛い所を突く小沢氏の手。解散・総選挙のスイッチを押す麻生氏の手。ツラが先に動くのはどちらだろう。

9月30日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

9.29.2008

百日の説法、屁ひとつ・・・ 編集手帳 八葉蓮華

百日の説法、屁ひとつ・・・ 編集手帳 八葉蓮華
古川柳に、〈屁(へ)をひりに屋根から下りる宮普請(みやぶしん)〉とある。神社で社殿を造営する宮大工である。おならをしようにも、屋根の上では罰が当たる。わざわざ下りる律義さがほほえましい◆閣僚とはいわば、国づくりを任された宮大工である。国政の屋根の上で、仲間の職人衆も鼻をつまむ臭気を繰り返し放てば、お役御免(ごめん)になるのも致し方ない。中山成彬国土交通相が内閣発足からわずか5日で辞任した◆引責のもとになった幾つかの問題発言のうち、「日教組(日本教職員組合)は解体しないと…」「日教組はガン」といったくだりについては今に至るも撤回していない。持論なのだろう◆日教組批判を持論にする政治家がいてもいいし、一つの視点としての意義は認めるが、信念とは胸の奥で静かに燃やしておくもので、立場をわきまえず世間に“嗅(か)がせる”ものではない◆尊い教えを説いてきた僧侶が最後に異な音を発し、法話のありがたみが吹き飛ぶことを〈百日の説法、屁ひとつ〉という。総裁選を通じて政見を国民に訴えてきた自民党には痛恨の「屁ひとつ」だろう。思慮の足りない味方ほど怖い敵はない。

9月29日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

9.28.2008

高砂や「千秋楽」・・・ 編集手帳 八葉蓮華

高砂や「千秋楽」・・・ 編集手帳 八葉蓮華
〈高砂や この浦舟に帆を上げて…〉。かつて祝言の席に、夫婦愛の大切さを説く謡曲「高砂」は欠かせなかった。最近は披露できる人も少ないと思うが、冒頭の一節は多くの人がご存じだろう◆能舞台では、キリすなわち最後の部分はこう謡われる。〈さす腕(かいな)には悪魔を払ひ、をさむる手には寿福を抱き、千秋楽は民を撫(な)で、万歳楽には命を延ぶ〉◆諸説あるようだが、興行の締めくくりや最終日を「千秋楽」と呼ぶのは、めでたい高砂のキリの文句に由来するともいう。謡の内容は相撲とは関係ないものの、「悪魔を払う腕」「寿福を抱く手」と言えば力士の太い腕と大きな掌(たなごころ)が思い浮かぶ。秋場所もきょうが千秋楽だ◆どんよりとした雰囲気を、最後までぬぐえない国技館だった。大麻問題の不祥事を手に汗握る優勝争いで吹き飛ばすべきところなのに、横綱の一人が途中休場では盛り上がらない。所属が高砂部屋というのも皮肉なことだ◆大相撲は神事でもある。力士は土俵を熱くして不景気や陰惨な事件など世の重苦しさを払い、庶民の気持ちを明るくしてほしい。横綱同士がぶつかる千秋楽をまた見たい。

9月28日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

9.27.2008

「鳥瞰図」とりあえず・・・ 編集手帳 八葉蓮華

「鳥瞰図」とりあえず・・・ 編集手帳 八葉蓮華
歌人の鎌田弘子さんに、漢字の読み違えを詠んだ一首がある。〈鳥瞰図(ちょうかんず)をとりあえずとよむというを一度(ひとたび)笑いたちまちさみし〉。「あえて…する」の「あえて」は「敢て」、なるほど「瞰」に似ている◆大所高所の「鳥瞰図」と、目先の「とりあえず」、その対比がおもしろい。思えば何年か前の“小泉旋風”も、「とりあえず」ばかりの経済政策に国民が業を煮やし、構造改革の「鳥瞰図」を求めた結果であったろう◆空の高みからは、しかし、生活にあえぐ地上の人々は見えない。デフレ脱却に果たした小泉改革の役割は認めつつ、開くがままにした貧富の格差などに「とりあえず」の痛み止めを求める世論の揺り戻しを受けて、麻生内閣が発足したばかりである◆潮目の変化を象徴してもいよう。小泉純一郎元首相(66)が次の衆院選に出馬せず、引退する意向を表明した。秘書をしている二男に議席を引き継ぐという◆政界の旧弊なしきたりに挑みつづけた小泉氏にして、世襲政治を高みから見下ろす「鳥瞰図」は持ち得なかったようである。その人らしからぬ流儀に、〈たちまちさみし〉の感もなしとしない。

9月27日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

9.26.2008

「朱鷺色」大空を舞う姿・・・ 編集手帳 八葉蓮華

「朱鷺色」大空を舞う姿・・・ 編集手帳 八葉蓮華
わが書棚にも、何羽かのトキがいる。講談社学術文庫のシンボルマークがその鳥で、各巻の表紙に地を歩む姿が描かれている。古代エジプトで知恵の神の化身とされた縁で、書籍を飾る役目を担ったらしい◆学名「ニッポニア・ニッポン」に知恵という言葉を重ねるとき、感慨はほろ苦い。えさの小動物が農薬で姿を消す。田畑を荒らす野ウサギの駆除に、天敵テンを持ち込む…。日本産のトキを絶滅に追いやったのは人間の知恵、もしくは浅知恵である◆きのう、トキが27年ぶりに日本の空を飛んだ。新潟県佐渡市の佐渡トキ保護センターが中国産のつがいから人工繁殖させ、育ててきた10羽で、野生に復帰させる試験としての放鳥である◆朝焼けの雲のような、肌に透ける血潮のような、独特な色の翼で大空を舞う姿をテレビで見た。言葉に聞いていた「朱鷺色(ときいろ)」とはどんな色か、自分の目で確かめた子供たちもいただろう◆歌人、宮柊二(みやしゅうじ)さんの長歌「朱鷺幻想」から。〈絶えゆかむ命をつなぎ、種の持続 僅(わず)かに残す、Nipponia nippon、幻の鳥その悲しみのごと…〉。群れ飛ぶ幻想にもう少しで手が届く。

9月26日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

9.25.2008

この俺しか見ていないんだから・・・ 編集手帳 八葉蓮華

この俺しか見ていないんだから・・・ 編集手帳 八葉蓮華
美貌(びぼう)の名優、歌舞伎の十五代目市村羽(う)左衛(ざえ)門(もん)にこぼれ話がある。忠臣蔵で早野勘平を演じたとき、演技で悩む若い役者に優しく声をかけた◆「あまり気を使いなさんな。見物(観客)は勘平(自分)しか見ていないんだから…」。強烈な自負と、それを隠さない愛すべき人柄とを伝えている。麻生太郎首相は名優にあやかりたいと念じているのかも知れない◆女房役の党幹事長、官房長官に実務家肌の地味な顔ぶれを配した。閣僚名簿の発表も官房長官に任せず、自身でこなした。「見物が見るのは、この俺(おれ)だぜ」というところだろう◆存在感の薄い首相が二代続いただけに、指導力を訴える選挙向けの思惑にもせよ、「俺が俺が」流も悪くはない。颯爽(さっそう)たる二枚目になるか、芝居用語でいう「突っ転ばし」(突っついたら転びそうな、柔弱な色男)に終わるか、要は仕事次第である◆十五代目が演じた四谷怪談・民谷(たみや)伊右衛門(いえもん)のせりふにある。〈首が飛んでも動いて見せるわ〉。政見の実現にその執念、気迫を見せることなくドタバタ劇を繰り返せば、自民党は有権者から背を突かれるだろう。転ぶや、転ばざるや。

9月25日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

9.24.2008

秋をめづる心の湧く間なく・・・ 編集手帳 八葉蓮華

秋をめづる心の湧く間なく・・・ 編集手帳 八葉蓮華
「昭和萬葉集(まんようしゅう)」(講談社刊)に俳優、大友柳太朗さんの四首が収められている。花も月もない秋の歌がある。〈この秋をめづる心の湧く間なく起きて働きつかれて眠る〉◆1939年(昭和14年)といえば「丹下左膳(さぜん)」や「むっつり右門」の当たり役を演じる前、27歳当時の作である。秋ほど「めづる」(愛する)景物に満ちた季節はないが、仕事仕事でそれどころではなかったのだろう◆原油高に米国発の金融危機…と、どこを歩いても景気のいい話を聞かない。外回りの営業をする人のなかにはむなしく歩き疲れ、歌そのままの日常を送っている方もおられよう◆きょう、麻生内閣が発足する。経済のてこ入れは待ったなしである。解散・総選挙の思惑を離れて首相以下、「起きて働きつかれて眠る」仕事一辺倒の秋を過ごしてもらわねばならない◆もう一首。〈幾山河へだてて住めどあたたかきその御心(みこころ)は胸に通ひ来〉。「御心」とは新国劇の恩師、辰巳柳太郎さんが寄せてくれた心遣いという。今宵(こよい)もどこかの屋根の下で、遠く離れて暮らす父母や恩師の御心を胸に、疲れて眠る若い人がいるかも知れない。

9月24日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

9.23.2008

血は一代限りだよ・・・ 編集手帳 八葉蓮華

血は一代限りだよ・・・ 編集手帳 八葉蓮華
生前、古今亭志ん朝さんは口癖のように語ったという。「血は一代限りだよ」。父・志ん生の破天荒に対し、正統派の江戸前落語を磨き上げた。七光りを恩寵(おんちょう)ではなく十字架として背負い、わが道を究め得た人の誇り高き言葉だろう◆同じ言葉が政界では一度ならず二度、失望の吐息とともに語られた。誰それ元首相の孫、誰それ元首相の子があっさり政権を投げ出し、「おじいちゃんやお父さんはもっとしぶとかったろうに、血は一代限りだね」と◆自民党の新総裁にきのう選ばれた麻生太郎氏(68)が喜びの挨拶(あいさつ)で語ったところでは、くしくも祖父・吉田茂元首相の誕生日であったという。“系図倒れ”に懲りた国民は、壇上のご本人ほどは感慨を催さなかったろう◆2世、3世議員は「ひ弱さ」の代名詞になりつつある。〈俺の死に場所 ここだと決めた…〉は麻生氏がカラオケで愛唱するという「花と竜」の一節だが、総選挙が近かろうと遠かろうと、次期首相に求められるのは政見を責任もって実行に移す二枚腰、三枚腰のしぶとさである◆血は一代限り、おじいちゃんの名前はしばらく封印するのもいい。

9月23日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

9.22.2008

後継がどうなろうと・・・ 編集手帳 八葉蓮華

後継がどうなろうと・・・ 編集手帳 八葉蓮華
中国の毛沢東主席の最晩年には、高位高官といえども、主席の身の回りを世話する機密秘書、張玉鳳女史を通さなければ、面会はかなわなかった。主席の死後に後継の座に就く華国鋒首相も、昼寝中の張女史を起こしかね、すごすご引き返したことがある◆それほどの権力を持てたのは、「主席のろれつがまわらない言葉を理解できる」ただ一人の人間だったからだ、と主席の主治医だった李志綏博士が回想している(「毛沢東の私生活」文春文庫)◆重病説が流れた北朝鮮の独裁者、金正日総書記の周辺でも、そんなドラマが展開しているのだろうか。韓国メディアは、総書記の病床に付き添う夫人の金オク氏が、影響力を強めている、と伝えている◆総書記の病状について、「マヒが残る」とか、「精神的に無気力」とか、いや「言語障害はなく歯磨きができるほどに回復した」など、諸説かまびすしい。倒れたのが事実なら、水面下で権力闘争が始まったと見るのが自然だろう◆中国では、結局は改革開放派が勝利して華国鋒は失脚した。後継がどうなろうと、いまの路線に固執する限り、北朝鮮に未来はない。

9月22日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

9.21.2008

高齢者を支える大切な役どころ・・・ 編集手帳 八葉蓮華

高齢者を支える大切な役どころ・・・ 編集手帳 八葉蓮華
歌舞伎ファンの中でも、「後見」のうまさを評価できる人は通だろう。後見とは、役者の陰で衣装の早変わりを助けたり、小道具を受け渡したりする役目だ◆黒衣(くろご)、といった方が通りはいいかもしれぬが、必ずしも黒い装束を着ているわけではない。先ごろ観(み)た「勧進帳」では鬘(かつら)をかぶり、裃(かみしも)をつけていた。歌舞伎十八番の演目などは「裃後見」といって姿を消さない。しかし、目障りとはならずに主役を助ける◆勧進帳では弁慶が激しく舞いながら、いろいろと手放したり、受け取ったりするので、後見の役割はとりわけ重要だ。息が合わないと小道具のやりとりでケガをすることもある。もちろん、通から聞いた受け売りである。人を補佐することを後見と呼ぶ意味を得心した◆「成年後見人」という言葉を耳にしたことがおありだろう。認知症のお年寄りの財産を悪徳業者などから守る。背後で居住まいを正しつつ、さりげなく高齢者を支える大切な役どころだ◆21日は世界アルツハイマーデー。各地で認知症について考える催しが開かれる。現代の裃後見と、その仕事をきちんと評価する“通”を増やしたい。

9月21日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

9.20.2008

哀しいかな自分が消えていく・・・ 編集手帳 八葉蓮華

哀しいかな自分が消えていく・・・ 編集手帳 八葉蓮華
まど・みちおさんに「けしゴム」という短い詩がある。〈じぶんでじぶんを/けしたのか/いまさっきまで/あったのに〉。消しゴムというのは不思議なもので、何かを消しながら自分が消えていく。消しゴムのような人もいる◆政府が「食品の安全確保をお約束します」と鉛筆で綴(つづ)る尻から、尻から、消しゴム閣僚がお粗末な発言でせっかくの文字を消してしまう。いわく「消費者がやかましいから」、いわく「(汚染米で)ジタバタしない」◆発言の主、太田誠一農相が汚染米問題の責任を取って辞任した。24日の内閣総辞職まで任期をわずか数日残して異例の退場である。解散・総選挙の日程が固まりつつあるなかで、自民党もかばうにかばえなかったのだろう。騒々しい限りである◆信頼回復に努める政府の姿勢を、閣僚みずからが不用意な発言で打ち消した末に、哀(かな)しいかな自分が消えていく。「美しい国づくり」と書きかけて芯の折れた鉛筆があり、「安心実現」と書きかけて折れた鉛筆があり、筆箱のなかは傷だらけである◆3本目の鉛筆も折れ芯ならば、筆箱はお払い箱と名を変えねばなるまい。

9月20日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

9.18.2008

「官僚体質」寝テ居ルモ奉公ナリ・・・ 編集手帳 八葉蓮華

「官僚体質」寝テ居ルモ奉公ナリ・・・ 編集手帳 八葉蓮華
主君に仕え、たくさんの禄高(ろくだか)をもらい、それでいて仕事はせずに一生を寝て過ごす。そういう武士も、じつは世のなかの役に立っていると述べたのは江戸期の儒学者、荻(お)生(ぎゅう)徂徠(そらい)である。〈寝テ居ルモ奉公ナリ〉と◆俸禄が家族を養い、友人知己の生活を助け、消費に回り、めぐりめぐって世を潤すからだという。「太平策」(岩波書店「日本思想大系36」)の一文を読んだ当座は首をかしげたが、いまではひそかにうなずいている◆厚生年金の記録改竄(かいざん)に社会保険庁が組織的に関与した疑いが濃厚であることを、舛添要一厚生労働相が認めた。支給額算定にかかわる数字の改竄で、疑わしい記録は約7万件あるという◆有害な改竄に比べれば無益な居眠りのほうが、国民生活にどれほど益するか知れない。徹底した調査と厳正な処分あるのみだが、社保庁の不祥事でこの言葉を口にするのは何度目だろう◆次の首相に誰がなるにしても、野党より手ごわい「官僚体質」という敵のいることを忘れてはなるまい。職は安定、給料は税金、それで仕事ぶりは〈寝テテクレタホウガ、マダマシ〉の役人衆には懲り懲りである。

9月19日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

ジタバタ「眼は節穴、耳はきくらげ」・・・ 編集手帳 八葉蓮華

ジタバタ「眼は節穴、耳はきくらげ」・・・ 編集手帳 八葉蓮華
仮名垣魯文(かながきろぶん)の「西洋道中膝栗毛(ひざくりげ)」に、洞察力のお粗末な北八を弥次郎兵衛がやりこめる場面があった。〈てめへなんざア、眼は節穴、耳はきくらげ(きのこの一種)どうぜんだから…〉◆その啖呵(たんか)を、見えて当然のものを見落としてきた農水省に贈る。汚染米を食用に横流ししていた「三笠フーズ」(大阪市)に100回近くも立ち入り調査をして不正を見抜けないとは、何を、どう調べていたのだろう◆元帳を見れば、出荷先が食品関係かどうかは分かる。元帳を偽っていても、出荷先に問い合わせれば偽装は容易に見抜ける。〈書物(かきもの)を見ても、白紙(しらかみ)えまんべんなく、黒イ物がつイてゐると思ふのだらう〉とは弥次郎兵衛の言葉だが、節穴で上っ面をなでる調査であったに違いない◆三笠フーズから飲食の接待を受けていた職員もいる。知らずに汚染米を買わされて信用を落とし、客離れにおびえる菓子店などの経営者から、農水省に怨嗟(えんさ)の声が上がるのは当然だろう◆太田誠一農相はテレビ番組に出演の折、「人体に影響がないので、あまりジタバタ騒いでいない」と語った。立派な“きくらげ”をお持ちである。

9月18日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

9.17.2008

“綱渡り“世界の金融・証券市場・・・ 編集手帳 八葉蓮華

“綱渡り“世界の金融・証券市場・・・ 編集手帳 八葉蓮華
日露戦争の直後に生まれた人には「勝利」や「喜久子」など、戦勝を祝う名前が少なくない。慶応義塾大学の元塾長、佐藤朔(さく)さんのように本名「勝熊」と命名された人もいる。熊(くま)はロシアのことという◆大国を相手に、戦費の大半を借金で賄った綱渡りの戦争である。ほっと胸をなでおろして沸き立つ世相が、さまざまな命名にしのばれる。綱渡りでは戦費調達をめぐる幸運も忘れがたい◆苦心惨憺(さんたん)していた日本銀行副総裁、高橋是清は英国に滞在中、ひとりの米国人と夕食の席に隣り合わせたのが縁で、彼の経営する証券会社から必要額を得る約束を取り付けた。クーン・ローブ商会という◆その“救いの神”をのちに合併したのがリーマン・ブラザーズである。一昨日、64兆円の負債を抱えて破綻(はたん)した。創業158年、日本の近代史とも袖すり合う名門証券を呑(の)み込んだ金融危機の大津波に、世界の金融・証券市場が震え、青ざめている◆米国では市場の強気を「ブル=雄牛」といい、弱気を「ベア=熊」という。リーマンの次は――ベアが世を覆うなか、危機収束に胸をなでおろす「勝熊」の時はまだ見えない。

9月17日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

9.15.2008

子供たちの悲惨な状況から・・・ 編集手帳 八葉蓮華

子供たちの悲惨な状況から・・・ 編集手帳 八葉蓮華
日本ユニセフ協会大使を務めるアグネス・チャンさんは、視察先のタイで幼い子供が客と共に売春宿に入るのを目撃したとき、涙が止まらなかったという◆人身売買を告発した映画「闇の子供たち」が反響を呼んでいる。タイの貧しい家庭の子らが売春宿に密売されて、幼児性愛者から虐待を受ける。児童ポルノの被写体や臓器提供者にもさせられ、エイズに感染した子は、ゴミ袋に入れられ捨てられる◆原作は梁石日(ヤンソギル)さんの小説だが、日本ユニセフ協会によると、これに似た事例は世界各地から報告されているという。18歳未満の人身売買被害者は、年間120万人以上と推定されている◆11月にはブラジルで、政府や民間団体が参加して「児童の性的搾取に反対する世界会議」が開催される。深刻化するインターネット上の児童ポルノの拡散問題も話し合われる◆国際捜査協力を進めるため、児童ポルノの所持を禁止する児童買春・児童ポルノ禁止法改正案が与党から先の通常国会に提出された。法案は継続審議となっている。議論は進んでいないが、世界の子供たちの悲惨な状況から目を背けることは出来ない。

9月15日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

9.14.2008

見てくれだけピカピカの対策・・・ 編集手帳 八葉蓮華

見てくれだけピカピカの対策・・・ 編集手帳 八葉蓮華
とびきりの笑顔で金メダルにかじりつく。夏の北京五輪で何度となく目にしたシーンである。金は純度が高いほどやわらかい。メダルをかむポーズは、金貨が本物かどうか確かめたころの名残といわれる◆時代劇の岡っ引きも、ニセ小判をかじって見破る。金の比率が9割の慶長小判ならわかるが、これに銀を加えて作り直した元禄小判は半分近くが銀だ。本物であっても、歯形がつくほどやわらかくなかったろう◆小判の地金も半分近くが銀だと白くなる。ところが、元禄小判は純金のような黄金色に輝いている。秘密は「色揚げ」と呼ばれる独特の仕上げにある。複数の酸化化合物を塗って火であぶると銀だけ溶け出し、表面はほとんど純金になる◆政府・与党がまとめた12兆円の経済対策で使われる予算は2兆円ほど。国の支出は4000億円なのに、中小企業への融資を9兆円追加できると勘定するなど、色揚げの技術が用いられている。金ならぬカネの水増しは小判の比ではない◆見てくれだけピカピカの対策を、「さあ、かじりなさい」と差し出されても、メダリスト並みの笑みがこぼれる人は稀(まれ)だろう。

9月14日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

9.13.2008

人間さまは恩知らずで・・・ 編集手帳 八葉蓮華

人間さまは恩知らずで・・・ 編集手帳 八葉蓮華
児童文学の古典、ロフティング著「ドリトル先生アフリカゆき」で、犬と豚が口論をする。犬が豚を罵(ののし)って言った。「トンカツの生きたの!」(井伏鱒二訳)◆ずいぶんと口の達者な犬だが、豚泣かせでは人間も犬のことは言えない。「豚に真珠」「豚もおだてりゃ木に登る」「ブタ箱」…等々、豚の身になれば人の世は心痛む言葉で満ちている◆米大統領選で民主党オバマ候補が共和党マケイン候補の唱える「変革」を「口紅つけても豚は豚」と揶揄(やゆ)し、物議を醸した。女性の副大統領候補ペイリン氏を中傷したとマケイン陣営は非難している◆政策構想のお粗末な内実と、ちょっと見のいい外観を対比する喩(たと)えが「豚と口紅」であるならば、わが永田町でもこれから与野党が互いに相手を指さして、似たような応酬がはじまるだろう。洋の東西を問わず、しばらくは豚に受難の季節がつづく◆きのう、街で買ったトンカツ弁当を昼食に食べた。ボリュームといい、手ごろな値段といい、お役に立っているのに人間さまは恩知らずで…と、豚の苦情が聞こえてきそうである。ブーイングと呼ぶのかどうかは知らない。

9月13日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

9.12.2008

有り金を残らず胃袋に・・・ 編集手帳 八葉蓮華

有り金を残らず胃袋に・・・ 編集手帳 八葉蓮華
健康が元通りに回復してくれたら、あとは何も要らない。重い病を得た人は誰しもそう思う。〈病気の時ほど、人は寡欲(かよく)になることはない〉とは詩人、萩原朔太郎が随筆「病床生活からの一発見」に記した言葉である◆とはいえ、冥土(めいど)の旅の路銀にするつもりか、有り金を残らず胃袋に納めて世を去った落語「黄金餅(こがねもち)」のような病人もいるから、寡欲になるか、強欲で通すかは人物によるのかも知れない。その人はさて、どちらだろう◆北朝鮮の独裁的な指導者、金正日総書記(66)の健康状態をめぐる情報が流れた。脳卒中か脳出血を起こしたようだ、という。風通しの悪い国のことで、本当のところはよく分からない◆核の脅威を“輸出産品”に仕立て上げ、押し売りまがいの取引で諸外国から食料や資源をせしめてきた。邪悪な欲心が病気によって亢進(こうしん)するのか、減退するのか気にかかるところである◆悪人が深い手傷を負ったときなどに、隠された真実を語って善心に立ち返ることを歌舞伎の用語で「もどり」という。一片の良心が胸にあるならば、その人も「もどり」の病床で拉致事件の真実を語るがいい。

9月12日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

9.11.2008

野党から茶番と批判される総裁選・・・ 編集手帳 八葉蓮華

野党から茶番と批判される総裁選・・・ 編集手帳 八葉蓮華
自宅のそばに商店街がある。豆腐店と精肉店が軒を並べ、何軒か隔てて青果店がある。散歩の行き帰りに水槽の豆腐を見、肉の棚を見、ネギや白菜の山を見ると、「寄せ鍋もいいな」と思う◆鍋の季節には早いが、山口青邨(せいそん)の一句、〈寄鍋やむかしむかしの人思ふ〉秋の夜もわるくないと。目に映る別個の食材が、頭のなかの鍋で煮える。妙な連想だが、5氏の立候補した総裁選に込めた自民党の思惑もこの“空想鍋”にあるかも知れない◆経験の人あり、若さの人あり、初の女性あり、分野分野の政策通あり…多様な食材が有権者の脳裏でぐつぐつ湯気を立て、食欲を刺激することができれば、秒読みに入った解散・総選挙で有利に働くと読んでいるだろう◆所詮(しょせん)は空想の鍋で、ネギさんであれ、豆腐さんであれ、総裁の座を射止めるのは一人である。それでも、討論会や遊説を通じて互いの政見をじっくり煮込み、灰汁(あく)を取り、新内閣の政策運営にうまい出汁(だし)が残るのならば、野党から茶番と批判される総裁選もその意義は小さくない◆変な甘味料に舌がだまされるのを注意しつつ、各候補の政見を聴くとしよう。

9月11日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

9.10.2008

「事故米」カビや農薬に汚染され、どこぞの・・・ 編集手帳 八葉蓮華

「事故米」カビや農薬に汚染され、どこぞの・・・ 編集手帳 八葉蓮華
夜店の道具屋でノコギリを売っている。火事場の焼け跡で見つけた拾い物で、さびを落として油を塗り、柄を付け替えただけだから板の一枚も切れない。「置いといたら、どこぞのアホが買(こ)うていくやろ」。落語「道具屋」である◆大阪の会社「三笠フーズ」も「どこぞのアホが知らずに食うねやろな」とでもつぶやき、売り上げを勘定していたか。食の安全を揺るがす偽装は、無邪気なノコギリに比すべくもない◆カビや農薬に汚染され、本来は工業用にしか販売できない「事故米」を、酒造会社などに正規の食用米と偽って卸していた。安い事故米と食用米の価格差に目をつけた利ざや稼ぎである◆農水省は1年半も前から不正を告発する情報に接し、立ち入り調査もしながら“シロ”と判定していた。事故米の販売先を一つひとつ丹念につぶしたかどうか。「調べに来よったで、どこぞの…」となめられるような、上っ面の調査だった疑念が残る◆信用を粗末にし、卑しい稼ぎに走った企業の行く末には、いくつかの先例がある。切れないはずのノコギリが会社の屋台骨に刃を立てる音を、経営者は聴くだろう。

9月10日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

9.09.2008

“くさい物に蓋”人が騒ぎ立てるから・・・ 編集手帳 八葉蓮華

“くさい物に蓋”人が騒ぎ立てるから・・・ 編集手帳 八葉蓮華
モリエールの喜劇「タルチュフ」で、詐欺師タルチュフが言う。〈悪事が悪事になるのは人が騒ぎ立てるからですよ。こっそり罪を犯すのは罪を犯すことにはなりません〉(第4幕)◆この言葉が脳裏をかすめたのは昨年の6月、時津風部屋で17歳の力士が親方や兄弟子から暴行を受けて死亡したときである。3か月後、文部科学省に催促されるまで日本相撲協会は親方から事情を聞きもしなかった。騒ぎになって初めて腰を上げる◆同じ言葉が再びかすめたのは、露鵬、白露山両力士の大麻吸引疑惑をめぐり、北の湖理事長の言葉を漏れ聞いたときである。「クロの判定が出たら、別の検査機関で調べればいい」「二人が秋場所に出場するのも構わない」。世間よ、あまり騒ぎ立てるな――と言ったにも等しい◆世の批判に浴びせ倒しを食う形で、北の湖理事長が引責辞任した。タルチュフ流か悪事そのものには鈍感で、悪事が露見して騒がれることに神経をとがらす。相撲界の安住してきた“くさい物に蓋(ふた)”主義の破綻(はたん)である◆力士の正装は裸という。古傷も生傷も人目にさらし、協会は褌(ふんどし)一つで出直すしかない。

9月9日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

9.08.2008

残ったものを最大限に活かそう・・・ 編集手帳 八葉蓮華

残ったものを最大限に活かそう・・・ 編集手帳 八葉蓮華
クーベルタン男爵の姉の孫、ジョフリー・ナバセル・ド・クーベルタン氏が語っている。「大叔父が蘇(よみがえ)ったら、教育的価値が少ないと言って、五輪廃止に動くかも知れないねえ」(結城和香子著、オリンピック物語)◆今ならば近代五輪の父は、金メダル至上主義やドーピング問題に揺れるオリンピックよりも、パラリンピックに力を入れたことだろう。五輪の行き過ぎた面がこちらには広がらぬよう願いたい◆パラリンピックの礎を築いたグットマン卿は言った。「失ったものを数えてはいけない。残ったものを最大限に活(い)かそう」。残酷にも響く、厳しい言葉である。それを真正面で受け止める所から障害者のスポーツは始まるのだろう。パラリンピックのアスリートたちは、五輪選手以上に観客の心を揺さぶる◆わが身を眺めてみれば四肢をはじめ失ったものはなく、その幸いを当たり前と思い込んできた。天賦の才の乏しさを嘆くことに時を費やし、では与えられたものは活かし切っているのか、と問われれば首を振るしかない◆北京の聖火台に再び火が点(とも)った。本当に見たいドラマが、これから始まる。

9月8日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

9.07.2008

大麻の陽性反応 科学的証拠なんぞは・・・ 編集手帳 八葉蓮華

大麻の陽性反応 科学的証拠なんぞは・・・ 編集手帳 八葉蓮華
実力を超えて番付が上がり、手ごわい相手との取組がつづいて黒星を重ねる。相撲の用語で「家賃が高い」という。日本相撲協会の北の湖理事長にとって、理事長職は家賃が高すぎたかも知れない◆露鵬、白露山両力士の尿から精密検査でも大麻の陽性反応が出た。「吸っていない」という二人の主張の真偽は明らかでないが、一連の騒動を通して分かったことが一つある。北の湖理事長に備わる見識の分量である◆陽性と出たら、別の検査機関で調べ直す手もある。二人が秋場所に出場するのも差し支えない…。検査結果の判明する前、理事長は報道陣に意向を語った。「当人たちが絶対やってないと言っているのだから」と◆大麻であれ、暴力事件であれ、その他の不祥事であれ、科学的証拠なんぞは糞(くそ)くらえで庇(かば)ってやるぞ。しらを切り通せ――と述べたわけではないが、そう聞き違えた力士がいなかったかどうか。疑惑の目で見られている組織の長が語る言葉ではない◆理事長職に見合う見識、常識を、いまから促成で養うのはむずかしかろう。ひとりの親方に戻り、家賃の払えるところに引っ越すのもいい。

9月7日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

9.06.2008

首相がころころ交代し・・・ 編集手帳 八葉蓮華

首相がころころ交代し・・・ 編集手帳 八葉蓮華
清少納言は「枕草子」のなかで、〈人にあなづらるるもの〉(侮られるもの)を二つ挙げた。一つは〈築土(ついじ)のくづれ〉(土塀の崩れ)、もう一つは〈あまり心善(よ)しと、人に知られぬる人〉(極度のお人好(ひとよ)し)だと◆民主党も人に例えれば、お人好しの部類だろう。一昨日、「メディア対策チーム」の初会合を開いた。政治報道が自民党総裁選一色にならぬよう、世の関心を民主党に引き寄せる対策を話し合うという◆「これから面白いことを言います」と前置きされたら、どんな冗談も人は笑ってくれない。「これからお世辞を言います」と前置きされたら、どんな美辞麗句も人は喜んでくれない。「これから皆さんの気を引く行動に出ます」と前置きされたら…◆前置きなしでやればいいものを、胸に秘めておく思惑もガラス張りにして見せる“うぶ”なところが、党の持ち味かも知れない。術策や駆け引きの巧拙が国益を左右する外交の場などでは、あまり発揮してほしくない持ち味ではある◆首相がころころ交代し、与党は与党で〈築土のくづれ〉が目立つ。いまの政局を見るようで、枕草子の数行はほろ苦い。

9月6日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

9.05.2008

人はいつか煙になり、灰になる・・・ 編集手帳 八葉蓮華

人はいつか煙になり、灰になる・・・ 編集手帳 八葉蓮華
「東海道中膝栗毛(ひざくりげ)」で知られる戯作者、十返舎一(じっぺんしゃいっ)九(く)に辞世の狂歌がある。〈此世(このよ)をばドリヤお暇(いとま)に線香のけむりとなりて灰(はい)左様(さよう)なら〉◆人はいつか煙になり、灰になる。人生の無常転変を映すものが灰ならば、その対極にある悠久不変の象徴は何だろう。「永遠の輝きを」という宝飾店の広告に従えば、ダイヤモンドがそうかも知れない◆故人の遺灰を高温・高圧で処理し、人造ダイヤをつくっているスイス企業の記事を、きのうの国際面で読んだ。1人分の遺灰から最大1カラットのダイヤができ、最低価格は80万円ほどという◆日本を含む国内外から月にして約60件の注文があるというから、なかなか繁盛している。亡き人にいつも触れていたい、片ときも離れたくない、という人は多いのだろう◆アンジェイ・ワイダ監督の映画「灰とダイヤモンド」に引用された詩の一節を思い出す。〈永遠の勝利の暁に、灰の底深く/燦々(さんさん)たるダイヤモンドの残らんことを〉。人生に「永遠の勝利」は望むべくもないが、「燦々」は望めばかなう時代であるらしい。好みとしては硬い石になるよりも、千の風に心ひかれるけれど。

9月5日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

9.04.2008

職を離れる最後の1分1秒まで・・・ 編集手帳 八葉蓮華

職を離れる最後の1分1秒まで・・・ 編集手帳 八葉蓮華
平清盛の意向により、京の都が福原(いまの神戸市)に移されたのは1180年である。〈古京はすでに荒れて、新都はいまだ成らず〉。家々を壊しては新都の予定地に運ぶ光景を見て、鴨長明は「方丈記」に書いている◆古い都は捨てられようとしているのに、新しい都は形もない。当節の不安にも通じるようである。「新都」選びの前に、「古京」福田内閣が荒れては困る◆首相はきのう、年1回の自衛隊高級幹部会同を、代理役も立てずに欠席した。退陣を表明したとはいえ、自衛隊の最高指揮官である。国民に意思を伝える機会でもある官邸でのいわゆる「ぶら下がり取材」も、残る在任期間中はもう受けないという◆遷都騒ぎのさなかに源頼朝が伊豆で挙兵し、平氏は滅亡への道を歩み出す。いつの世も国難は時を選ばない。心労あり、気落ちありで、胸の内は拝察するが、職を離れる最後の1分1秒まで国政に微塵(みじん)も隙(すき)を見せないのが、首相たる人の務めだろう◆〈…人は皆、浮雲の思ひをなせり〉。都不在の世を覆った不安を「方丈記」の作者は書き留めている。短い期間でも、浮雲にはなりたくない。

9月4日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

9.03.2008

「美しい国」「安心実現」さよなら・・・ 編集手帳 八葉蓮華

「美しい国」「安心実現」さよなら・・・ 編集手帳 八葉蓮華
小さな演芸場では昔、出演者の芸に客席が退屈しているとき、ある細工をした。係員が間違えたふりをして幕を1~2寸おろし、すぐに戻したという◆終演が近いことを客に伝えて救いを与えたと、新内節の名人といわれた岡本文弥さんが随筆「芸渡世」に書いている。不評だからと高座を投げ出すのではなく、不評であっても高座を全うする、そのための細工である◆福田内閣の人気は確かに、幕を1~2寸おろしていいほど低迷していたが、演目の半ばで「不評のようですね、じゃ、さよなら」と舞台をおりられては誰しも、木戸銭を返せ、となろう◆発声の達人は息をすべて声に変え、ロウソクの前で歌っても炎は微動もしないという。ねじれ国会の難しさはあったにしても、ため息や吐息のみ多くして、国民に意思や決意を伝える声をついに持ち得なかった責任は、首相その人にある。みずからの息で、政権の炎を吹き消した◆次期首相に求められるのは何よりも、息をしっかり声にする能力だろうが、「美しい国」「安心実現」の演目二題を続けざまにしくじり、荒れた舞台である。誰にせよ、覚悟がいる。

9月3日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

9.02.2008

「辞意表明」傷つくことを恐れた弱さ・・・ 編集手帳 八葉蓮華

「辞意表明」傷つくことを恐れた弱さ・・・ 編集手帳 八葉蓮華
「憲政の父」といわれた尾崎行雄の詠んだ歌がある。〈国よりも党を重んじ党よりも身を重んずる人のむれ哉(かな)〉。1950年(昭和25年)の作という。昨夜、福田首相の突然の辞意表明を聞き、一首を思い浮かべた◆記者会見で幾つかの理由を挙げていたが、要するに「私が総理では自公両党の仲が保てないので…」というのだろう。内政、外交の懸案は横に置き、解散・総選挙の時期から逆算して「国よりも党を重んじた」印象は否めない◆首相の椅子(いす)をおりるのだから身は重んじていませんよ――福田さんはそう言うかも知れない。そうか。政権を担ってからというもの、低姿勢の落ち着いた物言いに国民は触れこそすれ、泥まみれになって捨て身で語る首相の言葉を耳にしたことがない◆尾崎流の雄弁は求めぬまでも、背水の陣を敷いた人の血を吐くような肉声が聴きたかった。国民の多くは出処進退の潔さよりも、傷つくことを恐れた弱さを感じ取っていよう◆尾崎は号を「咢堂(がくどう)」といった。意表をついた首相の辞意も確かに国会議事堂の内外を愕然(がくぜん)とさせたが、号だけ「憲政の父」に似せても仕方がない。

9月2日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge

9.01.2008

立ち上がる農山漁村・・・ 編集手帳 八葉蓮華

立ち上がる農山漁村・・・ 編集手帳 八葉蓮華
「どさ」「ゆさ」という津軽弁は、「どごさ行ぐの」「湯さ行ぐどご」の省略である。「ナンバ」も表現を短くする例だろう。16世紀にポルトガル人が日本に唐辛子を伝えたとされ、南蛮辛子と呼ばれた。津軽でナンバは唐辛子を指す◆北国に唐辛子をもたらしたのは、あご髭(ひげ)が長く、髭殿の異名を持つ津軽藩初代藩主の津軽為信だった。京都から持ち帰り、城下で栽培させたという。地元に根づいて、昭和の一時期には、全国有数の産地に育った◆平成になると、輸入トウガラシなどに押されて栽培農家が激減し、存続が危ぶまれたこともある。弘前市内の産地名をつけた「清水森ナンバ」と命名し、地域ぐるみで復活を目指したのは約4年前だった◆今は栽培農家が増え、辛みと風味が特徴の弘前在来のブランドとして商標にもなっている。国の「立ち上がる農山漁村」などに選ばれた地域活性化のモデルである◆秋めいてきた弘前の畑では、赤と青のナンバの収穫が始まった。為信公の銅像が弘前城近くに立つ。手ずから蒔(ま)いた地域振興のタネが育って旧城下が潤う。自慢の髭がぴくりと動いたように見える。

9月1日付 編集手帳 読売新聞

八葉蓮華、Hachiyorenge